藤舎の紋 藤舎名玄TOSHA MEIGEN ― 詞章ライブラリーへ戻る
常磐津

関の扉せきのと

常磐津  劇神仙 述  本名題『積恋雪関扉』  作曲者・初演年不詳

A4一枚に印刷できる詞章(PDF)開く・印刷・保存お稽古や舞台の予習に。A4横一枚にまとめてあります。
関の扉 雪中の小町桜
雪中の小町桜

逢坂の関。関守関兵衛は、実は天下を望む大伴黒主。良峯宗貞と小町姫の恋物語のうちに黒主の企みが露れ、下の巻では小町桜の精・墨染が遊女の姿で現れて黒主と渡り合う。常磐津の代表曲。原典は上下二巻に分けて載せるが、一曲なのでここではひと続きにした。

あらすじ

逢坂の関。関守の関兵衛が柴を刈る傍らで、良峯宗貞が琴を弾く。そこへ三井寺へ参ると偽って小町姫が訪れ、関を通してほしいと願う。関兵衛は手形がないと拒むが、宗貞のとりなしで通す。小町と宗貞は再会を喜び、関兵衛に請われて馴れそめの恋を語る。大内山の月の宴に垣間見た日から百夜通いの誓いまで——だが先帝の崩御に恋も無常と変わり、宗貞は位を辞して布留の寺に籠もった。関兵衛は七夕祭になぞらえて二人の仲を取り持とうとするが、そのはずみに懐から割符を落とす。やがて白尾の鷹が血染めの片袖を運び、弟安貞が兄に代わって死んだと知れる。土中から現れた八声の名鏡と、二つの割符を合わせれば「鏡山」の文字。宗貞は関守の正体を怪しみ、小町を篁のもとへ走らせる。——夜、宗貞は血染めの片袖を琴の下に隠して奥へ入る。一人になった関兵衛は酒に酔い、盃に映る星に己の望みを語る。今宵こそ小町桜を伐って護摩木とし、班足太子の塚の神を祭れば大願成就と、斧を研ぎ立てる。試しに琴を斬れば中から血染めの片袖が出、懐の勘合の印はひとりでに桜の梢へ飛び去る。桜を伐ろうとすれば目がくらみ、あとへたじろぐ。そこへ深雪に積もる桜の影から、墨染と名のる遊女が現れる。撞木町から逢いたさに来たという女に、関兵衛は有頂天になり、廓の駆け引きを語らせる。忍び頭巾の格子先から床の上まで、口舌に痴話に踊り舞ううち、落ちた袖を墨染が取り上げて泣く。それは弟の血染めの片袖であった。関兵衛は睨みつけて素性を問い、みずから中納言家持の嫡孫、天下を望む大伴の黒主と名のる。女もまた、小町桜の精魂であり、五位之助安貞と契った身だと明かす。わが本性の桜木を邪慳の斧にかけたその報いを思い知れ——桜を笞に打ちかかる。黒主は斧を取り直して打ちかかるが、精霊は身も軽くひらりひらりと吹雪の桜のように飛びかい、霞隠れ、朧夜の水の月影のように手にも取られない。今こそ人界の輪廻を離れて根に帰るしるしを見よ、という声ばかりを残して形は消え、桜木に帰り花が咲く。墨染の小町桜として世に広く、あまねく筆に書き残されたのであった。

詞章と現代語訳

待得まちえいまときにあふあふ、関路せきぢをさしていそがん、むかしむかし往昔噺むかしばなし其様そのやうに、しばしばたる柴刈しばかりも、関屋せきやまも片手業かたてわざしばたばねてかいやりて、五尺ごしやくいよこの手拭てぬぐひ五尺ごしやく手拭てぬぐひなかそめたしよんがへ

待ち得て今ぞ時に逢う。関路をさして急ごう。むかしむかしの昔話のように、しばしばに似た柴刈りも、関屋を守る身の片手わざ。柴を束ねてかいやり捨て、五尺いよこの手拭、五尺手拭の中染めた——しょんがえ。

樵夫きこりうたいとふ、につまされてしのばしく、わするるこころ取敢とりあへず、手馴てなれしこと調しらべける、うらめしや我縁わがえん

樵夫の歌も世を厭うわが身につまされて偲ばしく、忘れようとする心にとりあえず、手馴れた琴を調べる。恨めしや、わが縁よ。

ハテしほらしい音色ねいろぢやな

「はて、しおらしい音色じゃな」

かか山路やまぢ関扉せきのとに、さしもめうなる爪音つまおとを、きくつけてもうへを、おもいだせばにしき帷帳ゐちやうたまうてなひととなり、翡翠ひすゐ簪飾かんざしあでやかに、あるひと初花はつはな

このような山路の関の扉で、これほど妙なる爪音を聞くにつけても、わが身の上を思い出す。錦の帷帳、玉の台に人となり、翡翠の簪もあでやかに——ある人は初花の。

あめほころ化粧けしやうとは、女子をなごをのぼす懸言詞かけことば

雨に綻ぶ化粧とは、女をのぼせさせる掛けことばよ。

いまそれには引替ひきかへて、くさころもそでせばき、姿すがたかく蓑笠みのかさ

今はそれに引きかえて、草の衣は袖も狭く、姿を隠す蓑笠よ。

つゑちからにたどたどと関扉せきのとちかあゆ

杖を力にたどたどと、関の扉近くへ歩み寄る。

宗貞むねさだことしづたまひ、ゆきれば冬籠ふゆごもりせるくさも、はるられぬはなける、なん関兵衛せきべゑどうもいはれぬ景色けしきではないか

宗貞は琴を鎮めて——「雪降れば冬籠りせる草も木も、春に知られぬ花ぞ咲きける。何と関兵衛、どうも言いようのない景色ではないか」

成程なるほど左様さやう御座ござります、このゆきさかなひとつたべたらよう御座ござりませう、とはなしうち小町姫こまちひめせき外面とのも立休たちやすらひ、まうしちと御案内ごあんないまうしませう

