藤舎の紋 藤舎名玄TOSHA MEIGEN ― 詞章ライブラリーへ戻る
常磐津

関の扉せきのと

常磐津  劇神仙 述  本名題『積恋雪関扉』  作曲者・初演年不詳

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関の扉 雪中の小町桜
雪中の小町桜

逢坂の関。関守関兵衛は、実は天下を望む大伴黒主。良峯宗貞と小町姫の恋物語のうちに黒主の企みが露れ、下の巻では小町桜の精・墨染が遊女の姿で現れて黒主と渡り合う。常磐津の代表曲。原典は上下二巻に分けて載せるが、一曲なのでここではひと続きにした。

あらすじ

逢坂の関。関守の関兵衛が柴を刈る傍らで、良峯宗貞が琴を弾く。そこへ三井寺へ参ると偽って小町姫が訪れ、関を通してほしいと願う。関兵衛は手形がないと拒むが、宗貞のとりなしで通す。小町と宗貞は再会を喜び、関兵衛に請われて馴れそめの恋を語る。大内山の月の宴に垣間見た日から百夜通いの誓いまで——だが先帝の崩御に恋も無常と変わり、宗貞は位を辞して布留の寺に籠もった。関兵衛は七夕祭になぞらえて二人の仲を取り持とうとするが、そのはずみに懐から割符を落とす。やがて白尾の鷹が血染めの片袖を運び、弟安貞が兄に代わって死んだと知れる。土中から現れた八声の名鏡と、二つの割符を合わせれば「鏡山」の文字。宗貞は関守の正体を怪しみ、小町を篁のもとへ走らせる。——夜、宗貞は血染めの片袖を琴の下に隠して奥へ入る。一人になった関兵衛は酒に酔い、盃に映る星に己の望みを語る。今宵こそ小町桜を伐って護摩木とし、班足太子の塚の神を祭れば大願成就と、斧を研ぎ立てる。試しに琴を斬れば中から血染めの片袖が出、懐の勘合の印はひとりでに桜の梢へ飛び去る。桜を伐ろうとすれば目がくらみ、あとへたじろぐ。そこへ深雪に積もる桜の影から、墨染と名のる遊女が現れる。撞木町から逢いたさに来たという女に、関兵衛は有頂天になり、廓の駆け引きを語らせる。忍び頭巾の格子先から床の上まで、口舌に痴話に踊り舞ううち、落ちた袖を墨染が取り上げて泣く。それは弟の血染めの片袖であった。関兵衛は睨みつけて素性を問い、みずから中納言家持の嫡孫、天下を望む大伴の黒主と名のる。女もまた、小町桜の精魂であり、五位之助安貞と契った身だと明かす。わが本性の桜木を邪慳の斧にかけたその報いを思い知れ——桜を笞に打ちかかる。黒主は斧を取り直して打ちかかるが、精霊は身も軽くひらりひらりと吹雪の桜のように飛びかい、霞隠れ、朧夜の水の月影のように手にも取られない。今こそ人界の輪廻を離れて根に帰るしるしを見よ、という声ばかりを残して形は消え、桜木に帰り花が咲く。墨染の小町桜として世に広く、あまねく筆に書き残されたのであった。

詞章と現代語訳

待得まちえて今いまぞ時ときにあふあふ、関路せきぢをさして急いそがん、むかしむかし往昔噺むかしばなしの其様そのやうに、しばしば似にたる柴刈しばかりも、関屋せきや守まもる身みの片手業かたてわざ、柴しばを束たばねてかいやり捨すて、五尺ごしやくいよこの手拭てぬぐひ、五尺ごしやく手拭てぬぐひ中なかそめたしよんがへ

待ち得て今ぞ時に逢う。関路をさして急ごう。むかしむかしの昔話のように、しばしばに似た柴刈りも、関屋を守る身の片手わざ。柴を束ねてかいやり捨て、五尺いよこの手拭、五尺手拭の中染めた——しょんがえ。

樵夫きこりの歌うたも世よを厭いとふ、身みにつまされて偲しのばしく、忘わするる心こころに取敢とりあへず、手馴てなれし琴ことを調しらべける、恨うらめしや我縁わがえん

樵夫の歌も世を厭うわが身につまされて偲ばしく、忘れようとする心にとりあえず、手馴れた琴を調べる。恨めしや、わが縁よ。

ハテしほらしい音色ねいろぢやな

「はて、しおらしい音色じゃな」

斯かかる山路やまぢの関扉せきのとに、さしも妙めうなる爪音つまおとを、聞きくに付つけても身みの上うへを、思おもひ出いだせば錦にしきの帷帳ゐちやう、玉たまの台うてなに人ひととなり、翡翠ひすゐの簪飾かんざし妍あでやかに、ある人ひとは初花はつはなの

このような山路の関の扉で、これほど妙なる爪音を聞くにつけても、わが身の上を思い出す。錦の帷帳、玉の台に人となり、翡翠の簪もあでやかに——ある人は初花の。

雨あめに綻ほころぶ化粧けしやうとは、女子をなごをのぼす懸言詞かけことば

雨に綻ぶ化粧とは、女をのぼせさせる掛けことばよ。

今いまは夫それには引替ひきかへて、草くさの衣ころもや袖そでせばき、姿すがたを隠かくす蓑笠みのかさや

今はそれに引きかえて、草の衣は袖も狭く、姿を隠す蓑笠よ。

杖つゑを力ちからにたどたどと関扉せきのと近ちかく歩あゆみ寄よる

杖を力にたどたどと、関の扉近くへ歩み寄る。

宗貞むねさだ琴ことを鎮しづめ給たまひ、雪ゆき降ふれば冬籠ふゆごもりせる草くさも木きも、春はるに知しられぬ花はなぞ咲さける、何なんと関兵衛せきべゑどうも言いはれぬ景色けしきではないか

宗貞は琴を鎮めて——「雪降れば冬籠りせる草も木も、春に知られぬ花ぞ咲きける。何と関兵衛、どうも言いようのない景色ではないか」

成程なるほど左様さやうで御座ござります、此この雪ゆきを肴さかなに一ひとつたべたらよう御座ござりませう、と話はなしの中うちに小町姫こまちひめ、関せきの外面とのもに立休たちやすらひ、申まうしちと御案内ごあんない申まうしませう

