神路山色琫かみじやまうきなのこいぐち
常磐津 瀬川如皐 述 資料目次の別記「お紺貢」 作曲者・初演年不詳

伊勢古市の油屋を舞台に、遊女お紺と御師福岡貢、遣手の万野、料理人の喜介らが織りなす「伊勢音頭」(歌舞伎『伊勢音頭恋寝刃』でおなじみの油屋の一件)の世界による世話物。名刀青江下坂とその折紙の詮議を軸に、前半は阿波の客徳島岩治の座敷の俄尽くしの滑稽、後半はお紺の切ない胸のうちと、刀をめぐる悪者たちの企み。終わりは岩治が刀の中身をすり替えるところで曲を納め、油屋騒動の惨劇そのものは描かれない。
あらすじ
伊勢古市の油屋は、阿波の客徳島岩治の五日あまりの居続けで、浮かれ騒ぎのまっただ中。岩治の狙いは遊女お紺を手に入れること。遣手の万野が取り持ちを請け合い、藍玉屋北六や、治郎介・丈八・殿中・破扇ら太鼓持ちの連中がはやし立てる。座敷では吉原の廓話に、柴又の帝釈様への道すがら娘に見とれるのら和尚の俄、あべこべの雷の唄、餅尽くしの地口と、にぎやかな芸尽くしがつづく。その騒ぎの裏で、お紺はひとり辛い座敷を抜け出して思い沈む。貢には許嫁も養子先の義理もある身、縁を切ってくれという叔母様のくれぐれもの頼みを受けて、別れる覚悟を固め、せめて死後の言い訳にと一筆をしたためる。折から貢が油屋へたずねて来るが、万野は油虫だのかす禰宜だのと貢をこきおろし、よその女郎への無心状だという文殻をお紺に突きつける。ひと目で偽筆と見抜いたお紺は、それでも言い返さず、心にもなく岩治に乗り替わると言ってのけ、涙を隠して座敷へ出る。やって来た貢を万野は冷たくあしらい、伊勢の茶屋のならいと腰の物を預けるよう迫る。困る貢の窮地を救ったのは料理人の喜介。じつは父の代に貢の家に仕えた縁があり、亡き父の遺言を守って蔭ながら忠義を尽くすと明かす。貢も心底を打ち明ける。預けた一腰こそ主家の若殿のために求める名刀青江下坂、夜ごとの廓通いは、かたり取られた折紙の詮議のためであった。ところがその立ち話を、北六・万野・治郎介が立ち聞きしてしまう。奥座敷では下坂を盗み出そうと滑稽な知恵くらべ。その隙に岩治はひとり、預けられた下坂と自分の差料の中身をすり替え、しっくり鞘へ納めて、にこにこ笑いの止まらぬまま一間へ入るのであった。
詞章と現代語訳
派手は遊びは備前杉本油屋へ、東方南方北方西方、くるはお客の酒に浮立ち、弾や弾三味浮れ色めく女郎衆芸子に、いつかな粋めもうつゝぬかして、有頂天つく鼓に太鼓、ヨイヨイよやさのよやさの、わいわいのわいとな
派手な遊びなら、備前屋・杉本屋・油屋へ。東方南方北方西方、廓へ「来るは」お客と洒落て、酒に浮かれ立ち、弾けや弾けの三味線に、浮かれ色めく女郎衆や芸子に、さすがの粋人までうつつを抜かして有頂天。打つ鼓に太鼓、ヨイヨイよやさのよやさの、わいわいのわいとな。
此藍玉屋北六が大事のお客人、阿波の徳島岩治様と五日余の飲続け
この藍玉屋北六の大事のお客人、阿波の徳島岩治様と、五日あまりの飲み続け。
昨日芝居今日は又、此徳島が催しでお紺お岸を伴ふて
昨日は芝居、今日はまた、この徳島の催しで、お紺とお岸を連れ立って。
朝熊山の朝景色と
朝熊山の朝景色を見よう、と。
その様に岩治さんが、心を尽しなさんすも
そのように岩治さんが心を尽くしなさるのも。
お紺の君をお手に入んず謀事
お紺の君を手に入れようという謀。
コレ万野アノ貢めが手を切て、お紺がわれらに靡くやう、その取持はそもじの働き
これ万野、あの貢めと手を切って、お紺がわれらに靡くよう、その取り持ちはそなたの働き次第。
頼む頼む
頼む、頼む。
ヲツト皆まで言んすな、これでも元は江戸に居て、花の盛りの吉原の、大町小店其処此処と、ツイ泥水はそみやすく、不図した浮気の仲町から、堅い石場とおつこち故、二度の勤の品川や、神奈川かけて大磯と、流れ渡りの苦労人、今では年も古市に、遣手の万野と言れては、少びんながら色恋の、諸訳も知た大姉、此取持を請合ふからは、五分でもあとへは引やんせぬ、マアさう思ふて下さんせいなア