「なるほど左様でございます。この雪を肴に一つやったらようございましょう」——と話すうちに、小町姫が関の外に立ち休らい、「もし、ちとご案内申しましょう」

あれ関扉せきのとたれやら案内あんないがあるぞや

「あれ、関の扉に誰やら案内を乞う者があるぞや」

なに案内あんないとは何者なにものぢやと関兵衛せきべゑが、関扉せきのとひらいて

「何、案内とは何者じゃ」と関兵衛が関の扉を開いて。

アア貴様きさまをんなぢやな、この夕暮ゆふぐれともつれただ一人ひとりこのせきへは何故なにゆゑたのぢや

「ああ、貴様は女じゃな。この夕暮れに供も連れずただ一人、この関へは何ゆえ来たのじゃ」

アイわたし三井寺みゐでら参詣さんけいものせきとほしてくださんせ

「あい、私は三井寺へ参詣の者。関を通してくださんせ」

成程なるほどとほりたくばとほしてもやらうが手形てがたがあるか、其様そのやうなものは御座ござんせぬはいなア

「なるほど、通りたくば通してもやろうが、手形があるか」——「そのようなものはございませぬわいなあ」

手形てがたがなくばとほことはならんならん

「手形がなくば通すことはならん、ならん」

コレ其様そのやういはずとも、この大雪おほゆきさぞ難義なんぎであらう、了簡れうけんしてとほしてやりやいのう

「これ、そのように言わずとも。この大雪でさぞ難儀であろう。了簡して通してやりやいのう」

さう仰有おつしやればとほしてもやりますが、これ女中ぢよちうそんならおれたづねることがあるが、それ一々いちいちこたへるか

「そうおっしゃれば通してもやりますが。これ女中、そんなら俺が尋ねることがあるが、それを一々答えるか」

成程なるほどわたしおぼえてることなら、なになりとこたへませうわいなア

「なるほど、私が覚えていることなら何なりと答えましょうわいなあ」

第一だいいち合点がつてんがいかぬ

「まず第一、合点がいかぬ」

そりやマアなにがへ

「そりゃまあ、何がえ」

サアそのわけ

「さあ、そのわけは」

一体いつたいきさまの風俗ふうぞくは、はなにもまさ風姿ふうし

「一体きさまの姿は、花にも勝る風姿」

かつら粉黛ふんたいあをうして、またとあるまい

「桂の粉黛は青うして、またとあるまい」

姿すがたを、お公卿くげさんがた屋敷やしきさん、おほくのなか見初みそめたら、ただとほさぬはずなれど、其処そこ其儘そのまま捨置すておくは

「そのお姿を、お公卿さん方お屋敷さん、多くの中で見初めたら、ただでは通さぬはずなれど、そこをそのまま捨て置くのは」

生野暮なまやぼ薄鈍うすのろなさけなしなしをるやうに、悪洒落わるじやれいふたり大通だいつう仕打しうちもあるまいが、ういふ理屈りくつれぬきがしれぬ

生野暮の薄のろ、情なし苦なしを見るように。悪洒落を言ったり大通ぶった仕打ちもあるまいが、どういう理屈か気が知れぬ、気が知れぬ。

いやとよわれ恋衣こひごろもはや脱捨ぬぎすてて烏羽玉うばたまの、すみたもと垂乳たらちの、のちねが菩提心ぼだいしん褐食かつじきにてさふらふぞや

「いやとよ、われは恋衣を早や脱ぎ捨てて、ぬばたまの墨染の袂。垂乳の母の後の世を願う菩提心、乞食の身にてそうろうぞや」

ホウ言葉ことば殊勝しゆしようきこゆれど、菩提ぼだいみちりながら、何故なにゆゑ黒髪くろかみそらぬのぢや

「ほう、言葉は殊勝に聞こえるが、菩提の道に入りながら、なぜ黒髪を剃らぬのじゃ」

姿すがたをもいとはばこそ、こころいとふてるわいな

「姿で世を厭うのではなく、心で厭うておるわいな」

シテ煩悩ぼんなうとは

「して、煩悩とは」

菩提ぼだいなり

「菩提なり」

提婆だいばあく

「提婆が悪も」

観音くわんおん慈悲じひ

「観音の慈悲」

また槃得はんどく愚痴ぐち文珠もんじゆ智恵ちゑ

「また槃特の愚痴も文殊の智恵」

智恵ちゑ容貌きりやうとりなりも

智恵も器量も身なりも。

たぐひなき百歳ももとせの、うばになるまで独寐ひとりねは、をしことでは

類いない身を、百歳の姥になるまで独り寝とは惜しいことでは。

ないかいな、おにかかるも初深雪はつみゆきしの小蔭こかげもいとしやと、せきとびら押開おしひら

ないかいな。お目にかかるも初深雪、凌ぐ小蔭もいとしやと、関の扉を押し開き。

こちへ

「こちらへ」

こちへととほしける

「こちらへ」と通したのであった。

小町こまちるより、マアおまへ宗貞様むねさださま、おなつかしやと取付とりついて、しばなみだにくれたる

小町は見るより「まあ、お前は宗貞さま。お懐かしや」と取りついて、しばし涙にくれていた。

これはマアおもひもよらぬ、此処ここへはどうして御座ござつたぞ

「これはまあ思いもよらぬ。ここへはどうしておいでになった」

さればいなア、いつぞや布留ふる御寺みてらにて、おわかまうした其後そののち王子様わうじさま横恋慕よこれんぼ是非ぜひ入内じゆだいとあるゆゑに、やかたいで此様このやうに、しのんでりまするはいわ