「なるほど左様でございます。この雪を肴に一つやったらようございましょう」——と話すうちに、小町姫が関の外に立ち休らい、「もし、ちとご案内申しましょう」

あれ関扉せきのとに誰たれやら案内あんないがあるぞや

「あれ、関の扉に誰やら案内を乞う者があるぞや」

何なに案内あんないとは何者なにものぢやと関兵衛せきべゑが、関扉せきのと開ひらいて

「何、案内とは何者じゃ」と関兵衛が関の扉を開いて。

アア貴様きさまは女をんなぢやな、此この夕暮ゆふぐれに供ともを連つれず只ただ一人ひとり、此この関せきへは何故なにゆゑ来きたのぢや

「ああ、貴様は女じゃな。この夕暮れに供も連れずただ一人、この関へは何ゆえ来たのじゃ」

アイ私わたしや三井寺みゐでらへ参詣さんけいの者もの、関せきを通とほして下くださんせ

「あい、私は三井寺へ参詣の者。関を通してくださんせ」

成程なるほど通とほりたくば通とほしてもやらうが手形てがたがあるか、其様そのやうなものは御座ござんせぬはいなア

「なるほど、通りたくば通してもやろうが、手形があるか」——「そのようなものはございませぬわいなあ」

手形てがたがなくば通とほす事ことはならんならん

「手形がなくば通すことはならん、ならん」

コレ其様そのやうに言いはずとも、此この大雪おほゆきで嘸さぞ難義なんぎであらう、了簡れうけんして通とほしてやりやいのう

「これ、そのように言わずとも。この大雪でさぞ難儀であろう。了簡して通してやりやいのう」

さう仰有おつしやれば通とほしてもやりますが、これ女中ぢよちうそんなら俺おれが尋たづねる事ことがあるが、夫それを一々いちいち答こたへるか

「そうおっしゃれば通してもやりますが。これ女中、そんなら俺が尋ねることがあるが、それを一々答えるか」

成程なるほど私わたしが覚おぼえて居ゐることなら、何なになりと答こたへませうわいなア

「なるほど、私が覚えていることなら何なりと答えましょうわいなあ」

先まづ第一だいいち合点がつてんがいかぬ

「まず第一、合点がいかぬ」

そりやマア何なにがへ

「そりゃまあ、何がえ」

サア其その訳わけは

「さあ、そのわけは」

一体いつたいきさまの風俗ふうぞくは、花はなにも勝まさる風姿ふうし

「一体きさまの姿は、花にも勝る風姿」

桂かつらの粉黛ふんたい青あをうして、又またとあるまい

「桂の粉黛は青うして、またとあるまい」

お姿すがたを、お公卿くげさん方がたお屋敷やしきさん、多おほくの中なかで見初みそめたら、只ただは通とほさぬ筈はずなれど、其処そこを其儘そのまま捨置すておくは

「そのお姿を、お公卿さん方お屋敷さん、多くの中で見初めたら、ただでは通さぬはずなれど、そこをそのまま捨て置くのは」

生野暮なまやぼ薄鈍うすのろ情なさけなし苦くなしを見みるやうに、悪洒落わるじやれいふたり大通だいつう仕打しうちもあるまいが、何どういふ理屈りくつか気きが知しれぬきがしれぬ

生野暮の薄のろ、情なし苦なしを見るように。悪洒落を言ったり大通ぶった仕打ちもあるまいが、どういう理屈か気が知れぬ、気が知れぬ。

いやとよ我われは恋衣こひごろも、早はや脱捨ぬぎすてて烏羽玉うばたまの、墨すみも袂たもとの垂乳たらちの、後のちの世よ願ねがふ菩提心ぼだいしん、褐食かつじきの身みにてさふらふぞや

「いやとよ、われは恋衣を早や脱ぎ捨てて、ぬばたまの墨染の袂。垂乳の母の後の世を願う菩提心、乞食の身にてそうろうぞや」

ホウ言葉ことばは殊勝しゆしように聞きこゆれど、菩提ぼだいの道みちに入いりながら、何故なにゆゑ黒髪くろかみを剃そらぬのぢや

「ほう、言葉は殊勝に聞こえるが、菩提の道に入りながら、なぜ黒髪を剃らぬのじゃ」

姿すがたは世よをも厭いとはばこそ、心こころで厭いとふて居ゐるわいな

「姿で世を厭うのではなく、心で厭うておるわいな」

シテ煩悩ぼんなうとは

「して、煩悩とは」

菩提ぼだいなり

「菩提なり」

提婆だいばが悪あくも

「提婆が悪も」

観音くわんおんの慈悲じひ

「観音の慈悲」

又また槃得はんどくが愚痴ぐちも文珠もんじゆの智恵ちゑ

「また槃特の愚痴も文殊の智恵」

智恵ちゑも容貌きりやうも取とりなりも

智恵も器量も身なりも。

類たぐひなき身みを百歳ももとせの、姥うばになるまで独寐ひとりねは、惜をしい事ことでは

類いない身を、百歳の姥になるまで独り寝とは惜しいことでは。

ないかいな、お目めにかかるも初深雪はつみゆき、凌しのぐ小蔭こかげもいとしやと、関せきの扉とびらを押開おしひらき

ないかいな。お目にかかるも初深雪、凌ぐ小蔭もいとしやと、関の扉を押し開き。

こちへ

「こちらへ」

こちへと通とほしける

「こちらへ」と通したのであった。

小町こまちは見みるより、マアお前まへは宗貞様むねさださま、お懐なつかしやと取付とりついて、暫しばし涙なみだにくれ居ゐたる

小町は見るより「まあ、お前は宗貞さま。お懐かしや」と取りついて、しばし涙にくれていた。

是これはマア思おもひもよらぬ、此処ここへはどうして御座ござつたぞ

「これはまあ思いもよらぬ。ここへはどうしておいでになった」

さればいなア、いつぞや布留ふるの御寺みてらにて、お別わかれ申まうした其後そののち、王子様わうじさまの横恋慕よこれんぼ、是非ぜひに入内じゆだいとある故ゆゑに、舘やかたを出いでて此様このやうに、身みを忍しのんで居をりまするはいわ

「さればいなあ。いつぞや布留の御寺でお別れ申したその後、王子さまの横恋慕。是非に入内せよとあるゆえ、舘を出てこのように身を忍んでおりますわいな」

夫それは嘸さぞ憂うき艱難かんなんをさつしやれたであらうのう、某それがしとても同おなじ身みの上うへ、コレ此所ここは先帝せんていの御陵ごりよう故ゆゑ、移うつし置おきたる御愛樹ごあいじゆのあの桜さくら非生ひじやうのものとは言いひながら、崩御ほうぎよを悲かなしむ余あまりにや、薄墨色うすずみいろに咲さいたるを、そなたの歌うたの徳とくによつて、盛さかりの色いろを増ましたれば、小町桜こまちざくらと言伝いひつたふ、其名そのなに愛めでて少将せうしやうも、一木ひときの元もとに侘住居わびずまひ、思おもへば果敢はかない縁えんぢやな