おっと、皆まで言いなさんすな。これでも元は江戸にいて、花の盛りの吉原の、大見世小見世をあちらこちらと。つい泥水稼業には染まりやすく、ふとした浮気で深川仲町から、堅気ならぬ石場へところび落ちたゆえ、二度めの勤めの品川や、神奈川から大磯までと流れ渡った苦労人。今では年も古りた古市で、遣手の万野と言われるからは、少びんながら色恋の諸訳も心得た大姉貴。この取り持ちを請け合うからは、五分ほども後へは引きなさんせぬ。まあ、そう思ってくださんせいなあ。
イヨ大和屋ア
いよう、大和屋ぁ。
ハヽヽハヽヽヽヽ
はははは、と笑い声。
これは万野の言通り、アノお紺さんが
これは万野の言うとおり。あのお紺さんが。
旦那の思はくとなることは、斯申す治郎介や
旦那の思わく通りになることは、かく申す治郎介や。
此丈八が請合の西瓜、真赤な嘘ではないことは
この丈八が請け合いの西瓜——中身まで真っ赤でも、真っ赤な嘘ではないことは。
爰に御座んすお江戸のぼりの、殿中さんや破扇さんが
ここにおりますお江戸上りの、殿中さんや破扇さんが。
お請合申すからは
お請け合い申すからは。
モシ旦那親船に乗た心持で
もし旦那、大船——親船に乗った心持ちで。
落付て御座りませ
どっしり落ち着いていらっしゃいませ。
コレコレその請合の手始めに
これこれ、その請け合いの手始めに。
面白い芸事が所望所望とそやされて
面白い芸事を所望、所望、とはやし立てられて。
さうお見立に預つては
そうお見立てにあずかっては。
少々恐れ入山形、二ツ星の華魁なら
少々恐れ入り——「入山形に二つ星」の最上級の花魁なら。
訳よし原の色郭に、ゑんり江戸町伏見町、引四ッ過の火の用心さつしやりませう、二階を廻らしやりませう、首尾待つ夜半の廻し部屋
訳を知る者ぞ知る「わけよし原」——吉原の色郭では、江戸町、伏見町、引け四つ過ぎの「火の用心さっしゃりましょう、二階を回らっしゃりましょう」の触れ声。首尾を待つ夜半の廻し部屋。
ヲツト其吉原の郭の様子は、皆様も御案内だ
おっと、その吉原の廓の様子は、皆様もとうにご存じだ。
サア珍しいお話と言ては何にもない、ほんにそれそれ此間柴又村の、帝釈様へ参詣と出掛る向ふより
さあ、珍しいお話といっては何もないが、ほんに、それそれ。この間、柴又村の帝釈様へお参りと出かけると、向こうから。
斯る所へ葛西領なる篠崎村の、弥陀堂の坊様は、雨降あげくに修業と出かけて、右に数珠持ち、左の肩には大きな木魚、横たにかゝへて、南無からたんのうとらやあやあ、おらが嬶がつばらんだアの、隣のかみさん是者ぢやの、何の彼のと修業はよけれど、遥か向ふから、十六七なる姉さんなんぞを、一寸又見染た、アアアアヱヽヱヽセノヨイヨイヨイ、よつぽど女にやのら和尚
そこへ、葛西領は篠崎村の弥陀堂の坊様が、雨上がりに修行と出かけて来る。右に数珠を持ち、左の肩には大きな木魚を横抱きにかかえて、「南無からたんのう、とらやあやあ。おらが嬶がつばらんだあの、隣のかみさん是者じゃの」と、何のかのと修行はよいけれど、はるか向こうから来る十六、七の姉さんなどを、ちょっとまた見染めた。ああああ、ええええ、セノヨイヨイヨイ。よっぽど女好きの、のら和尚。
これから跡が肝腎要、其坊様と其娘とだんだん
これから後が肝心要。その坊様とその娘とが、だんだんに。
深くなりひら其お姿に打こんで、天に上らば比翼の鳥
深い仲となり——在原業平さながらのそのお姿に打ち込んで、天に上れば比翼の鳥。
地に又あらば連理の枝と
地にあればまた、連理の枝にと。
さへつさゝれつたのむうち
さえずり交わすように語らい、頼み合ううちに。