「さればいなあ。いつぞや布留の御寺でお別れ申したその後、王子さまの横恋慕。是非に入内せよとあるゆえ、舘を出てこのように身を忍んでおりますわいな」

それさぞ艱難かんなんをさつしやれたであらうのう、それがしとてもおなうへ、コレ此所ここ先帝せんてい御陵ごりようゆゑうつきたる御愛樹ごあいじゆのあのさくら非生ひじやうのものとはいひながら、崩御ほうぎよかなしむあまりにや、薄墨色うすずみいろさいたるを、そなたのうたとくによつて、さかりのいろましたれば、小町桜こまちざくら言伝いひつたふ、其名そのなでて少将せうしやうも、一木ひときもと侘住居わびずまひおもへば果敢はかないえんぢやな

「それはさぞ憂き艱難をなされたであろうのう。それがしとても同じ身の上。これ、ここは先帝の御陵ゆえ、移し置いた御愛樹のあの桜。心なきものとは言いながら、崩御を悲しむあまりか薄墨色に咲いたのを、そなたの歌の徳によって盛りの色を増したので、小町桜と言い伝える。その名を愛でて少将のわたしも、一木のもとに侘び住まい。思えばはかない縁じゃな」

始終しじゆういて関守せきもりは、そんならあなたは小町様こまちさま御座ござりましたか、コレハコレハ少将様せうしやうさまにも、さぞよろこびで御座ござりませう、これからは打寛うちくつろろぎで、その馴初なれそめの恋話こひばなし、おかせなされてくださりませぬか

始終を聞いて関守は、「そんなら、あなたは小町さまでございましたか。これはこれは、少将さまもさぞお喜びでございましょう。これからは打ち寛いで、その馴れそめの恋話をお聞かせくださりませぬか」

イヤこのになつて、今更いまさらかたるも面伏おもてぶ

「いや、この身になって今さら語るも面伏せ」

いへまよひの雲霧くもきりを、懺悔ざんげはらすもさとりのみち

「さは言え、迷いの雲霧を懺悔に晴らすのも悟りの道」

そんならこひ世語よがたりを

「そんなら、恋の世語りを」

はやきたい所望しよまうぢやしよまうぢや

「早う聞きたい。所望じゃ、所望じゃ」

その初恋はつこひ去年こぞあき大内山おほうちやまつきえん其折そのをりからに垣間見かいまみて、おもひにたへかね一筆ひとふでと、書初かきそめしより旦暮あけくれ

その初恋は去年の秋、大内山の月の宴。その折から垣間見て、思いに堪えかね一筆と書きそめてより、明け暮れの。

ふみ玉章たまづさ数々かずかずは、なんおぼえがあらうがの

文、玉章の数々は——何と、覚えがあろうがの。

その水茎みづくきのこまごまといつはりならぬ真実しんじつを、きくうれしさも押包おしつつみ、こひこがれてもかかさんに、一旦いつたんちかひをたての、いろこころひかれじと、おもかへしていなせをも、いはぬはいふ真蘇枋ますはうすすき

その水茎こまごまと、偽りならぬ真実を聞く嬉しさも押し包み。恋焦がれても、母さんに一旦誓いを立てた身。色に心は引かれまいと思い返して、諾も否も言わぬ——言わぬは言うにまさる、真蘇枋の芒。

小野をのとはいは恋草こひぐさに、百夜ももよかよふてまことせて、しのくるましぢく、やつし姿すがたよるみち、いつかおもひは山城やましろの、小幡をばたさとうまはあれども

小野とは言うまい、恋草に百夜通うて誠を見せる。忍び車の榻に印をつけて通う、やつし姿の夜の道。いつしか思いは山城の、小幡の里に馬はあれども。

さつてもまことぢや真実しんじつぢや、一里いちりあまりわくせきと、そんなら駕籠かごにものらずにか

「さても実じゃ、真実じゃ。一里あまりをわくせきと。そんなら駕籠にも乗らずにか」

きみおもへばかち跣足はだし

君を思えば徒歩、跣で。

つきにも

月にも行き。

やみにも

闇にも行き。

さてあめおも蟋蟀きりぎりす我恋わがこひ思切おもひきれとの辻占つじうらいはなほして

さて、雨の夜に行く思い。きりぎりすの声は、わが恋を思い切れとの辻占かと聞くが、それも祝い直して。

かず九十九夜くじふくやいま一夜ひとようれしやと、待日まつひになれば先帝せんていの、崩御ほうぎよきくうへ

通う夜の数も九十九夜。今は一夜ぞ嬉しやと待つ日になれば、先帝の崩御と聞いて、身の上の。

こひ無常むじやうたちかはる、きみ菩提ぼだいとむらはんと、くらゐしていそのかみ、布留ふる御寺みてら終夜よもすがら御経おきやう読誦どくじゆをりをり

恋も無常と立ちかわる。君の菩提を弔おうと位を辞して、いそのかみ布留の御寺に夜もすがら、御経読誦の折も折。

わたし其時そのとき母上はははうへの、後世ごせいの志心しじん一夜籠ひとよごもりにおもはずも、おかほるよりぞつとしてにこたへ、後生ごしやう菩提ぼだい何処どこへやら、すて二人ふたり稲舟いなぶねのいなにはあらぬうれしさに、たてちかひはやぶられずと、つひ其儘そのままのうきわかれ、おもへば果敢はかなきえんぞと、かこつなみだながれては、せき清水しみづまさるらん

「私もその時、母上の後世を祈る志で一夜籠りをしておりました。思わずもお顔を見るよりぞっとして身にこたえ、後生菩提もどこへやら」——捨てて二人が稲舟の、否にはあらぬ嬉しさに。だが立てた誓いは破られぬと、ついそのままの憂き別れ。思えばはかない縁ぞと、かこつ涙の流れては、関の清水にも勝るであろう。

