藤舎の紋 藤舎名玄TOSHA MEIGEN ― 詞章ライブラリーへ戻る
長唄

菊慈童きくじどう

本名題「乱菊枕慈童」  能「菊慈童」に取材  資料の題名『乱菊枕慈童』

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菊慈童 菊水の谷
菊水の谷

菊の露を飲んで七百年の齢を保つ慈童が、都にいた昔の恋を思い出して舞う。末は菊水を汲んで山路の仙家へ帰る。

あらすじ

峰の初花、谷の月——七百年も昨日今日のこと。名を彭祖と呼ばれながらも、ただひとり都の空を恋い慕う。夜半の嵐に髪を梳り、朝の雨に髪を洗う木の葉衣の暮らし。菊の一夜の夢に咲く昔を思い出すのも恥ずかしい。まことに昔は宮中にて、錦の褥、玉の床。君の情けの言の葉に露の契りを重ね、いとし可愛の妹背の恋。人目の関を越えもせぬまま、枕の科で乱れ髪となり流された。今は深山に世を捨てて、雁の便りも絶えた。菊の葉末に書く文字の筆の命毛は切れ果てず、汲むのは菊の酒。禿菊、ませ垣、川竹の縁に引かれる名も可愛らしい。恋の命は初時鳥、月の影さえ懐かしく、二度の逢瀬は時雨の紅葉。見ればそのまま顔に火が——高いも低いも色の道。互いに言うことさえ袖に分かれる留木の薫り。君と我とは飛び交う蝶、二つ連れた比翼の車。ちらりちらりと袖や袂に、春ならぬ胡蝶の夢か幻か。風に翼の白粉も乱れて糸のもつれ、思いの絆。花にあこがれ月に浮かれ、待つに来ぬ夜は氷の地獄に責められ、身を切る剣もあだに、明けゆく八声の鳥、鐘、火中の炎に苦しむ。くるりくるりと日影の小車、われのみ物思い顔。思えば昔が懐かしい。初春の霞、秋の風——四季の物狂いかと人は問う。袖にそよそよ吹く風を恋風と思わんせ、おおそれそれ誠に。心も曇る胸の闇。重ねて逢う夜は月の雲も面憎い。いとしい、しんきな顔が見たい。情けのそれが誠に、てんと誓文わが思い。それが浮名の立つとても、こちらは嬉しい。散らぬ姿の乙女菊。もとより薬の酒であれば酔いにも犯されず、その身も変わらぬ七百余歳を保っているのも、この御枕のゆえである。いかにも久しい菊の水——汲めや汲め、尽きることはないと、菊をかき分けて山路の仙家へ、慈童はそのまま帰っていった。

詞章と現代語訳

峰みねの初花はつはな谷たにの月つき、七百年しちひやくねんも昨日きのふ今日けふ、名なをも彭祖はうそと呼子鳥よぶこどり、覚束おぼつかなくも唯ただ一人ひとり、都みやこの空そらを恋衣こひごろも、夜半よはの嵐あらしに梳けづり、旦あしたの雨あめに髪かみ洗あらふ、木この葉衣はごろもの綾錦あやにしき、われから染そむる秋あきの色いろ

峰の初花、谷の月——七百年の歳月も昨日今日のよう。彭祖のごとき長寿と呼ばれながらも、心もとなくただひとり、都の空を恋い慕う。夜半の嵐に髪を梳り、朝の雨に髪を洗う。木の葉を綴った衣が綾錦のかわり、みずから染まる秋の色。

菊きくの一夜ひとよの夢ゆめに咲さく、思おもひ出いづるも恥はづかしや、実げに古いにしへは宮中きゆうちゆうにて、錦にしきの褥しとね玉たまの床ゆか、君きみが情なさけの言ことの葉はに、露つゆの契ちぎりを重かさね菊ぎく、いとし可愛かはいも妹いもと背せの、恋こひにも遥はるか十寸鏡ますかがみ

菊の一夜の夢に咲く昔——思い出すのも恥ずかしい。まことに昔は宮中にあって、錦の褥、玉の床。君の情けの言の葉に、露のような契りを重ねた重ね菊。いとしく可愛い妹背の仲も、その恋も今ははるかな真澄鏡のかなた。

おろの妻つま恋こふ山鳥やまどりの、仇あだな仮寐かりねもつれなきを、末すゑ白菊しらぎくの玉たまかづら、人目ひとめの関せきは越こえもせで、枕まくらの科とがや乱みだれ髪がみ

峰を隔てて妻を恋う山鳥のように、あだな仮寝もつれない。末は白菊の玉かずら——人目の関を越えることもできぬまま、枕の科によって乱れ髪の身となった。

今いまは深山みやまに世よを捨すて菊ぎくの、雁かりのはつかの便たよりも絶たえて、菊きくの葉末はずゑに書かく文字もじの、筆ふでの命毛いのちげ切きれ果はてもせず、汲くむや流ながれの菊きくの酒さけ、あいもおさへもひともと菊ぎくの