折しも烈しきはやち風、どうどうどつと吹出し、雨は頻りにさつさつさつと降頻る、此の虚にのつて稲妻さきてにぴかぴかぴか、雷神は太鼓引脊負ひごろごろごろぴつかり、今は詮方堪りかね、万歳楽コレ嬶々
折しも激しい疾風がどうどう、どっと吹き出し、雨はしきりに、さっさっさっと降りしきる。この隙に乗じて稲妻が先にぴかぴかぴか、雷神は太鼓を引っ背負って、ごろごろごろ、ぴっかり。今はせんかたなく堪りかねて、「万歳楽、万歳楽。これ嬶、嬶」。
間違へば間違ふものだよ、稲妻ごろごろ雷神ぴかぴか、蚊帳よ嬶釣れ臍立て線香隠せ
慌てれば間違うものだよ。「稲妻ごろごろ、雷神ぴかぴか。蚊帳よ、嬶釣れ、臍立て、線香隠せ」——蚊帳を釣って線香を立て、臍を隠すはずが、みなあべこべ。
ヤア面白かつた
やあ、面白かった。
御苦労御苦労
ご苦労、ご苦労。
時にお紺さんの仕舞の出来るまで、俄狂言の言合せ、一寸お座敷の居処替り
ときに、お紺さんの身じまいができるまで、俄狂言の打ち合わせに、ちょっとお座敷の席替え。
さゝめく拍子のヤツチヨンヤツチヨン
ざわめく拍子の、ヤッチョンヤッチョン。
サアサア来なんせ黄粉餅
さあさあ「来なんせ」——黄粉餅。
行かんせ行かんせ幾世餅、提灯餅がぬかるみで、すべつて転べばあんころ餅、旦那は頗るお金持、サア囃す末社の友狐、さゞめき連て入にける
「行かんせ行かんせ」——幾世餅。提灯持ちがぬかるみで、すべって転べばあんころ餅。旦那はすこぶるお金持ち。さあ囃す太鼓持ちの末社連は、稲荷の末社の狐よろしく、ざわめき連れ立って入っていった。
跡は野分の風戦ぐ、憂を見に知る黄昏時、お紺は思ひつくづくと、辛い座敷を立出て
あとには野分の風がそよぐばかり。憂さを身に知る黄昏時、お紺は思いもつくづくと、辛い座敷を立ち出でて。
折角思ひ思はれて、二世と替した貢さん、榊さまと許嫁の、お内儀さんがある其上に、福岡の家や養子の御身、私の縁が切さへすれば、養子先の義理も立ち、あきもあかれもせぬ仲故、嫌でもあらうが得心して、別れて呉れとのアノ叔母様がくれぐれとの御頼み、トハ言ふものゝ是がまア
せっかく思い思われて、二世をかけて言い交わした貢さん。榊様という許嫁のお内儀さんがある、その上に、福岡の家へ養子に入るお身の上。私との縁さえ切れれば養子先への義理も立つ。飽きも飽かれもせぬ仲ゆえ、嫌ではあろうが得心して別れてくれ、とのあの叔母様の、くれぐれものお頼み。とは言うものの、これがまあ。
一夜流れの仇夢も、数へて見れば三四歳を、今更別れ片時も、浮世の日影見られうぞ
一夜かぎりの流れの仇夢と思ったのも、数えてみれば三年四年。今さら別れて、片時なりとこの浮世の日の光が見られようか。
私を誠の女房と、思ふて御座んすなればこそ、折紙の詮議をば打明てのお頼み、確かに奥の客が持て居ると思ふ故、帯紐解て此身をまかせ、折紙を取返し貢さんへ手渡して、死ぬる覚悟の私が橾、せめては死後の言訳に、一筆なりと書残さん、さうぢやさうぢや
私を誠の女房と思ってくださればこそ、折紙の詮議まで打ち明けてのお頼み。確かに奥の客が持っていると思うからには、帯紐を解いてこの身をまかせてでも、折紙を取り返して貢さんへ手渡し、そのうえで死ぬ覚悟——それが私の操。せめて死んだ後の言い訳に、一筆なりと書き残そう。そうじゃ、そうじゃ。
さゝ蟹の軒に知せの糸筋も、千々の思ひにたてどなき、筆の命毛そこはかと
笹蟹——蜘蛛が軒に糸を下げれば良いことの知らせというが、その糸筋も千々に乱れる思いには筋の立てようがなく、筆の命毛の運びもそこはかとなく。
たどる貢は軒近く
道をたどって来た貢は、油屋の軒近く。
アノ唄は油屋の二階にて、阿波の客が居続けに、面白想に唄ふに引換へ、今宵につゞまる折紙の詮議、お紺に頼み置たれど、今に否やの返事もないは、もし岩治の手にない事かハテ