「それはさぞ憂き艱難をなされたであろうのう。それがしとても同じ身の上。これ、ここは先帝の御陵ゆえ、移し置いた御愛樹のあの桜。心なきものとは言いながら、崩御を悲しむあまりか薄墨色に咲いたのを、そなたの歌の徳によって盛りの色を増したので、小町桜と言い伝える。その名を愛でて少将のわたしも、一木のもとに侘び住まい。思えばはかない縁じゃな」

始終しじゆうを聞きいて関守せきもりは、そんならあなたは小町様こまちさまで御座ござりましたか、コレハコレハ少将様せうしやうさまにも、嘸さぞお喜よろこびで御座ござりませう、是これからは打寛うちくつろろぎで、其その馴初なれそめの恋話こひばなし、お聞きかせなされて下くださりませぬか

始終を聞いて関守は、「そんなら、あなたは小町さまでございましたか。これはこれは、少将さまもさぞお喜びでございましょう。これからは打ち寛いで、その馴れそめの恋話をお聞かせくださりませぬか」

イヤ此この身みになつて、今更いまさら語かたるも面伏おもてぶせ

「いや、この身になって今さら語るも面伏せ」

左さは言いへ迷まよひの雲霧くもきりを、懺悔ざんげに晴はらすも悟さとりの道みち

「さは言え、迷いの雲霧を懺悔に晴らすのも悟りの道」

そんなら恋こひの世語よがたりを

「そんなら、恋の世語りを」

早はやう聞ききたい所望しよまうぢやしよまうぢや

「早う聞きたい。所望じゃ、所望じゃ」

其その初恋はつこひは去年こぞの秋あき、大内山おほうちやまの月つきの宴えん、其折そのをりからに垣間見かいまみて、思おもひに堪たへかね一筆ひとふでと、書初かきそめしより旦暮あけくれの

その初恋は去年の秋、大内山の月の宴。その折から垣間見て、思いに堪えかね一筆と書きそめてより、明け暮れの。

文ふみ玉章たまづさの数々かずかずは、何なんと覚おぼえがあらうがの

文、玉章の数々は——何と、覚えがあろうがの。

其その水茎みづくきのこまごまと偽いつはりならぬ真実しんじつを、聞きく嬉うれしさも押包おしつつみ、恋こひ焦こがれても母かかさんに、一旦いつたん誓ちかひを立たてし身みの、色いろに心こころは引ひかれじと、思おもひ返かへしていなせをも、言いはぬは言いふに真蘇枋ますはうの芒すすき

その水茎こまごまと、偽りならぬ真実を聞く嬉しさも押し包み。恋焦がれても、母さんに一旦誓いを立てた身。色に心は引かれまいと思い返して、諾も否も言わぬ——言わぬは言うにまさる、真蘇枋の芒。

小野をのとは言いはじ恋草こひぐさに、百夜ももよ通かよふて誠まことを見みせて、忍しのび俥くるまの榻しぢに行ゆく、やつし姿すがたの夜よるの道みち、いつか思おもひは山城やましろの、小幡をばたの里さとに馬うまはあれども

小野とは言うまい、恋草に百夜通うて誠を見せる。忍び車の榻に印をつけて通う、やつし姿の夜の道。いつしか思いは山城の、小幡の里に馬はあれども。

さつても実まことぢや真実しんじつぢや、一里いちりあまりわくせきと、そんなら駕籠かごにも乗のらずにか

「さても実じゃ、真実じゃ。一里あまりをわくせきと。そんなら駕籠にも乗らずにか」

君きみを思おもへば徒かち跣足はだし

君を思えば徒歩、跣で。

月つきにも行ゆき

月にも行き。

闇やみにも行ゆき

闇にも行き。

さて雨あめの夜よに行ゆく思おもひ蟋蟀きりぎりすは我恋わがこひを思切おもひきれとの辻占つじうらも祝いはひ直なほして

さて、雨の夜に行く思い。きりぎりすの声は、わが恋を思い切れとの辻占かと聞くが、それも祝い直して。

行ゆく夜よの数かずも九十九夜くじふくや、今いまは一夜ひとよぞ嬉うれしやと、待日まつひになれば先帝せんていの、崩御ほうぎよと聞きくに身みの上うへの

通う夜の数も九十九夜。今は一夜ぞ嬉しやと待つ日になれば、先帝の崩御と聞いて、身の上の。

恋こひも無常むじやうと立たちかはる、君きみの菩提ぼだいを葬とむらはんと、位くらゐを辞じしていそのかみ、布留ふるの御寺みてらに終夜よもすがら、御経おきやう読誦どくじゆの折をりも折をり

恋も無常と立ちかわる。君の菩提を弔おうと位を辞して、いそのかみ布留の御寺に夜もすがら、御経読誦の折も折。

私わたしも其時そのとき母上はははうへの、後世ごせ祈いのる志心しじん、一夜籠ひとよごもりに思おもはずも、お顔かほを見みるよりぞつとして身みにこたへ、後生ごしやう菩提ぼだいも何処どこへやら、捨すてて二人ふたりが稲舟いなぶねのいなにはあらぬ嬉うれしさに、立たてし誓ちかひは破やぶられずと、つひ其儘そのままのうき別わかれ、思おもへば果敢はかなき縁えんぞと、かこつ涙なみだの流ながれては、関せきの清水しみづや勝まさるらん

「私もその時、母上の後世を祈る志で一夜籠りをしておりました。思わずもお顔を見るよりぞっとして身にこたえ、後生菩提もどこへやら」——捨てて二人が稲舟の、否にはあらぬ嬉しさに。だが立てた誓いは破られぬと、ついそのままの憂き別れ。思えばはかない縁ぞと、かこつ涙の流れては、関の清水にも勝るであろう。

