虚無僧こむそう
長唄 作詞者・作曲者・初演年不詳

諸国一見の僧が富士へ向かう能がかりの名乗りから起こし、西行の「風になびく富士の煙」、業平の「時知らぬ山は富士の嶺」を引いて三保・大磯へ運ぶ。中ほどは浪花に舞台を移し、雁金五人男の文七を軸にした色師の恋話。後半は虚無僧の尺八の曲名を綴り——恋慕・虚空・虚鈴・霧海・鶴の巣籠・秋田菅垣・獅子——三味線の清掻に掛けて吹きおさめ、葺屋町・市村座の男伊達と春の賑わいで納める。
あらすじ
月は昔の友ならば、世の外いずくならまじ。これは諸国一見の僧にて候。富士の御山へ参らばやと思い候。「風になびく富士の煙の空に消えて 行方も知らぬわが思いかな」。のうのう、それなる御僧、今の歌を何と思い寄りて口ずさみ候ぞ。正月しまから何ぞいの、椀久ではあるまいし。時知らぬ虚無僧はいつも天蓋かぶるじゃのう。「時知らぬ山は富士の嶺 いつとて鹿の子まだらに雪の降るらん」。山は白妙、海は緑の三保の松風。さらり、さらさら、さっと姿の花の名に寄する、大磯の里に着きにけり。それは昔の西行の、江口の君と戯れを、ここに移して浪花なる。伊勢の浜荻こき混ぜて、女のよれる黒髪に大象も繋がるる。人は見目より、ただ心。里の色師の恋話。花ならば桜と人に宵の口。「文」と異名を雁金の、並びに青柳、嘘じゃごんせぬ紋所。申し、文さん。あちらでは喧嘩がある、ここでは抜いた斬ったはと。相手替われど主さんは変わらぬ。夜の目覚めも阿波座の烏、鳴いて明かさぬ夜半とてもなし。乾く間もなき袖の露。雁と燕の仲よいは、行くも帰るも別れては、花の盛りを待ちかねて、月に指折る深い仲。恋のいろはも文とかく、しょんがえ。浮名立つな、恋衣。翼なけれど塗り下駄の、当たる尺八、当たるが最後。恋慕、虚空のあしらいに、君が清掻、三味線の。虚鈴、霧海もよし悪しも。鶴の巣籠、立ち引きに、秋田清掻いやとは言わさぬ、獅子の曲まで吹きおさめ。弱いものはよけたがよい、強いやつは投げたがよい。菜種に蝶のしこなしを頼みやんすで小桜の、深い浅いも末かけて、名に呼ばれたる男一流。見目よき心も花に鶯。通う神風、葺屋町。人の市村、男伊達。よき春の賑わい。
詞章と現代語訳
月は昔の友ならば友ならば、よの外いづくならまじ
月は昔の友ならば、友ならば。世の外いずく、ならまじ。
是は諸国一見の僧に候、我未だ駿河の国富士浅間へ参らず候程に、此度思ひ立ち富士の御山へ参ばやと思ひ候
これは諸国一見の僧にて候。われ未だ駿河の国、富士浅間へ参らず候ほどに、このたび思い立ち、富士の御山へ参らばやと思い候。
風に靡く不二の煙の空に消えて、行衛も知ぬ我が思かな、のうのうそれなる御僧、今の歌をぼ何と思寄りて口ずさみ候ぞ、申是申御僧さんへ、はつちはつちそうあいたはんのしよもうせうし
「風になびく富士の煙の空に消えて 行方も知らぬわが思いかな」——のうのう、それなる御僧。今の歌をば、何と思い寄りて口ずさみ候ぞ。申し、これ申し、御僧さんへ。「はつちはつち、そうあいたはんのしよもうせうし」。
正月しまから何ぞいの、椀久ではあるまいし、ほんに時知ぬ虚無僧は、いつも天蓋かぶるぢやのふ、何時しらぬ虚無僧とや、オゝ時しらぬ山は富士の根いつとて鹿の子斑に雪の降らん、山は白妙海は緑の三保の松風、さらりさらりさらさらさつと姿の花の名に寄する、大磯の里につきにけり
正月しまから何ぞいの。椀久ではあるまいし。ほんに、時知らぬ虚無僧は、いつも天蓋かぶるじゃのう。「何時知らぬ虚無僧」とや。おお、時知らぬ——「時知らぬ山は富士の嶺 いつとて鹿の子まだらに雪の降るらん」。山は白妙、海は緑の三保の松風。さらり、さらり、さらさら、さっと姿の花の名に寄する、大磯の里に着きにけり。
夫れは昔の西行の江口の君と戯れを此処にうつして浪花なる、伊勢の浜荻こき交ぜて女の撚れる黒髪に、大象も繋がるゝ人は見目よりたゞ心里の色師の恋話
それは昔の西行の、江口の君と戯れを、ここに移して浪花なる。伊勢の浜荻こき混ぜて、女のよれる黒髪に、大象も繋がるる。人は見目より、ただ心。里の色師の恋話。