あの唄は油屋の二階で、阿波の客が居続けに面白そうに唄っているのか。それに引き換え、今宵に切羽つまった折紙の詮議。お紺に頼んでおいたが、いまだに諾とも否とも返事がないのは、もしや岩治の手にはないのか。はて。
何をがなとつおいつ、内にはお紺も筆をとゞめ
何か手がかりはないかと、とつおいつ思案する。内ではお紺も筆をとどめて。
去乍ら今にも貢さんが御座んして、愛想尽しを言たなら、深い様子を知らしやんせぬ故、嘸憎いやつと恨まんせう、それが悲しい悲しいわいなア
さりながら、今にも貢さんがおいでになって、愛想尽かしを言ったなら、深い訳をご存じないゆえ、さぞ憎いやつと恨みなさろう。それが悲しい、悲しいわいなあ。
うすき縁とする墨も、涙ににじむかへす書き
薄い縁と同じ薄墨——磨る墨も涙ににじんで、返す返す書き直す。
叔母が情に下坂の、刀は我手に有り乍ら、アノ折紙が手に入ねば、左膳様には御切腹、万次郎様には尚以て、御身に科が重なる道理、こゝろこゝろの世の中ぢやなア
叔母の情けで下坂の刀はわが手にありながら、あの折紙が手に入らねば、左膳様はご切腹、万次郎様にはなおのこと、お身に科が重なる道理。ままならぬ、心々の世の中じゃなあ。
硯の海の底深う
硯の海のように、思いは底深く。
申し貢さん此世の僅かの恋中も、未来は必ず女夫ぢやぞえ
申し、貢さん。この世ではわずかの恋仲でも、未来では必ず夫婦じゃぞえ。
お紺さんお紺さん
お紺さん、お紺さん。
アリヤ万野の声
あれは万野の声。
もつれ纏ふや伊勢の浜荻、外には貢が
もつれ纏いつく、伊勢の浜荻。外には貢が。
兎に角お紺を呼出し、様子を聞んと門口へ、立寄る奥より
とにかくお紺を呼び出して様子を聞こうと、門口へ立ち寄ると、奥から。
お紺さんは何処にぢやへ
お紺さんはどこにじゃえ。
ヤヽアリヤ万野が声
やや、あれは万野の声。
今逢ては首尾悪しと、庭口さして忍び入る
今会っては首尾が悪いと、庭口をさして忍び入る。
お紺さん爰にかいなア、モ一遍と尋ねて居た、いや申し早速乍ら言にやならぬは、油虫客のかす禰宜の貢づら、と言かけると聞咎め
お紺さん、ここにかいなあ、もう一遍——と尋ねていたところ。いや申し、早速ながら言わずばならぬのは、油虫客の、かす禰宜の貢づら——と言いかけるのを聞き咎め。
アヽ申し万野さん矯ましやんせ、さして此頃派手な遊びはなさんせずとも、馴染重ねし主の事、かす禰宜の油虫のと、滅多なことを言しやんすなへ
ああ申し、万野さん、おたしなみなさんせ。さしてこの頃は派手な遊びはなさらずとも、馴染みを重ねた主のこと。かす禰宜の、油虫のと、滅多なことを言いなさんすなえ。
イヱ言いでかいなア言いでかいなア、此古市中の女郎さん達へ、口先ばかりつべこべつべこべと、嬉しがらせてアノ性悪な貢さん
いえ、言わずにおかりょうかいなあ、おかりょうか。この古市中の女郎さん達へ、口先ばかりつべこべつべこべと嬉しがらせて。あの性悪な貢さん。
なんとへ
なんとえ。
ホヽヽヽアヽいとしやお前何にも知ぬのぢやな
ほほほほ。ああ、いとしや。お前、何にも知らぬのじゃな。
ソリヤ何がいなア
そりゃ、何がいなあ。
ハテ方々の女郎を誑す油虫の貢づら、今も今とてお鹿さんへ度々の無心状、誠と思ふて身の皮はいで打込だのが悔しいと、私へつくづく身の懺悔、と懐中より文殻投出し
はて、方々の女郎をたらしこむ油虫の貢づら。今も今とて、お鹿さんへ度々の無心状。誠と思って身の皮を剥いで貢いだのが悔しいと、私へつくづく身の懺悔——と、懐中から文殻を投げ出し。
コレ見やしやんせ、これで訳が分るがナ
これ、見やしゃんせ。これで訳が分かるがな。
そんなら此文もあの貢さんから
そんなら、この文もあの貢さんから。