関守せきもり側そばから、悲かなしいはお道理だうりおだうり、何なにも彼かも是これからは、此この関兵衛せきべゑが飲込のみこんで居をりまする

関守は側から、「悲しいはお道理、お道理。何もかもこれからは、この関兵衛が飲み込んでおりまする」

そんならお前まへに頼たのむぞへ

「そんなら、お前に頼むぞえ」

サアそれで定さだまつたと言いふものだ、媒人なかうどは此この関兵衛せきべゑ、四海波しかいなみ静しづかにでもあるまい、ハテどうしたものであらうなア、アア夫それそれ此この関守せきもりには毎年まいねん七夕祭たなばたまつりが、其その祭まつりになぞらへて、あなたは牽牛けんぎうお前まへは織女しよくぢよ

「さあ、それで定まったというものだ。媒人はこの関兵衛。四海波静かに、でもあるまい。はて、どうしたものであろうなあ。ああ、それそれ。この関守には毎年七夕祭がある。その祭になぞらえて、あなたは牽牛、お前は織女」

ヲヲそれそれ秋あきと冬ふゆとは変かはれども、年としに一夜ひとよの天あまの川がは

「おお、それそれ。秋と冬とは変われども、年に一夜の天の川」

とわたる星ほしになぞらへて、七夕祭たなばたまつりにかからうか

と渡る星になぞらえて、七夕祭にかかろうか。

実げに織姫おりひめの簪かんざしの袖そで、秋あきの錦にしきをおり機はたの、中なかに総そうの字じをあらはし、砧きぬたの上うへへゑんれつの声こゑ、頻しきりに暇ひまなき機はたの音おと、きりはたりてうてう、賎しづが手業てわざやことわざの、内うちに関兵衛せきべゑ懐中ふところより、落おとせし割符わりふを小町姫こまちひめ、手早てばやくとれば

げに織姫の簪の袖、秋の錦を織る機の中に総の字をあらわし、砧の上へえんれつの声。しきりに暇なき機の音、きりはたりちょうちょう。賤が手わざやことわざの——そのうちに関兵衛が懐から落とした割符を、小町姫が手早く取れば。

ヤそれは

「や、それは」

それそれそれそれそつこでせい

それそれそれ、そっこでせい。

恋こひぢやあるもの渡わたらでおこか、渡わたらば爾さうして斯かうしてと、目褄めづま隙間すきまを何なに白河しらかはの、橋はしを渡わたろか船ふねにしよか、橋はしと船ふねとは恋こひの仲立なかだちほんにへ

恋じゃあるもの、渡らずにおこうか。渡らばそうしてこうしてと、目褄も隙間も何のその——白河の橋を渡ろうか、船にしようか。橋と船とは恋の仲立ち、ほんにえ。

中々なかなかに初はじめより馴なれずば物ものも思おもはじ、わすれは草くさの名なにあれど、忍しのぶは人ひとの面影おもかげおもかげ、たまに逢瀬あふせの七夕たなばたもせめて一夜ひとよあるものを、一期いちご添そはれぬうき恋こひは、つれない此身このみばかりにて、流涕りうていこがれ泣なき給たまふ

なまじ初めから馴れなければ物も思うまいに。忘れ草は草の名にあれど、忍ぶは人の面影、面影。たまの逢瀬の七夕にさえ、せめて一夜はあるものを。一生添えぬ憂き恋は、つれないこの身ばかりと、涙を流して焦がれ泣かれる。

アアこれこれコリヤどうで御座ござります、其そのお歎なげきを見みまい為ため、今宵こよひしつぽり露霜つゆしもに、色いろづく紅葉もみぢの橋渡はしわたし、所詮しよせん媒人なかうどは宵よひの程ほど、われ等らは奥おくで酒さけの燗かん、長居ながゐはおそれと走はしり行ゆく

「ああこれこれ、こりゃどうでございます。そのお歎きを見まいため、今宵しっぽり露霜に色づく紅葉の橋渡し。所詮、媒人は宵のほど。われらは奥で酒の燗。長居は恐れ」と走ってゆく。

折をりしも西にしの雲間くもまより、真一文字まいちもんじに白尾しらをの鷹たか、彼処かしこの石いしにとまりしを

折しも西の雲間から、真一文字に白尾の鷹が飛び来て、かしこの石にとまったのを。

宗貞むねさだ見みるより、ヤアあれは正まさしくせいらいの鷹たか、足あしに何なにやら付つけたるは、ハテ怪あやしやと立寄たちより見みれば、片袖かたそでに血汐ちしほを以もつて、二子じし乗舟じようしうとしるせしは、往昔むかし嬰えいのこうしじゆが兄あにに代かはつて死ししたる詩詠しえい、扨さては弟おとうと安貞やすさだは

宗貞は見るより、「やあ、あれは正しく飼い馴らした鷹。足に何やら付けてあるのは、はて怪しや」と立ち寄って見れば、片袖に血潮をもって「二子乗舟」と記してある。昔、衛の公子が兄に代わって死んだという詩の題。「さては弟の安貞は」

お前まへに代かはつてお果はてなされましたといなア、不憫ふびんの者ものの身みの果はてと、歎なげきの内うちに片袖かたそでを、石上いしうへにとり落おとせば、血潮ちしほの汚けがれに鶏とりの声こゑ、宗貞むねさだ耳みみをそばだてて、ハテ合点がつてんの行ゆかぬ鶏とりの声こゑ、仔細しさいぞあらんと見廻みまはして、石いし押退おしのければ思おもはずも、見みれば土中どちうに怪あやしの鏡かがみ

「お前に代わってお果てなされましたといなあ」——不憫な者の身の果てと歎くうちに、片袖を石の上に取り落とせば、血潮の汚れに鶏の声。宗貞は耳をそばだて、「はて、合点のゆかぬ鶏の声。仔細があろう」と見まわして石を押しのければ、思いがけず土中に怪しい鏡。

小町こまちは駆寄かけより手てに取上とりあげ、コレ此この鏡かがみの裏うらに、生いけるが如ごとき鶏とりの形かたち、血汐ちしほの汚けがれに声こゑをあげしは、紛まがふかたなき大友家おほともけの重宝ちようほう八声やこゑの名鏡めいきやう、篁たかむらさまよりお渡わたしありし此この割符わりふと、最前さいぜん関守せきもりが落おとせし割符わりふ、これかう合あはせて見みるときは

小町は駆け寄って手に取り上げ、「これ、この鏡の裏に生けるがごとき鶏の形。血潮の汚れに声をあげたのは、紛れもなく大友家の重宝、八声の名鏡。篁さまよりお渡しのあったこの割符と、先ほど関守が落とした割符。これをこう合わせて見るときは」