関守せきもりそばから、かなしいはお道理だうりおだうり、なにこれからは、この関兵衛せきべゑ飲込のみこんでりまする

関守は側から、「悲しいはお道理、お道理。何もかもこれからは、この関兵衛が飲み込んでおりまする」

そんならおまへたのむぞへ

「そんなら、お前に頼むぞえ」

サアそれでさだまつたといふものだ、媒人なかうどこの関兵衛せきべゑ四海波しかいなみしづかにでもあるまい、ハテどうしたものであらうなア、アアそれそれこの関守せきもりには毎年まいねん七夕祭たなばたまつりが、そのまつりになぞらへて、あなたは牽牛けんぎうまへ織女しよくぢよ

「さあ、それで定まったというものだ。媒人はこの関兵衛。四海波静かに、でもあるまい。はて、どうしたものであろうなあ。ああ、それそれ。この関守には毎年七夕祭がある。その祭になぞらえて、あなたは牽牛、お前は織女」

ヲヲそれそれあきふゆとはかはれども、とし一夜ひとよあまがは

「おお、それそれ。秋と冬とは変われども、年に一夜の天の川」

とわたるほしになぞらへて、七夕祭たなばたまつりにかからうか

と渡る星になぞらえて、七夕祭にかかろうか。

織姫おりひめかんざしそであきにしきをおりはたの、なかそうをあらはし、きぬたうへへゑんれつのこゑしきりにひまなきはたおと、きりはたりてうてう、しづ手業てわざやことわざの、うち関兵衛せきべゑ懐中ふところより、おとせし割符わりふ小町姫こまちひめ手早てばやくとれば

げに織姫の簪の袖、秋の錦を織る機の中に総の字をあらわし、砧の上へえんれつの声。しきりに暇なき機の音、きりはたりちょうちょう。賤が手わざやことわざの——そのうちに関兵衛が懐から落とした割符を、小町姫が手早く取れば。

ヤそれは

「や、それは」

それそれそれそれそつこでせい

それそれそれ、そっこでせい。

こひぢやあるものわたらでおこか、わたらばさうしてかうしてと、目褄めづま隙間すきまなに白河しらかはの、はしわたろかふねにしよか、はしふねとはこひ仲立なかだちほんにへ

恋じゃあるもの、渡らずにおこうか。渡らばそうしてこうしてと、目褄も隙間も何のその——白河の橋を渡ろうか、船にしようか。橋と船とは恋の仲立ち、ほんにえ。

中々なかなかはじめよりれずばものおもはじ、わすれはくさにあれど、しのぶはひと面影おもかげおもかげ、たまに逢瀬あふせ七夕たなばたもせめて一夜ひとよあるものを、一期いちごそはれぬうきこひは、つれない此身このみばかりにて、流涕りうていこがれなきたま

なまじ初めから馴れなければ物も思うまいに。忘れ草は草の名にあれど、忍ぶは人の面影、面影。たまの逢瀬の七夕にさえ、せめて一夜はあるものを。一生添えぬ憂き恋は、つれないこの身ばかりと、涙を流して焦がれ泣かれる。

アアこれこれコリヤどうで御座ござります、そのなげきをまいため今宵こよひしつぽり露霜つゆしもに、いろづく紅葉もみぢ橋渡はしわたし、所詮しよせん媒人なかうどよひほど、われおくさけかん長居ながゐはおそれとはし

「ああこれこれ、こりゃどうでございます。そのお歎きを見まいため、今宵しっぽり露霜に色づく紅葉の橋渡し。所詮、媒人は宵のほど。われらは奥で酒の燗。長居は恐れ」と走ってゆく。

をりしも西にし雲間くもまより、真一文字まいちもんじ白尾しらをたか彼処かしこいしにとまりしを

折しも西の雲間から、真一文字に白尾の鷹が飛び来て、かしこの石にとまったのを。

宗貞むねさだるより、ヤアあれはまさしくせいらいのたかあしなにやらつけたるは、ハテあやしやと立寄たちよれば、片袖かたそで血汐ちしほもつて、二子じし乗舟じようしうとしるせしは、往昔むかしえいのこうしじゆがあにかはつてしたる詩詠しえいさておとうと安貞やすさだ

宗貞は見るより、「やあ、あれは正しく飼い馴らした鷹。足に何やら付けてあるのは、はて怪しや」と立ち寄って見れば、片袖に血潮をもって「二子乗舟」と記してある。昔、衛の公子が兄に代わって死んだという詩の題。「さては弟の安貞は」

まへかはつておはてなされましたといなア、不憫ふびんものはてと、なげきのうち片袖かたそでを、石上いしうへにとりおとせば、血潮ちしほけがれにとりこゑ宗貞むねさだみみをそばだてて、ハテ合点がつてんかぬとりこゑ仔細しさいぞあらんと見廻みまはして、いし押退おしのければおもはずも、れば土中どちうあやしのかがみ

「お前に代わってお果てなされましたといなあ」——不憫な者の身の果てと歎くうちに、片袖を石の上に取り落とせば、血潮の汚れに鶏の声。宗貞は耳をそばだて、「はて、合点のゆかぬ鶏の声。仔細があろう」と見まわして石を押しのければ、思いがけず土中に怪しい鏡。

小町こまち駆寄かけよ取上とりあげ、コレこのかがみうらに、いけるがごととりかたち血汐ちしほけがれにこゑをあげしは、まがふかたなき大友家おほともけ重宝ちようほう八声やこゑ名鏡めいきやうたかむらさまよりおわたしありしこの割符わりふと、最前さいぜん関守せきもりおとせし割符わりふ、これかうあはせてるときは

小町は駆け寄って手に取り上げ、「これ、この鏡の裏に生けるがごとき鶏の形。血潮の汚れに声をあげたのは、紛れもなく大友家の重宝、八声の名鏡。篁さまよりお渡しのあったこの割符と、先ほど関守が落とした割符。これをこう合わせて見るときは」