されば浪花に名も高き恋の訳しり、花ならば桜と人に宵の口詞に色を花曇文と異名を雁金の、並びに青柳嘘ぢやごんせぬ紋所、通ふちたねを結ぶしこなし、申ふみさんいつぞは私がこなさんに言はう言はうと思ふて居たが、今は返らぬことながら彼方では喧嘩がある此処では抜いた斬つたはと、相手替れど主さんは変らぬ浪の雁金の文さまなりと聞くに付け夜の目さめも阿波座の烏、鳴いて明さぬ夜半とてもなし、其の辛さより此の辛さ乾く間もなき袖の露
されば浪花に名も高き、恋の訳知り。花ならば桜と、人に宵の口。詞に色を花曇り。「文」と異名を雁金の、並びに青柳。嘘じゃごんせぬ紋所。通うち種を結ぶ仕こなし。「申し、文さん。いつぞは私が、こなさんに言おう、言おうと思うて居たが。今は返らぬことながら、あちらでは喧嘩がある、ここでは抜いた斬ったはと。相手替われど主さんは変わらぬ」。浪の雁金の、文様なりと聞くにつけ、夜の目覚めも阿波座の烏。鳴いて明かさぬ夜半とてもなし。その辛さより、この辛さ。乾く間もなき袖の露。
雁と燕の中よいは、行くも帰へるも別れては、花の盛を待ちかねて、月に指折る深い仲、恋のいろはも文とかく、しよんがへ、ほんにほんに嬉しい嬉しい浮名たつな恋衣
雁と燕の仲よいは、行くも帰るも別れては、花の盛りを待ちかねて、月に指折る深い仲。恋のいろはも文とかく、しょんがえ。ほんに、ほんに、うれしい、うれしい。浮名立つな、恋衣。
翼なけれど塗下駄の、あたる尺八あたるが最後、恋慕虚空のあしらひに、君が清掻三味線の、きよれいふれいもよし悪も、鶴の巣籠立引に、あき田清掻いやとは言さぬ獅子の曲迄吹きおさめ、弱いものをばよけたがよい強いやつをば投たがよい、わしやさう思ふてゐるわいな、さうだんべさうだんべ、菜種に蝶のしこなしを、頼みやんすで小桜の、深い浅いも末かけて、名に呼れたる男一流、みめよき心も花に鶯、通う神風葺矢町、人の市村男達よき春の賑ひ
翼なけれど塗り下駄の、当たる尺八、当たるが最後。「恋慕」「虚空」のあしらいに、君が清掻、三味線の。「きよれい」「ふれい」もよし悪しも。「鶴の巣籠」立ち引きに、「秋田清掻」いやとは言わさぬ、「獅子」の曲まで吹きおさめ。弱いものをばよけたがよい、強いやつをば投げたがよい。わしゃそう思うているわいな。そうだんべ、そうだんべ。菜種に蝶のしこなしを、頼みやんすで小桜の。深い浅いも末かけて、名に呼ばれたる男一流。見目よき心も花に鶯。通う神風、葺屋町。人の市村、男伊達。よき春の賑わい。
詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第二編 長唄集(明治四十二年)の校訂本文(著作権消滅)による。繰り返し記号は読みやすく展開した。
冒頭は能の様式による僧の名乗り。「風になびく富士の煙の空に消えて行方も知らぬわが思ひかな」は西行の歌(新古今集)で、西行が自讃したと伝えられる。
「時知らぬ山は富士の嶺いつとて鹿の子まだらに雪の降るらん」は在原業平の歌(伊勢物語・新古今集)。「時知らぬ」から「時知らぬ虚無僧」へ言い掛ける。
「椀久」は椀屋久右衛門。恋に狂ったという大坂の町人で、多くの曲の題になった。
「西行の江口の君と戯れ」は謡曲『江口』による。西行が江口の遊女と歌を交わした話。
「女のよれる黒髪に大象も繋がるる」は、女の髪の毛で大象もつなげるという俗諺による。
「雁金」「青柳」「文(ふみ)さん」は雁金文七ら、俗に雁金五人男と呼ばれた大坂の男伊達。「浪の雁金の紋様」もその紋所を言う。「阿波座」は大坂の町名。
後半は虚無僧の尺八の曲名を綴る。「恋慕」「虚空」「虚鈴(きよれい)」「霧海(ふれい)」「鶴の巣籠」「秋田菅垣」「獅子」。三味線の「清掻(すががき)」に掛けてある。
「葺屋町」「市村」は江戸の芝居町と市村座。結びは芝居町の春の賑わいで納める。
語義の定めがたい語は推測で埋めず原典のまま残した。「はつちはつちそうあいたはんのしよもうせうし」、「正月しまから」、「通ふちたねを結ぶしこなし」、「さうだんべ」。
作詞者・作曲者・初演年は原典に記載がない。流儀・稽古本によって仮名遣いや字句にも異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。