何と合点が行んしたかへ、モウモウふつゝと為にならぬアノ貢づらは思ひ切て、岩治様に靡かんせコレ悪い事はすゝめはせぬぞへ、とたきつけかける言葉の端
なんと、合点がいきなんしたかえ。もうもう、ふっつりと、ためにならぬあの貢づらは思い切って、岩治様に靡きなんせ。これ、悪いことは勧めはせぬぞえ——と、焚きつけかける言葉の端。
どのやうに真似たとて、二世と替せし殿御の手跡、見違へて何とせう、見す見す知れたコリヤ偽筆、と言はんとせしが成程此文の様子では興のさめた貢さん、けふからお前の意見について
どのように真似たとて、二世をかけて言い交わした殿御の手跡、見違えてなんとしよう。見す見す知れた、こりゃ偽筆——と言おうとしたが、思い直して。なるほど、この文の様子では興のさめた貢さん。今日からお前の意見について。
アノ私がすゝめ得心して
あの、私の勧めを得心して。
アイ岩治さんに乗替る、私や心になつたわいなア
あい、岩治さんに乗り替わる——私は、そういう心になったわいなあ。
オヽホヽヽヽアヽマアよう得心してなア、アヽ嬉しやお紺さん大すき大すき、そんならちつとも早う、サア御座んせとせがまれて、お紺は詮方泣涙、隠して座敷へ出でにける
おお、ほほほほ。ああまあ、よう得心してなあ。ああ嬉しや、お紺さん大好き、大好き。そんならちっとも早う、さあ、ござんせ——とせがまれて、お紺はせんかたない泣き涙を隠して、座敷へ出て行った。
中庭伝への廻り縁、貢を目早く万野が見つけ
中庭伝いの廻り縁で、貢を目ざとく万野が見つけ。
貢さん此間から度々御出の噂は聞たれど、阿波のお客の居続けで、とんとお紺さんの明がなし、殊に今日は芝居の初日で、お客に連られ戻りは丁字屋で立ぢやとの事、ほんにお気の毒やホヽヽヽヽ
貢さん、この間から度々おいでの噂は聞いたれど、阿波のお客の居続けで、とんとお紺さんの空きがなし。ことに今日は芝居の初日で、お客に連れられ、戻りは丁字屋でまた一席じゃとのこと。ほんに、お気の毒や。ほほほほ。
そんならお紺はまだ戻らぬか、コレ万野どうぞお紺が戻り次第、一寸働いて呉れぬかい
そんなら、お紺はまだ戻らぬか。これ万野、どうぞお紺が戻り次第、ちょっと働いてくれぬかい。
そりやモウお馴染のお客の事ぢやによつて、どうぞして上たいけれど、お客は阿波のお侍士、むづかしいお方故、お紺さんの居なさる座敷へ、ひよつとお前が顔など出してお呉なへ、ほんにモウ一文にもならぬお客につき合て居るは、うつとしいものぢやのう、と愛想もなげの憎体口、貢もむつとせし顔に
そりゃもう、お馴染みのお客のことじゃによって、どうぞして差し上げたいけれど、お客は阿波のお侍、気むずかしいお方ゆえ、お紺さんのいなさる座敷へ、ひょっとお前が顔など出しておくれでないぞえ。ほんにもう、一文にもならぬお客につき合っているのは、うっとうしいものじゃのう——と、愛想もない憎まれ口。貢もむっとした顔つきに。
ホヽヽヽヽ私とした事が、心の底に思ふ事をひよこすかと、貢さん必ず気にさへてお呉れなへ、爰にお遊びならば誰ぞかはりの女郎さんを呼ばしやんせぬか
ほほほほ。私としたことが、心の底に思うことを、ついひょいと口に出して。貢さん、けっして気に障えておくれでないぞえ。ここでお遊びなさるなら、誰ぞ代わりの女郎さんを呼びなさんせぬか。
かはりの女郎をよべとあればソリヤどうなりと
代わりの女郎を呼べとあれば、そりゃ、どうなりと。
そんならかはりを呼しやんすか、貢さんようお出たなア
そんなら、代わりを呼びなさんすか。貢さん、よくもその言葉が出たなあ。
俄かに変るからくりの、的をちがひの追従口
にわかに変わるからくり仕掛け、的をはずした追従口。
マア何にせい御酒の支度をせにやならぬが、然しお遊びなさるならお腰の物と
まあ何にせよ、お酒の支度をせにゃならぬが。しかしお遊びなさるなら、お腰の物を——と。