鏡山かがみやまといふ文字もじなににもせよ合点がつてんかぬはあの関守せきもり、あとにのこりてなほも様子やうすうかがはん、そなたはこれより立帰たちかへり、狼煙のろし相図あひづせき四方しはうかこまれよと、たかむらつたへてたも

「鏡山という文字。何にもせよ合点のゆかぬはあの関守。わたしはあとに残ってなお様子を窺おう。そなたはこれより立ち帰り、狼煙を合図に関の四方を囲まれよと、篁へ伝えてたも」

そんならわたし

「そんなら私は」

小町殿こまちどの

「小町どの」

宗貞様むねさださま

「宗貞さま」

片時かたときはやうと宗貞むねさだの、言葉ことばにまかせ小町姫こまちひめこひしきひとわかれても、また逢坂あふさか山伝やまづたひ、ゆき踏分ふみわけて

片時も早うと宗貞の言葉にまかせ、小町姫は恋しい人に別れても、また逢う——その逢坂の山伝い、雪を踏み分けて。

いそ

急ぎ行く。

今宵こよひすで降頻ふりしきる、ゆきつばさ羽風はかぜをも、おとしづやかにふけてゆく、まさに先帝せんていおんなきあとを、とひたてまつ後夜ごや読経どきやうなほ回向ゑかうわすれもやらず、ずんずるもおとうと安貞やすさだと、こころばかりの手向草たむけぐさ

今宵もすでに降りしきる雪。その翼の羽風さえ音静かに、夜は更けてゆく。まさしく先帝の御なきあとを弔い奉る後夜の読経。なおも回向を忘れず誦するのは、弟安貞のため——心ばかりの手向け草である。

宗貞むねさだそで取出とりだし、アアさりながら血汐ちしほにそみしこの片袖かたそでそへもて先帝せんていへのおそれあり、如何いかはせんと四辺あたり見廻みまはし、ヲヲそれよそれよとくだん片袖かたそでこと下樋したひ押隠おしかく

宗貞は袖を取り出し、「ああ、さりながら血潮に染まったこの片袖。身に添えて持てば先帝への恐れがある。いかがはせん」と四辺を見まわし、「おお、それよ、それよ」と、くだんの片袖を琴の下樋へ押し隠す。

其間そのまおく一間ひとまより、一杯いつぱい機嫌きげん関守せきもりは、調子てうし盃盞はいさんたづさへて、あしもひよろひよろあゆみいで、エイなかさけほどたのしみはないわいの、ヤアおまへはまだないか、エイヤ何故なぜなさらぬよ、シテこの花嫁御はなよめご何処どこへいつた、ハハア彼奴あいつ床急とこいそぎだな

そのうちに奥の一間から、ほろ酔い機嫌の関守が調子と盃を携え、足もひょろひょろと歩み出る。「えい、世の中に酒ほど楽しみはないわいの。やあ、お前はまだ寝ないか。えいや、なぜ寝なさらぬよ。して、この花嫁御はどこへ行った。ははあ、あいつ床急ぎだな」

エヽいそぐやつさ、コレおまへもいつてなよ、ぬはそんだ、ばさらんだ、あれはさのゑい、これはさのゑいやとこひふちもしもはまる紅葉もみぢ

「ええ、急ぐやつさ。これ、お前も行って寝なよ。寝ぬは損だ、ばさらんだ」——あれはさのえい、これはさのえいやと、恋の淵。もしもはまる気で、四つ紅葉。

成程なるほどわしはつてようが、そなたはきついゑひようぢや、アア危険あぶないあぶないといふさまれる懐中ふところの、手先てさきおさへて

「なるほど、わしは行って寝ようが、そなたはきつい酔いようじゃ。ああ危ない、危ない」と言いざま懐へ入れるその手先を押さえて。

アアコリヤなにをするへ、おれ懐中ふところれて、ドどうするのだ

「ああ、こりゃ何をするえ。俺の懐へ手を入れて、ど、どうするのだ」

サアこれ

「さあ、これは」

イヤどうするのだよ、エエきこえたきこえた、かみがないといふことか、かみ末社まつしや打連うちつれて、目出めでためでたの若松様わかまつさまよ、えださかへてしげる、お目出めでたや千代ちよ目出めでたや、千秋せんしう万歳ばんぜいばんぜいばんぜい万々歳ばんばんぜい、ハアいざさせたまへとおしやられ

「いや、どうするのだよ。ええ、聞こえた、聞こえた。紙がないということか」——神も末社も打ち連れて、めでためでたの若松さまよ。枝も栄えて葉も茂る。お目出たや千代の子、お目出たや。千秋万歳、万歳万歳万々歳。はあ、いざさせ給えと押しやられる。

始終しじゆうむね宗貞むねさだこころのこしておく

始終を胸に納め、宗貞は心を残して奥へ入る。

あとは手酌てじやく一人酒ひとりざけ、アアさぞ今頃いまごろしげ松山まつやま、エイアゑい気味きみだぞ、コリヤいのち掻挘かきむしるはへ、どれもう一杯いつぱいさけにうつらふほしかげ

あとは手酌の一人酒。「ああ、さぞ今ごろは茂れ松山。えいや、えい気味だぞ。こりゃ命を掻きむしるわえ。どれ、もう一杯」——酒に映る星の影。

この盃中はいちうにちんぼしの、ひらめくかげとら一天いつてん今月こんげつ今宵こよひ三百年さんびやくねんにあまる、このさくらつて護摩木ごまぎとなし、班足太子はんぞくたいしつかかみまつるときは、大願だいぐわん成就じやうじゆこころままこのをのをもつて立所たちどころにどれ