今は深山に世を捨てた身。雁のわずかな便りも絶えて、菊の葉末に書く文字の筆の命毛も切れ果てることがない。汲むのは流れの菊の酒。あいもおさえも、ひともと菊の——。

禿菊かむろぎくとはませ垣がきの、ませたなりふり川竹かはたけの

禿菊というのは、ませ垣にませた——ませた身なりの川竹の。

縁えんに引ひかるる名なも可愛かはいらし

縁に引かれるその名も可愛らしい。

恋こひの命いのちは初時鳥はつほととぎす

恋の命は、ひと声鳴いて過ぎる初時鳥のよう。

月つきの影かげさへ空そら懐なつかしき

月の光さえ、そぞろに懐かしい。

二度ふたたびのあふ瀬せは時雨しぐれの紅葉もみぢ

二度目の逢瀬は、時雨に色づく紅葉のよう。

見みれば其そのまま顔かほに火ひが

顔を見ればそのまま、頬に火が点る。

高たかいも

身分の高いのも——

低ひくいも色いろの道みち

低いのも、みな同じ色の道である。

後のちは互たがひに言いふことさへも、袖そでにわかるる留木とめきの薫かをり

のちには互いに言うことさえなく、袖に分かれる留木の薫りだけが残る。

君きみと我われとは飛とび交かふ蝶てふの、二ふたつ連つれたる比翼ひよくの車くるま、ちらりちらりちらりちらり

君と我とは飛び交う蝶、二つ連れ立つ比翼の車。ちらりちらりと。

袖そでや袂たもとに

袖に袂に舞いかかる。

春はるならで、胡蝶こてふの夢ゆめか幻まぼろしか

春でもないのに——これは胡蝶の夢か、それとも幻か。

風かぜに翼つばさの白粉おしろいも、乱みだれ乱みだれて糸いとの縺もつれや思おもひの絆きづな

風に散る蝶の翅の粉のように、白粉も乱れに乱れて、糸のもつれ、思いの絆となる。

花はなにあこがれ月つきに浮うかれて、待まつに来こぬ夜よは氷こほりの地獄ぢごくに、せめられ身みをきる剣つるぎはあだに、明あけゆく八声やこゑの鳥とり鐘かね、火中くわちゆうの炎ほのほに苦くるしみて

花にあこがれ月に浮かれ、待っても来ない夜は氷の地獄に責められる。身を切る剣もあだとなり、明けゆく八声の鳥、鐘の音——火中の炎に苦しんで。

くるりくるくる日影ひかげの小車をぐるま、われのみ物ものや思おもひ顔がほ

くるりくるくると回る日影の小車——われひとりが物思い顔である。

思おもへば昔むかしし懐なつかしや、初春はつはる霞がすみ秋あきの風かぜ、四季しき物狂ものぐるひと人ひとや問とふ、人ひとの眺ながめも

思えば昔が懐かしい。初春の霞、秋の風——四季の物狂いかと人は問う。人の目に映る姿もまた。

袖そでにそよそよ吹ふく風かぜを、恋風こひかぜと思おもはんせ、オオそれそれそれ誠まことまこと

袖にそよそよと吹く風を、恋風とお思いなさいませ。おお、それそれ、まことにまことに。

心こころも曇くもる胸むねの闇やみ、かんならずエエ月つきの夜よに、御座ござんせつまがへさん、つまがへさんつまがへさん恋風こひかぜと思おもはんせ、オオそれそれそれ誠まことまこと

心も曇る胸の闇。かならずや、ええ、月の夜においでなさいませ、つまがえさん。つまがえさん、つまがえさん——恋風とお思いなさいませ。おお、それそれ、まことにまことに。

かさで逢あふ夜よはナア、月つきの雲くもも面憎つらにくいとし、しんきな顔かほ見みたや、いとししんきのなん

重ねて逢う夜はなあ、月にかかる雲も面憎い。いとしい、じれったそうな顔が見たい。いとしいしんきの、なんの。

情なさけのそれが誠まことに、てんと誓文せいもんわが思おもひ

情けのそれがまことに、てんと誓文——わたしの思いは。

それが浮名うきなのナ立たつとても、こちや嬉うれし

それで浮名が立つとしても、こちらは嬉しい。

いとししんきの顔かほ見みたや、いとししんきのなんなん情なさけの、露つゆや時雨しぐれやてんと誓文せいもん我わが匂にほひ、それが浮名うきなの立たつともこちや嬉うれし、散ちらぬ姿すがたの乙女菊をとめぎく

いとしいしんきの顔が見たい。いとしいしんきの、なんの、情けの露や時雨や——てんと誓文、わたしの匂い。それで浮名が立ってもこちらは嬉しい。散ることのない姿の乙女菊よ。

もとより薬くすりの酒さけなれば、酔ゑひにも犯をかされず、その身みも変かはらぬ七百余才しちひやくよさいを保たもちぬるも、この御枕おんまくらの故ゆゑなれば、いかにも久ひさしき菊きくの水みづ、汲くめや汲くめ汲くめ尽つくせじと、菊きくかき分わけて山路やまぢの仙家せんかにそのまま慈童じどうは帰かへりけり

もとより薬の酒であるから、酔いに犯されることもない。その身も変わらぬ七百余歳を保っているのも、この御枕のゆえである。まことに久しい菊の水——汲めや汲め、汲んでも尽きることはないと、菊をかき分けて、山路の仙家へ慈童はそのまま帰っていったのであった。

詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第二編 長唄集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開した。合方(〔合〕)の指示は省いている。資料の題名は『乱菊枕慈童』。

能「菊慈童」(枕慈童)に取材する。周の穆王に仕えた侍童が、王の枕をまたいだ科で山中に流されたが、王から賜った枕に記された法華経の偈を菊の葉に書いたところ、その露が不老不死の薬となり、七百年の齢を保ったという故事による。

「彭祖」は中国の伝説上の長寿者。八百歳を生きたという。

「枕の科」は、王の枕をまたいだ罪をいう。この一句が曲全体の背景をなす。

「川竹」は遊女の身の上をいう語。「禿菊」は八重咲きの菊の一種で、遊女に付き添う少女「禿」に掛ける。中盤は慈童の昔語りに廓の恋の風情を重ねる趣向になっている。

「胡蝶の夢」は『荘子』の故事。夢と現の区別のつかぬさまをいう。

「てんと誓文」は「まったくもって誓って」という意の俗語。

作詞者・作曲者・初演年は原典に記載がない。流儀・稽古本によって字句にも異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。