刀へかける手を払ひ
刀へかける手を払い。
イヤ此腰の物は滅多には
いや、この腰の物は、滅多なことでは。
お前も粋のやうにもない、伊勢の茶屋で腰の物預るは、昔からの慣習、夫に預けられぬと仰有れば、此方もお客にやなりませぬ、早うおかへりと追立れば、貢は当惑さすればお紺に頼み置く、否やも知ずとためらへば
お前も粋人らしくもない。伊勢の茶屋で腰の物を預かるのは、昔からの慣わし。それに、預けられぬとおっしゃれば、こちらもお客にはいたしませぬ、早うお帰り——と追い立てられ、貢は当惑。さりとて、お紺に頼んでおいた一件の諾否もまだ知れぬ、とためらえば。
そんなら刀を預りませうか
そんなら、刀をお預かりしましょうか。
サそれは
さ、それは。
お帰りなさるか
それとも、お帰りなさるか。
サア
さあ。
サアサアサア、せり合ふ奥より
さあ、さあ、さあ——と、せり合うところへ、奥から。
アモシお腰の物は私がお預り申しませう、と立出るは料理人
「あ、もし。お腰の物は私がお預かり申しましょう」と立ち出たのは、料理人。
ヲヽ喜介か
おお、喜介か。
貢様居続けのお客様で忙しうて、久しうお目にかゝりませぬ
貢様、居続けのお客様で忙しくて、久しくお目にかかりませぬ。
アヽ申し喜介どの、そんならこなたが腰の物を
ああ申し、喜介どの。そんなら、こなたが腰の物を。
ハテあなたも元はお歴々のお侍士、軽はづみに女子の此方へ、お腰の物をお預けはなさるまいと推量して、たとへ賎しい料理人でも男の端くれ、私が預るハイ私がお預り申しまする、と言ば貢が安堵の思ひ
はて、あなたも元はお歴々のお侍。軽はずみに女子の手へお腰の物をお預けにはなるまいと推量して。たとえ賎しい料理人でも男の端くれ、私がお預かりする。はい、私がお預かり申しまする——と言えば、貢は安堵の思い。
然らば其方に預ける麁末なきやうにと手渡すを見て
しからば、その方に預ける。粗末なきように——と手渡すのを見て。
さらばお座敷の支度せう、お紺さんの名代はアヽ誰がよからうぞと
さらば、お座敷の支度をしよう。お紺さんの名代は、ああ、誰がよかろうぞ——と。
そゝくさ座敷へ立て行く
そそくさと座敷へ立って行く。
イヤ申しチト私が申上げたい事が御座ります、ちよつとそれへ
いや申し、ちと私が申し上げたいことがございます。ちょっと、それへ。
ムヽシテわしに用とは
むむ。して、わしに用とは。
喜介は四辺見廻して
喜介はあたりを見回して。
今改めて申上るも如何なれど、私が親共はあなたの御親父様へ、中間奉公致した身の上、親旦那様の御浪々、此志州の鳥羽へお逼塞の身と、おなりなされしその後に、父親めも此伊勢路に引移り、世を送る年月も、老病の枕元へ私を呼び、アノ福岡孫太夫様の御養子貢様は、われわれ親子が故主の若旦那
今改めて申し上げるのもいかがなれど、私の親どもは、あなたのご親父様へ中間奉公いたした身の上。親旦那様がご浪々の身となり、この志州鳥羽へご逼塞なされたその後に、父親めもこの伊勢路へ引き移って世を送るうち、年月を経て、老いの病の枕元へ私を呼び——あの福岡孫太夫様のご養子の貢様は、われわれ親子の旧主の若旦那。
随分ともに蔭ながら心をつけ、忠義をつくせと末期の遺言
随分と蔭ながら心をつけ、忠義を尽くせ——との末期の遺言。
コリヤあなたにも御存じの事、しかし毎晩こゝへ御出あれば、御身に禍患まねく道理、モシ若旦那料理人づれの私が、洒落さいこと言おると、思召も御座りませうが、随分御身を大切に、叔母御様へ御苦労をかけぬやう、養ひ親御を御大事に、どうぞなされて下されませと、涙ながらに言述る、思ひは厚き俎板に、立る忠義のまな箸や、切目正しき意見ぞと、貢は殆ど感じ入り