「この盃の中に、ちん星のひらめく影は寅の一天。今月今宵、三百年にあまるこの桜を伐って護摩木となし、班足太子の塚の神を祭るときは、大願成就は心のまま。この斧をもって立ちどころに——どれ」

彼処かしこいしをのを、押当おしあておしあててるおとはそうそうとうとうと、やみてらせる金色こんじきは、たまちるばか物凄ものすご

かしこの石に斧の刃を押し当て押し当て研ぎ立てる音は、そうそう、とうとうと。闇を照らす金色は、玉が散るばかりに物凄い。

このをのためむるは、さいはひなるこのことと、突立つつたちあがつてをのふりあげ、ふたつにればコハ如何いかに、うちよりづる血汐ちしほ片袖かたそで取上とりあぐれば懐中ふところに、ふか秘置ひめお勘合かんがふ印授いんじゆは、おのれと飛去とびさつて鳴動めいどうするぞ不思議ふしぎなる

この斧の刃を試すには幸いこの琴と、突っ立ち上がって斧を振り上げ、二つに伐ればこはいかに。内から出るのは血潮の片袖。手に取り上げれば、懐に深く秘め置いた勘合の印がひとりでに飛び去って鳴動する——不思議なことよ。

ハテ心得こころえぬ、この片袖かたそでれば、わが懐中ふところ勘合かんがふいんさくらこずゑ飛去とびさりしは、愈々いよいよあやしきこの桜木さくらぎなににもせよとたちかかり、らんとすればもくらみ、おぼえずあとへたぢたぢ、しばこころえごえと、をのにすがりて茫然ばうぜんたり

「はて、心得ぬ。この片袖を手に取れば、わが懐の勘合の印が桜の梢へ飛び去ったのは。いよいよ怪しいこの桜木、何にもせよ」と立ちかかり、伐ろうとすれば目もくらみ、覚えずあとへたじたじ。しばし心も消え消えと、斧にすがって茫然としている。

幻影まぼろし深雪みゆきつも桜影さくらかげあしたにはくもとなり、ゆふべにはあめとなる、巫山ふざんむかし往目ゆくめのあたり墨染すみぞめ立姿たちすがた

幻か、深雪に積もる桜の影。げに朝には雲となり、夕べには雨となるという巫山の昔——その故事さながらに、目のあたりに墨染の立ち姿。

あだあだなるにこそたてれ、はなつぼみのいとけなき、禿立かむろだちからくるわさとへ、ごしてゑて春毎はるごとに、さかりいろ山風やまかぜが、てはよとのかねことも、とまりさだめぬ泡沫うたかたの、みづりしくながれの

仇し仇なる名にこそ立てれ。花の莟のいとけない禿立ちから廓の里へ、根ごと移し植えられて春ごとに盛りの色を——その色を山風が、来ては寝よとのかねごとも、とまり定めぬ泡沫の、水に散りしく流れの身よ。

関守せきもり心付こころづき、ヤア何処どことも見馴みなれぬをんな、この山影やまかげ関扉せきのとへ、何時いつに、何処どこからたのだ

関守は気づいて、「やあ、どことも見馴れぬ女。この山蔭の関の扉へ、いつの間に、どこから来たのだ」

アイわたしやアノ、撞木町しゆもくちやうからやんした

「あい、私はあの、撞木町から来やんした」

ムムなにしに

「むむ、何しに来た」

あひたさに

「逢いたさに」

ソリヤたれ

「そりゃ、誰に」

こなさんに

「こなさんに」

なにおれに、そりや何故なぜ

「何、俺に。そりゃなぜ」

いろになつてくださんせ

「色になってくださんせ」

なにがどうしたと

「え、何がどうしたと」

サアはづかしいことながら、わたししやこひにあこがれて、ゆきをもいとはず遥々はるばると、ここまでたほどに、何卒なにとぞいろよい返事へんじをしてくださんせ

「さあ、恥ずかしいことながら、私は見ぬ恋にあこがれて、雪をもいとわず遥々ここまで来たほどに。なにとぞ色よい返事をしてくださんせ」

コリヤ有難ありがたいといひたいが、どうも合点がつてんがいかぬはへ

「こりゃ有難いと言いたいが、どうも合点がいかぬわえ」

まへもマアうたがぶかい、其処そこうたにもいへる、さくらさくさくらやま桜花さくらばな

「お前もまあ疑い深い。そこが歌にもいえる——桜咲く桜の山の桜花」

さくらあり、さくらあり

「咲く桜あり、散る桜あり」

おもひおもひの人心ひとごころぢやはいなア

「思い思いの人心じゃわいなあ」

さうけばありさうなことなににもせい今日けふした二人ふたりとない、容貌きりやうなら風俗ふうぞくなら、路考ろかういはれぬ撞木町しゆもくちやう太夫職たいふしよくいろうとは、コリヤおほきに仕合しあはせなほつてたはへ、そんなら愈々いよいよこれからは

「そう聞けばありそうなこと。何にもせい、今日び二人とない器量、風俗。路考も言えぬほどの撞木町の太夫職が色で逢おうとは。こりゃ大きに仕合わせが直って来たわえ。そんなら、いよいよこれからは」