鏡山かがみやまといふ文字もじ、何なににもせよ合点がつてんの行ゆかぬはあの関守せきもり、あとに残のこりてなほも様子やうすを窺うかがはん、そなたは是これより立帰たちかへり、狼煙のろしを相図あひづに関せきの四方しはうを圍かこまれよと、篁たかむらへ伝つたへてたも

「鏡山という文字。何にもせよ合点のゆかぬはあの関守。わたしはあとに残ってなお様子を窺おう。そなたはこれより立ち帰り、狼煙を合図に関の四方を囲まれよと、篁へ伝えてたも」

そんなら私わたしは

「そんなら私は」

小町殿こまちどの

「小町どの」

宗貞様むねさださま

「宗貞さま」

片時かたときも早はやうと宗貞むねさだの、言葉ことばにまかせ小町姫こまちひめ、恋こひしき人ひとに別わかれても、又また逢坂あふさかの山伝やまづたひ、雪ゆき踏分ふみわけて

片時も早うと宗貞の言葉にまかせ、小町姫は恋しい人に別れても、また逢う——その逢坂の山伝い、雪を踏み分けて。

急いそぎ行ゆく

急ぎ行く。

今宵こよひも既すでに降頻ふりしきる、雪ゆきの翼つばさの羽風はかぜをも、音おと静しづやかに更ふけてゆく、まさに先帝せんてい御おんなきあとを、とひ奉たてまつる後夜ごやの読経どきやう、尚なほも回向ゑかうを忘わすれもやらず、誦ずんずるも弟おとうと安貞やすさだと、心こころ許ばかりの手向草たむけぐさ

今宵もすでに降りしきる雪。その翼の羽風さえ音静かに、夜は更けてゆく。まさしく先帝の御なきあとを弔い奉る後夜の読経。なおも回向を忘れず誦するのは、弟安貞のため——心ばかりの手向け草である。

宗貞むねさだ袖そでを取出とりだし、アア去さりながら血汐ちしほにそみし此この片袖かたそで、身みに添そへ持もてば先帝せんていへの恐おそれあり、如何いかはせんと四辺あたりを見廻みまはし、ヲヲ夫それよそれよと件くだんの片袖かたそで、琴ことの下樋したひへ押隠おしかくす

宗貞は袖を取り出し、「ああ、さりながら血潮に染まったこの片袖。身に添えて持てば先帝への恐れがある。いかがはせん」と四辺を見まわし、「おお、それよ、それよ」と、くだんの片袖を琴の下樋へ押し隠す。

其間そのまに奥おくの一間ひとまより、一杯いつぱい機嫌きげんで関守せきもりは、調子てうし盃盞はいさん携たづさへて、足あしもひよろひよろ歩あゆみいで、エイ世よの中なかに酒さけ程ほど楽たのしみはないわいの、ヤアお前まへはまだ寐ねないか、エイヤ何故なぜ寐ねなさらぬよ、シテ此この花嫁御はなよめごは何処どこへいつた、ハハア彼奴あいつ床急とこいそぎだな

そのうちに奥の一間から、ほろ酔い機嫌の関守が調子と盃を携え、足もひょろひょろと歩み出る。「えい、世の中に酒ほど楽しみはないわいの。やあ、お前はまだ寝ないか。えいや、なぜ寝なさらぬよ。して、この花嫁御はどこへ行った。ははあ、あいつ床急ぎだな」

エヽ急いそぐやつさ、コレお前まへもいつて寐ねなよ、寐ねぬは損そんだ、ばさらんだ、あれはさのゑい、これはさのゑいやと恋こひの淵ふち、若もしもはまる気きで四よつ紅葉もみぢ

「ええ、急ぐやつさ。これ、お前も行って寝なよ。寝ぬは損だ、ばさらんだ」——あれはさのえい、これはさのえいやと、恋の淵。もしもはまる気で、四つ紅葉。

成程なるほどわしは往いつて寐ねようが、そなたはきつい酔ゑひようぢや、アア危険あぶないあぶないと言いふ様さま入いれる懐中ふところの、手先てさきを押おさへて

「なるほど、わしは行って寝ようが、そなたはきつい酔いようじゃ。ああ危ない、危ない」と言いざま懐へ入れるその手先を押さえて。

アアコリヤ何なにをするへ、俺おれが懐中ふところへ手てを入いれて、ドどうするのだ

「ああ、こりゃ何をするえ。俺の懐へ手を入れて、ど、どうするのだ」

サア是これは

「さあ、これは」

イヤどうするのだよ、エエ聞きこえたきこえた、紙かみがないと言いふ事ことか、神かみも末社まつしやも打連うちつれて、目出めでためでたの若松様わかまつさまよ、枝えだも栄さかへて葉はも茂しげる、お目出めでたや千代ちよの子こお目出めでたや、千秋せんしう万歳ばんぜいばんぜいばんぜい万々歳ばんばんぜい、ハアいざさせ給たまへと押おしやられ

「いや、どうするのだよ。ええ、聞こえた、聞こえた。紙がないということか」——神も末社も打ち連れて、めでためでたの若松さまよ。枝も栄えて葉も茂る。お目出たや千代の子、お目出たや。千秋万歳、万歳万歳万々歳。はあ、いざさせ給えと押しやられる。

始終しじゆうを胸むねに宗貞むねさだは心こころ残のこして奥おくへ入いる

始終を胸に納め、宗貞は心を残して奥へ入る。

あとは手酌てじやくの一人酒ひとりざけ、アア嘸さぞ今頃いまごろは茂しげれ松山まつやま、エイアゑい気味きみだぞ、コリヤ命いのちを掻挘かきむしるはへ、どれもう一杯いつぱい、酒さけにうつらふ星ほしの影かげ

あとは手酌の一人酒。「ああ、さぞ今ごろは茂れ松山。えいや、えい気味だぞ。こりゃ命を掻きむしるわえ。どれ、もう一杯」——酒に映る星の影。

此この盃中はいちうにちん星ぼしの、閃ひらめく影かげは寅とらの一天いつてん、今月こんげつ今宵こよひ三百年さんびやくねんにあまる、此この桜さくらを伐きつて護摩木ごまぎとなし、班足太子はんぞくたいしの塚つかの神かみを祭まつるときは、大願だいぐわん成就じやうじゆ心こころの儘まま、此この斧をのをもつて立所たちどころにどれ

「この盃の中に、ちん星のひらめく影は寅の一天。今月今宵、三百年にあまるこの桜を伐って護摩木となし、班足太子の塚の神を祭るときは、大願成就は心のまま。この斧をもって立ちどころに——どれ」