これは、あなたもご存じのこと。しかし毎晩ここへおいでになれば、お身に禍を招く道理。もし若旦那、料理人ふぜいの私がしゃらくさいことを言いおる、との思し召しもございましょうが、随分とお身を大切に、叔母御様へご苦労をかけぬよう、養い親御をお大事に、どうぞなされてくださいませ——と涙ながらに言い述べる。思いは厚い俎板に、立てる忠義のまな箸や、切り目正しい意見ぞと、貢はほとほと感じ入り。
ハヽア頼もしい此方の意見、その心底を存じ居る故、只今預る一腰は、我故主の大殿より、若殿万次郎様へ求め下れと厳命ありし青江下坂
ははあ、頼もしいこなたの意見。その心底を存じているゆえ打ち明けるが、ただいま預けた一腰は、わが旧主の大殿より、若殿万次郎様へ求めてまいれと厳命のあった、青江下坂。
ヱヽ左様なら此一腰が
ええっ。それなら、この一腰が。
サア叔母じや人の厚志にて手に入しが、万次郎様が若気の誤りに折紙をかたり取れ、其詮議のため夜毎夜毎の郭通ひ、あながち放埓といふ訳ではない、と言つゝ喜介に
さあ、叔母じゃ人の厚志で手に入ったが、万次郎様が若気の誤りで折紙をかたり取られ、その詮議のため夜ごと夜ごとの廓通い。あながち放埓というわけではないのだ——と言いつつ、喜介に。
ナナと囁けば
なになに、と囁けば。
ムヽその折紙を衒つた奴が此油屋へ
むむ。その折紙をかたり取った奴が、この油屋へ。
アコレ
あ、これ——声が高い。
サアヤアトヤ夜さの泊りはどこが泊りぞ
「サアヤアトヤ、今夜さの泊まりは、どこが泊まりぞ」。
草を敷寐の肱枕肱枕
「草を敷き寝の肱枕、肱枕」。
今宵は殊更人目も繁く、首尾する迄は
今宵はことさら人目も繁い。首尾よく運ぶまでは。
奥座敷で
奥座敷で。
貢さま
貢さま。
喜介
喜介。
斯うお出なされませ
こちらへ、おいでなされませ。
雨の降夜は一しほ床し
雨の降る夜は、ひとしお床しい。
始終を窺ふ北六万野、次郎介連立ちぬつと出で
一部始終を窺っていた北六と万野、次郎介が連れ立って、ぬっと現れ。
北六さん今の様子を
北六さん、今の様子を。
お聞なされましたか
お聞きなされましたか。
さればされば天の与への今宵の首尾、貢のさしたアノ刀が
さればされば。天の与えの今宵の首尾。貢の差していたあの刀が。
尋る青江下坂とは
探し求める青江下坂とは。
シツ窃々
しっ——ひそひそ。
奥では見立の智恵くらべ
奥では、趣向の見立ての知恵くらべ。
ほんによい智恵はないかいなア
ほんに、よい知恵はないかいなあ。
智恵はないか
知恵はないか。
智恵はないか
知恵はないか。
中々ちよつくらちよつとした事で、アノ下坂はちよろまかされぬ
なかなか、ちょっくらちょっとしたことでは、あの下坂はちょろまかされぬ。
所で智恵が御座んする
ところで、ここに知恵がござんする。
智恵があるとはコリヤ豪い
知恵があるとは、こりゃ豪い。
シテその智恵はどうぢやいなどうぢやいな
して、その知恵はどうじゃいな、どうじゃいな。
大事のお客の言付と、喜助に料理言付けて、其間に此方へ下坂を、ちよつくらちよのちよいとひん盗む
大事のお客の言いつけじゃと、喜助に料理を言いつけて、その間にこちらへ下坂を、ちょっくらちょのちょいと、ひん盗む。
それから跡はどうしやる
それから後は、どうしやる。
どうぢやいな
どうじゃいな。
私は当分欠落ぢや
私は当分、欠落——姿隠しじゃ。
われらもこつそり国に行く
われらも、こっそり国へ行く。
所へ刀を持て行き、褒美のお金をたんと貰ひ、楽隠居とはどでごんす
そこへ刀を持って行き、褒美のお金をたんと貰って、楽隠居——とは、どうでごんす。
然しさううまくゆけばよいが
しかし、そううまくゆけばよいが。
ハテ案じなんすなマア奥へ
はて、案じなんすな。まあ、奥へ。
来やれ
来やれ。
踊り狂ふて入るあとへ
踊り狂って入ったあとへ。
立出る徳島岩治
立ち出る徳島岩治。