いつまでも可愛かはいがつて、秀鶴しうかく千代ちよ八千代やちよ諸白髪もろしらがまで添遂そひとげてくださんせ

「いつまでも可愛がって、秀鶴の千代八千代、ともに白髪になるまで添い遂げてくださんせ」

それ近頃ちかごろ忝謝かたじけない、ときに太夫たいふさん、おまへのおはへ

「それは近ごろかたじけない。ときに太夫さん、お前のお名はえ」

墨染すみぞめやんす

「墨染と言いやんす」

なに墨染すみぞめ、あのさくらもと墨染すみぞめ

「何、墨染。あの桜の名ももとは墨染」

エエ

「ええ」

ハテゑいお御座ござりますの、それもあれついにおれは、女郎買ぢよらうかひをしたことがないが、曲輪くるわ駆引かけひき

「はて、よいお名でございますの。それはともあれ、ついぞ俺は女郎買いをしたことがないが、廓の駆け引き」

馴染なじみのしこなし間夫狂まぶぐるひ、まこと

「馴染のしこなし、間夫狂い。実と」

うそとの

「嘘との」

手管てくだ諸訳しよわけ

「手管の諸訳」

裏茶屋うらぢやや這入はいりの魂胆こんたんまで

「裏茶屋入りの魂胆まで」

そんならここはなさうかへ

「そんなら、ここで話そうかえ」

ゆくかへるもしのぶのみだれ、かぎれぬ我思わがおも

行くも帰るも忍ぶの乱れ、限り知れないわが思い。

月夜つきよ闇夜やみよこのくるわしの頭巾づきん格子先かうしさき

月夜も闇夜もこの廓。忍び頭巾の格子先。

きつもどりつ立尽たちつく

行きつ戻りつ立ち尽くす。

むかふへてら提灯ちやうちんの、もん菊蝶きくてふ丁度ちやうどよい、首尾しゆびおもへど遣手やりてるめ

向こうへ照らす提灯の紋は菊蝶、ちょうどよい。首尾と思えど、遣手が見る目。

まつたぞや

「待ったぞや」

ヲヲようなんしたあひたかつたもしらせ、暖簾のれんくぐりてるあとを

「おお、よう来なんした」——逢いたかったのも目で知らせ、暖簾をくぐって入るあとを。

のこおほげに差覗さしのぞき、アさてまたせるぞまたせるぞと、一人ひとりつぶやほどもなく

名残多げに差し覗き、「あ、さて待たせるぞ、待たせるぞ」と一人呟くほどもなく。

まがきうちより小手こてまねき、ふわとせたるうちかけ

籬の内から小手招き、ふわと着せかけた打掛に。

すそかくれて長廊下ながらうか毒蛇どくじやくちのがれし心地ここち、ほつと一息ひといきつくかねも、ひけすぎとこうへ

裾に隠れて長廊下。毒蛇の口を逃れた心地でほっと一息、つく鐘も引け四つ過ぎて、床の上。

ヤまだこのあたたまりのさめぬのは、先刻さつきかへつたきやくでもよもやあるまい、コリヤほか出来できたはへ、何処どこ何奴どいつらねども、おとしわかうてよいをとこで、おかね沢山たくさん御所持ごしよぢなされた色男様いろをとこさまと、しつぽりおちぎりなされたで御座ござりませうの、エエはら

「や、まだこの暖まりのさめぬのは、先刻に帰った客でもよもやあるまい。こりゃ外に出来たわえ。どこのどいつか知らねども、お年が若うてよい男で、お金もたくさんご所持なされた色男さまと、しっぽりお契りなされたのでございましょうの。ええ、腹の立つ」

ホホホホコリヤ可笑をかしい、おぼえもないこと言掛いひかけて、口舌くぜつたねにさんすのかへ

「ほほほほ、こりゃ可笑しい。覚えもないことを言いかけて、口舌の種になさんすのかえ」

にくらしいとふつつりひねれば

「憎らしい」とふっつり捻れば。

アイタあいたいたいはい、斯麼こんなところやうより、かへりましようかへりましよ

「あいた、あいた、痛いわい。こんな所にいようより、帰りましょう、帰りましょう」

これいなア

「これいなあ」

色々いろいろ形姿なりすがた

身はいろいろの姿かたち。

あしなかを、つまてちよこちよこ、ちよこちよこあし爪立つまだ

足半を爪立ててちょこちょこ、ちょこちょこと足を爪立てて。

ハアこれはしたり、煙草入たばこいれわすれておいた、アままなにとせう、アイヤイヤうかうかとして睫毛まつげでもよまれてはこはこと、どれとはおもへどどうせうなア、イヤイヤおもつてどうでもかへらう

「はあ、これはしたり。煙草入れを忘れておいた。あ、ままよ、何としよう。いやいや、うかうかとして睫毛でも読まれては恐いこと。どれとは思えど、どうしようなあ。いやいや、思い切ってどうでも帰ろう」

これ

「これ」

のうやれ、わが古郷ふるさとかへろやれ

往のうやれ、わが古郷へ帰ろうやれ。

立舞たちまうちおちたるそで、これはと墨染すみぞめ取上とりあげて抱締だきしめひつ、ゆかしきをつとかたみやと、人目ひとめはぢなきければ

立ち舞ううちに落ちた袖。これはと墨染が取り上げて、抱きしめては身に添え、ゆかしい夫の形見よと、人目も恥じずに泣けば。

ヤアそなたはなになくのぢや

「やあ、そなたは何を泣くのじゃ」

サアこれは、ヲヲそれそれこの片袖かたそで他処よそ女中ぢよちうさんからかいてよこさしやんした起請きしやうぢやの

「さあ、これは。おお、それそれ。この片袖は、よその女中さんから書いてよこさしゃんした起請じゃの」

イヤそりや片袖かたそで

「いや、そりゃ片袖だ」

イエイエ起請きしやう御座ござんせう

「いえいえ、起請でござんしょう」

オオ成程なるほど起請きしやうぢや、エエおまへはなア

「おお、なるほど起請じゃ。ええ、お前はなあ」

これこのやうはじめから、起請きしやう誓紙せいし取替とりかはし、ふかいおかたありながら、かくしていてまたわしに、いろうとはようもようもたぶらかさんしたかにくらしい

「これ、このように始めから起請誓紙を取り交わした深いお方がありながら、隠しておいてまた私に色で逢おうとは。ようもようも誑かさんしたか、憎らしい」

そうともらずしたて、れば果敢はかなや片袖かたそでの、血汐ちしほ文字もじ亡跡なきあとの、かたみおもへばいとどなほ、アレなつかしいかなしいと、言葉ことばいろふくめども、こころつるぎあらはれ、立寄たちよをんな