彼処かしこの石いしに斧をのの刃はを、押当おしあておしあて磨とぎ立たてる音おとはそうそうとうとうと、闇やみを照てらせる金色こんじきは、玉たまちる許ばかり物凄ものすごき

かしこの石に斧の刃を押し当て押し当て研ぎ立てる音は、そうそう、とうとうと。闇を照らす金色は、玉が散るばかりに物凄い。

此この斧をのの刃はを試ためむるは、幸さいはひなる此この琴ことと、突立つつたちあがつて斧をの振ふりあげ、二ふたつに伐きればコハ如何いかに、内うちより出いづる血汐ちしほの片袖かたそで、手てに取上とりあぐれば懐中ふところに、深ふかく秘置ひめおく勘合かんがふの印授いんじゆは、おのれと飛去とびさつて鳴動めいどうするぞ不思議ふしぎなる

この斧の刃を試すには幸いこの琴と、突っ立ち上がって斧を振り上げ、二つに伐ればこはいかに。内から出るのは血潮の片袖。手に取り上げれば、懐に深く秘め置いた勘合の印がひとりでに飛び去って鳴動する——不思議なことよ。

ハテ心得こころえぬ、此この片袖かたそでを手てに取とれば、我わが懐中ふところの勘合かんがふの印いん、桜さくらの梢こずゑに飛去とびさりしは、愈々いよいよ怪あやしき此この桜木さくらぎ、何なににもせよと立たちかかり、伐きらんとすれば目めもくらみ、覚おぼえずあとへたぢたぢ、暫しばし心こころも消きえごえと、斧をのにすがりて茫然ばうぜんたり

「はて、心得ぬ。この片袖を手に取れば、わが懐の勘合の印が桜の梢へ飛び去ったのは。いよいよ怪しいこの桜木、何にもせよ」と立ちかかり、伐ろうとすれば目もくらみ、覚えずあとへたじたじ。しばし心も消え消えと、斧にすがって茫然としている。

幻影まぼろしか深雪みゆきに積つもる桜影さくらかげ、実げに旦あしたには雲くもとなり、夕ゆふべには雨あめとなる、巫山ふざんの昔むかし往目ゆくめのあたり墨染すみぞめが立姿たちすがた

幻か、深雪に積もる桜の影。げに朝には雲となり、夕べには雨となるという巫山の昔——その故事さながらに、目のあたりに墨染の立ち姿。

仇あだし仇あだなる名なにこそたてれ、花はなの莟つぼみのいとけなき、禿立かむろだちから郭くるわの里さとへ、根ねごして植うゑて春毎はるごとに、盛さかりの色いろを山風やまかぜが、来きては寐ねよとのかねことも、とまり定さだめぬ泡沫うたかたの、水みづに散ちりしく流ながれの身み

仇し仇なる名にこそ立てれ。花の莟のいとけない禿立ちから廓の里へ、根ごと移し植えられて春ごとに盛りの色を——その色を山風が、来ては寝よとのかねごとも、とまり定めぬ泡沫の、水に散りしく流れの身よ。

関守せきもりは心付こころづき、ヤア何処どことも見馴みなれぬ女をんな、この山影やまかげの関扉せきのとへ、何時いつの間まに、何処どこから来きたのだ

関守は気づいて、「やあ、どことも見馴れぬ女。この山蔭の関の扉へ、いつの間に、どこから来たのだ」

アイ私わたしやアノ、撞木町しゆもくちやうから来きやんした

「あい、私はあの、撞木町から来やんした」

ムム何なにしに来きた

「むむ、何しに来た」

逢あひたさに

「逢いたさに」

ソリヤ誰たれに

「そりゃ、誰に」

こなさんに

「こなさんに」

何なに俺おれに、そりや何故なぜ

「何、俺に。そりゃなぜ」

色いろになつて下くださんせ

「色になってくださんせ」

エ何なにがどうしたと

「え、何がどうしたと」

サア恥はづかしい事ことながら、私わたししや見みぬ恋こひにあこがれて、雪ゆきをも厭いとはず遥々はるばると、爰ここ迄まで来きたほどに、何卒なにとぞ色いろよい返事へんじをして下くださんせ

「さあ、恥ずかしいことながら、私は見ぬ恋にあこがれて、雪をもいとわず遥々ここまで来たほどに。なにとぞ色よい返事をしてくださんせ」

コリヤ有難ありがたいと言いひたいが、どうも合点がつてんがいかぬはへ

「こりゃ有難いと言いたいが、どうも合点がいかぬわえ」

お前まへもマア疑うたがひ深ぶかい、其処そこが歌うたにもいへる、桜さくらさく桜さくらの山やまの桜花さくらばな

「お前もまあ疑い深い。そこが歌にもいえる——桜咲く桜の山の桜花」

咲さく桜さくらあり、散ちる桜さくらあり

「咲く桜あり、散る桜あり」

思おもひおもひの人心ひとごころぢやはいなア

「思い思いの人心じゃわいなあ」

さう聞きけば有ありさうな事こと、何なににもせい今日けふの下したに二人ふたりとない、容貌きりやうなら風俗ふうぞくなら、路考ろかういはれぬ撞木町しゆもくちやうの太夫職たいふしよくが色いろで逢あうとは、コリヤ大おほきに仕合しあはせが直なほつて来きたはへ、そんなら愈々いよいよこれからは

「そう聞けばありそうなこと。何にもせい、今日び二人とない器量、風俗。路考も言えぬほどの撞木町の太夫職が色で逢おうとは。こりゃ大きに仕合わせが直って来たわえ。そんなら、いよいよこれからは」

いつまでも可愛かはいがつて、秀鶴しうかくの千代ちよ八千代やちよ、諸白髪もろしらがまで添遂そひとげて下くださんせ

「いつまでも可愛がって、秀鶴の千代八千代、ともに白髪になるまで添い遂げてくださんせ」

夫それは近頃ちかごろ忝謝かたじけない、ときに太夫たいふさん、お前まへのお名なはへ

「それは近ごろかたじけない。ときに太夫さん、お前のお名はえ」

墨染すみぞめと言いやんす

「墨染と言いやんす」

何なに墨染すみぞめ、あの桜さくらの名なも原もとは墨染すみぞめ

「何、墨染。あの桜の名ももとは墨染」

エエ

「ええ」

ハテゑいお名なで御座ござりますの、夫それは兎ともあれついに俺おれは、女郎買ぢよらうかひをした事ことがないが、曲輪くるわの駆引かけひき

「はて、よいお名でございますの。それはともあれ、ついぞ俺は女郎買いをしたことがないが、廓の駆け引き」

馴染なじみのしこなし間夫狂まぶぐるひ、実まことと

「馴染のしこなし、間夫狂い。実と」

嘘うそとの

「嘘との」

手管てくだの諸訳しよわけ

「手管の諸訳」

裏茶屋うらぢやや這入はいりの魂胆こんたんまで

「裏茶屋入りの魂胆まで」

そんなら爰ここで話はなさうかへ

「そんなら、ここで話そうかえ」

行ゆくも帰かへるも忍しのぶの乱みだれ、限かぎり知しれぬ我思わがおもひ

行くも帰るも忍ぶの乱れ、限り知れないわが思い。

月夜つきよも闇夜やみよも此この郭くるわ、忍しのび頭巾づきんの格子先かうしさき

月夜も闇夜もこの廓。忍び頭巾の格子先。

行ゆきつ戻もどりつ立尽たちつくす

行きつ戻りつ立ち尽くす。

向むかふへ照てらす提灯ちやうちんの、紋もんは菊蝶きくてふ丁度ちやうどよい、首尾しゆびと思おもへど遣手やりてが見みるめ

向こうへ照らす提灯の紋は菊蝶、ちょうどよい。首尾と思えど、遣手が見る目。

待まつたぞや

「待ったぞや」

ヲヲよう来きなんした逢あひたかつたも目めで知しらせ、暖簾のれんくぐりて入いるあとを

「おお、よう来なんした」——逢いたかったのも目で知らせ、暖簾をくぐって入るあとを。

残のこり多おほげに差覗さしのぞき、ア扨さて待またせるぞまたせるぞと、一人ひとり呟つぶやく程ほどもなく

名残多げに差し覗き、「あ、さて待たせるぞ、待たせるぞ」と一人呟くほどもなく。

籬まがきの内うちより小手こて招まねき、ふわと著きせたる襠うちかけに

籬の内から小手招き、ふわと着せかけた打掛に。

裾すそに隠かくれて長廊下ながらうか、毒蛇どくじやの口くちを遁のがれし心地ここち、ほつと一息ひといきつく鐘かねも、引ひけ四よつ過すぎて床とこの上うへ

裾に隠れて長廊下。毒蛇の口を逃れた心地でほっと一息、つく鐘も引け四つ過ぎて、床の上。

ヤまだ此この暖あたたまりのさめぬのは、先刻さつきに帰かへつた客きやくでもよもやあるまい、コリヤ外ほかに出来できたはへ、何処どこの何奴どいつか知しらねども、お年としが若わかうてよい男をとこで、お金かねも沢山たくさん御所持ごしよぢなされた色男様いろをとこさまと、しつぽりお契ちぎりなされたで御座ござりませうの、エエ腹はらの立たつ

「や、まだこの暖まりのさめぬのは、先刻に帰った客でもよもやあるまい。こりゃ外に出来たわえ。どこのどいつか知らねども、お年が若うてよい男で、お金もたくさんご所持なされた色男さまと、しっぽりお契りなされたのでございましょうの。ええ、腹の立つ」

ホホホホコリヤ可笑をかしい、覚おぼえもない事こと言掛いひかけて、口舌くぜつの種たねにさんすのかへ

「ほほほほ、こりゃ可笑しい。覚えもないことを言いかけて、口舌の種になさんすのかえ」

憎にくらしいとふつつり捻ひねれば

「憎らしい」とふっつり捻れば。

アイタあいた痛いたいはい、斯麼こんな所ところに居ゐやうより、帰かへりましようかへりましよ

「あいた、あいた、痛いわい。こんな所にいようより、帰りましょう、帰りましょう」

これいなア

「これいなあ」

身みは色々いろいろの形姿なりすがた

身はいろいろの姿かたち。

あしなかを、つま立だてちよこちよこ、ちよこちよこ足あしを爪立つまだて

足半を爪立ててちょこちょこ、ちょこちょこと足を爪立てて。

ハアこれはしたり、煙草入たばこいれを忘わすれておいた、ア儘ままよ何なにとせう、アイヤイヤうかうかとして睫毛まつげでもよまれては恐こはい事こと、どれとは思おもへどどうせうなア、イヤイヤ思おもひ切きつてどうでも帰かへらう

「はあ、これはしたり。煙草入れを忘れておいた。あ、ままよ、何としよう。いやいや、うかうかとして睫毛でも読まれては恐いこと。どれとは思えど、どうしようなあ。いやいや、思い切ってどうでも帰ろう」

これ

「これ」

往いのうやれ、我わが古郷ふるさとへ帰かへろやれ

往のうやれ、わが古郷へ帰ろうやれ。

立舞たちまふ内うちに落おちたる袖そで、これはと墨染すみぞめ取上とりあげて抱締だきしめつ身みに添そひつ、床ゆかしき夫をつとの筐かたみやと、人目ひとめも恥はぢず泣なきければ

立ち舞ううちに落ちた袖。これはと墨染が取り上げて、抱きしめては身に添え、ゆかしい夫の形見よと、人目も恥じずに泣けば。

ヤアそなたは何なにを泣なくのぢや

「やあ、そなたは何を泣くのじゃ」

サアこれは、ヲヲそれそれ此この片袖かたそでは他処よその女中ぢよちうさんから書かいてよこさしやんした起請きしやうぢやの

「さあ、これは。おお、それそれ。この片袖は、よその女中さんから書いてよこさしゃんした起請じゃの」

イヤそりや片袖かたそでだ

「いや、そりゃ片袖だ」

イエイエ起請きしやうで御座ござんせう

「いえいえ、起請でござんしょう」

オオ成程なるほど起請きしやうぢや、エエお前まへはなア

「おお、なるほど起請じゃ。ええ、お前はなあ」

これこの様やうに始はじめから、起請きしやう誓紙せいしを取替とりかはし、深ふかいお方かたが有ありながら、隠かくして置おいて又またわしに、色いろで逢あうとはようもようも誑たぶらかさんしたか憎にくらしい

「これ、このように始めから起請誓紙を取り交わした深いお方がありながら、隠しておいてまた私に色で逢おうとは。ようもようも誑かさんしたか、憎らしい」

そうとも知しらず慕したひ来きて、見みれば果敢はかなや片袖かたそでの、血汐ちしほの文字もじは亡跡なきあとの、筐かたみと思おもへばいとど尚なほ、アレ懐なつかしい悲かなしいと、言葉ことばに色いろは含ふくめども、心こころの剣つるぎ穂ほに現あらはれ、立寄たちよる女をんなを