そうとも知らず慕い来て、見ればはかなや片袖の血潮の文字は亡きあとの形見。そう思えばいっそうなお、「あれ懐かしい、悲しい」と言葉に色は含めども、心の剣は穂にあらわれる。立ち寄る女を。

はつたと白眼にらみつけ、最前さいぜんよりこの片袖かたそでに、こころをかくるあやしきをんな様子やうすあかなにとなにと

はったと睨みつけ、「先ほどからこの片袖に心をかける怪しい女。様子を明かせ、何と、何と」

ヲヲこの片袖かたそでをつと血汐ちしほ、それのみならず最前さいぜんわが業通ごふつうにてれし、勘合かんがふいん所持しよぢなすからは様子やうすがあらう、本名ほんみやうあかせなんとぢや

「おお、この片袖は夫の血潮。それのみならず、先ほどわが神通力で手に入れた勘合の印を所持するからには仔細があろう。本名を明かせ、何とじゃ」

かくなるうへなにをかつつまん、われこそは中納言ちうなごん家持やかもち嫡孫ちやくそん天下てんがのぞ大伴おほとも黒主くろぬしとはおれことだはや

「こうなるうえは何を包み隠そう。われこそは中納言家持の嫡孫、天下を望む大伴の黒主とは俺のことだわ」

さてこそ

「さてこそ」

われうらみをなさんとする、そもまづなんぢ何者なにものぢや

「われに恨みをなそうとする、そもそも汝は何者じゃ」

のうさりうらみのあればこそ、そも人間にんげんごふうけて、女子をなごとはすれども、小町桜こまちざくら精魂せいこんなり

「のう、去りし恨みがあればこそ。そもそも人間の業を受けて女とは見せるけれど、小町桜の精魂である」

われ非生ひじやう桜木さくらぎ人界にんがいしやうくれば、ななつのしやうそなはつて、五位之助ごゐのすけ安貞殿やすさだどのに、ちぎりしこともなさけなや

「われは心なき桜木も、人界の生を受ければ七つの性も備わって、五位之助安貞どのに契ったことも——情けなや」

不慮ふりよ矢疵やきずたまも、たゆるばかりのをりをり御兄君おんあにぎみかはり、あへなく此世このよさりたまふ、をつとかたみ片袖かたそでに、ひかれ陽炎かげろ姿すがた

「不慮の矢傷に玉の緒も絶えるばかりの折も折、御兄君の身に代わってあえなくこの世を去りたもうた。夫の形見の片袖に引かれて寄るこの身は、陽炎のような姿よ」

わが本性ほんしやう桜木さくらぎを、邪慳じやけんをのにかかりしぞや、むくひのほどおもれと、ありあふさくら呵責かしやくしもと、はつたと白眼にら有様ありさま

「わが本性の桜木を邪慳の斧にかけたぞや。報いのほどは思い知れ」と、ありあう桜を呵責の笞として、はったと睨むそのありさまを。

ヤア小癪こしやく無二むに無三むさん

「やあ、小癪な」と無二無三に。

をの取直とりなほして打掛うちかかれど、凡人ぼんにんならぬ精霊せいれいの、業通ごふつう自在じざいかるく、ひらりひらりとびかふ姿すがた吹雪ふぶきさくらかすみがくれや朧夜おぼろよの、みづ月影つきかげにもとられず、えみえずみまたあらはれて、いますなは人界にんがいの、輪廻りんねはなにかへる、しるしをよといふこゑばかりかたちえて桜木さくらぎに、はるくやとかへばなゆきふみつけみしだき、みづもどれば墨染すみぞめの、小町桜こまちざくらひろき、あまねふで書残かきのこ

斧を取り直して打ちかかるけれど、凡人ならぬ精霊は神通力自在に身も軽く、ひらりひらりと飛びかう姿は吹雪の桜。霞隠れや朧夜の水の月影のように手にも取られず、見えつ見えずつまた現れて——今こそすなわち人界の輪廻を離れ、根に帰るしるしを見よ、という声ばかりを残して形は消え、桜木に春もかくやと帰り花。雪を踏みつけ踏みしだき、水に戻れば墨染の小町桜として世に広く、あまねく筆に書き残されたのであった。

この曲は常磐津。詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第四編 常磐津集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開し、合方の指示は省いた。

本名題は『積恋雪関扉』。詞は劇神仙。作曲者・初演年は原典に記載がない。

原典は上下二巻に分けて載せるが、一曲なのでここではひと続きにした。

常磐津を代表する曲。関守関兵衛は実は天下を望む大伴黒主で、下の巻でその正体があらわれる。良峯宗貞(僧正遍昭)と小野小町の恋物語がその前段に置かれる。

「小町桜」は先帝の御陵に移された愛樹。崩御を悲しんで薄墨色に咲いたのを、小町の歌の徳で盛りの色に戻したと語られる。この桜の精が、下の巻で墨染となって現れる。

「百夜通ふて」は深草少将の百夜通いの伝説。九十九夜まで通って果てたとされる。ここでは宗貞の恋に重ねる。

「二子乗舟」は『詩経』邶風の篇名。衛の公子が兄に代わって死んだ故事によるので、宗貞は弟安貞の死をこれで知る。

「八声の名鏡」は大友家の重宝。裏の鶏が血に触れると鳴くという。

「言はぬは言ふに」は「言はぬは言ふにいや勝る」の諺。

次の語は語義が定めがたく、推測で埋めず原典のまま残した。「五尺いよこ」「しよんがへ」「わくせき」「真蘇枋の芒」「ゑんれつの声」「そつこでせい」。当ライブラリの『戻駕』『双面』にも同じ「そつこでせい」の囃子が出る。

流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。