そうとも知らず慕い来て、見ればはかなや片袖の血潮の文字は亡きあとの形見。そう思えばいっそうなお、「あれ懐かしい、悲しい」と言葉に色は含めども、心の剣は穂にあらわれる。立ち寄る女を。

はつたと白眼にらみつけ、最前さいぜんより此この片袖かたそでに、心こころをかくる怪あやしき女をんな、様子やうすを明あかせ何なにとなにと

はったと睨みつけ、「先ほどからこの片袖に心をかける怪しい女。様子を明かせ、何と、何と」

ヲヲ此この片袖かたそでは夫をつとの血汐ちしほ、それのみならず最前さいぜん我わが業通ごふつうにて手てに入いれし、勘合かんがふの印いんを所持しよぢなすからは様子やうすがあらう、本名ほんみやうあかせ何なんとぢや

「おお、この片袖は夫の血潮。それのみならず、先ほどわが神通力で手に入れた勘合の印を所持するからには仔細があろう。本名を明かせ、何とじゃ」

斯かくなる上うへは何なにをかつつまん、我われこそは中納言ちうなごん家持やかもちが嫡孫ちやくそん、天下てんがを望のぞむ大伴おほともの黒主くろぬしとは俺おれが事ことだはや

「こうなるうえは何を包み隠そう。われこそは中納言家持の嫡孫、天下を望む大伴の黒主とは俺のことだわ」

扨さてこそ

「さてこそ」

我われに恨うらみをなさんとする、そも先まづ汝なんぢは何者なにものぢや

「われに恨みをなそうとする、そもそも汝は何者じゃ」

のう去さりし恨うらみのあればこそ、そも人間にんげんの業ごふうけて、女子をなごとは見みすれども、小町桜こまちざくらの精魂せいこんなり

「のう、去りし恨みがあればこそ。そもそも人間の業を受けて女とは見せるけれど、小町桜の精魂である」

我われは非生ひじやうの桜木さくらぎも人界にんがいの生しやうを受うくれば、七ななつの性しやうも備そなはつて、五位之助ごゐのすけ安貞殿やすさだどのに、契ちぎりしことも情なさけなや

「われは心なき桜木も、人界の生を受ければ七つの性も備わって、五位之助安貞どのに契ったことも——情けなや」

不慮ふりよの矢疵やきずに玉たまの緒をも、絶たゆるばかりの折をりも折をり、御兄君おんあにぎみの身みに代かはり、敢あへなく此世このよを去さり給たまふ、夫をつとの筐かたみの片袖かたそでに、ひかれ寄よる身みは陽炎かげろふ姿すがた

「不慮の矢傷に玉の緒も絶えるばかりの折も折、御兄君の身に代わってあえなくこの世を去りたもうた。夫の形見の片袖に引かれて寄るこの身は、陽炎のような姿よ」

我わが本性ほんしやうの桜木さくらぎを、邪慳じやけんの斧をのにかかりしぞや、報むくひの程ほどは思おもひ知しれと、あり合あふ桜さくらを呵責かしやくの笞しもと、はつたと白眼にらむ有様ありさまを

「わが本性の桜木を邪慳の斧にかけたぞや。報いのほどは思い知れ」と、ありあう桜を呵責の笞として、はったと睨むそのありさまを。

ヤア小癪こしやくと無二むに無三むさん

「やあ、小癪な」と無二無三に。

斧をの取直とりなほして打掛うちかかれど、凡人ぼんにんならぬ精霊せいれいの、業通ごふつう自在じざいの身みも軽かるく、ひらりひらり飛とびかふ姿すがたは吹雪ふぶきの桜さくら、霞かすみがくれや朧夜おぼろよの、水みづの月影つきかげ手てにもとられず、見みえみ見みえずみ又また現あらはれて、今いまぞ則すなはち人界にんがいの、輪廻りんねを離はなれ根ねにかへる、しるしを見みよと言いふ声こゑばかり形かたちは消きえて桜木さくらぎに、春はるも斯かくやと帰かへり花ばな、雪ゆきを踏ふみつけ踏ふみしだき、水みづに戻もどれば墨染すみぞめの、小町桜こまちざくらと世よに広ひろき、普あまねく筆ふでに書残かきのこす

斧を取り直して打ちかかるけれど、凡人ならぬ精霊は神通力自在に身も軽く、ひらりひらりと飛びかう姿は吹雪の桜。霞隠れや朧夜の水の月影のように手にも取られず、見えつ見えずつまた現れて——今こそすなわち人界の輪廻を離れ、根に帰るしるしを見よ、という声ばかりを残して形は消え、桜木に春もかくやと帰り花。雪を踏みつけ踏みしだき、水に戻れば墨染の小町桜として世に広く、あまねく筆に書き残されたのであった。

この曲は常磐津。詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第四編 常磐津集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開し、合方の指示は省いた。

本名題は『積恋雪関扉』。詞は劇神仙。作曲者・初演年は原典に記載がない。

原典は上下二巻に分けて載せるが、一曲なのでここではひと続きにした。

常磐津を代表する曲。関守関兵衛は実は天下を望む大伴黒主で、下の巻でその正体があらわれる。良峯宗貞(僧正遍昭)と小野小町の恋物語がその前段に置かれる。

「小町桜」は先帝の御陵に移された愛樹。崩御を悲しんで薄墨色に咲いたのを、小町の歌の徳で盛りの色に戻したと語られる。この桜の精が、下の巻で墨染となって現れる。

「百夜通ふて」は深草少将の百夜通いの伝説。九十九夜まで通って果てたとされる。ここでは宗貞の恋に重ねる。

「二子乗舟」は『詩経』邶風の篇名。衛の公子が兄に代わって死んだ故事によるので、宗貞は弟安貞の死をこれで知る。

「八声の名鏡」は大友家の重宝。裏の鶏が血に触れると鳴くという。

「言はぬは言ふに」は「言はぬは言ふにいや勝る」の諺。

次の語は語義が定めがたく、推測で埋めず原典のまま残した。「五尺いよこ」「しよんがへ」「わくせき」「真蘇枋の芒」「ゑんれつの声」「そつこでせい」。当ライブラリの『戻駕』『双面』にも同じ「そつこでせい」の囃子が出る。

流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。