ハヽヽヽヽヽあいらが寄て馬鹿つくす、其間に一寸ちよろまかし、貢が預けし此下坂、身共が帯した此刀の寸尺と、丁度合たは幸ひ幸ひ、独にこにこ鼻唄に
はははは。あいつらが寄って馬鹿をつくしている、その間にちょっとちょろまかした。貢が預けたこの下坂、身共が帯びていたこの刀の寸尺と、ちょうど合ったのは幸い、幸い。ひとり、にこにこと鼻唄まじりに。
あまり辛気くさゝに、棚の達磨さんを一寸おろし、うまいな、鉢巻よさせたり転がしても見たり
あまりの辛気くささに、棚の達磨さんをちょっと下ろし、「うまいな」と、鉢巻をさせたり転がしてもみたり。
ハヽヽヽヽ先は目釘も首尾よく抜たは、身が差料の此新刀と、此青江下坂と真をすつぱり、ちよいと程よく柄釘よ抜たり、取替ても見たり
ははは。まずは目釘も首尾よく抜けた。身共の差料のこの新刀と、この青江下坂と、中身をすっぱり——ちょいと程よく柄釘を抜いたり、取り替えてもみたり。
妙々しつくり鞘へおさまつた、にこはこ笑壷の徳島が、一間へこそは入りにける
妙々、しっくり鞘へ納まった。にこにこ、笑壷に入る徳島が、一間へと入っていくのであった。
この曲は常磐津。詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第四編 常磐津集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開し、合方の指示は省いた。
詞は瀬川如皐。資料の目次には題名に括弧書きで「お紺貢」と添えてある。作曲者・初演年は原典に記載がない。曲名の読み「かみじやまうきなのこいぐち」は原典のふりがなによる。神路山は伊勢神宮の内宮のうしろにそびえる山、「琫」は刀の鞘の口もとの飾り金具。曲名からして、伊勢と刀の一曲である。
題材は歌舞伎『伊勢音頭恋寝刃』でおなじみの、伊勢古市の油屋の一件。遊女お紺、御師の福岡貢、遣手の万野、料理人の喜介(芝居では喜助と書く)、名刀青江下坂とその折紙など、顔ぶれも道具立ても共通する。ただしこの詞章は岩治が刀の中身をすり替えるところまでで曲を納め、油屋の惨劇そのものは語らない。
青江下坂は名刀の呼び名。折紙は本阿弥家の出す鑑定書で、刀と折紙がそろってはじめて役に立つ。貢の夜ごとの廓通いは放埓ではなく、かたり取られた折紙の詮議のためである。折紙が手に入らねば左膳様は切腹、万次郎様の科も重なると、詞章のなかで語られる。
「備前杉本油屋」は伊勢古市の妓楼、備前屋・杉本屋・油屋を並べたもの。丁字屋も古市の茶屋の名。朝熊山は伊勢の名所。「くるはお客」は郭(くるわ)と「来るは」の掛詞。
万野の身の上語りは、吉原から深川仲町・石場、品川・神奈川・大磯と、江戸とその周辺の遊里を流れ渡った経歴を並べる。「今では年も古市に」は、年古ると古市の掛詞。
「入山形に二ツ星」は遊女評判記で最上級の遊女に付けた記号。「引四ッ過の火の用心さつしやりませう、二階を廻らしやりませう」は、吉原で夜回りが触れて歩いた文句。
座敷の俄は柴又の帝釈様(帝釈天)参りの道中話。「南無からたんのう」云々は門付けの坊主の唄のもじりで、「稲妻ごろごろ雷神ぴかぴか、蚊帳よ嬶釣れ臍立て線香隠せ」は、慌てて言葉があべこべになるのを笑う趣向。「万歳楽」は雷除けの唱え言葉。
「黄粉餅」「幾世餅」「あんころ餅」「お金持」は餅尽くしの地口。幾世餅は江戸両国の名物餅。「末社」は幇間(太鼓持ち)のことで、稲荷の末社の縁で「友狐」と受けている。
「さゝ蟹」は蜘蛛の古名。蜘蛛が軒に糸を下げるのを人の来る知らせとする俗信による。「伊勢の浜荻」は「難波の葦は伊勢の浜荻」のことわざによる言い回し。「憂を見に知る」の「見」は「身」の当て字で、原典のまま残した。
「油虫」は揚代を払わずただで居続ける客をいう廓の悪口。貢を「かす禰宜」と呼ぶのは、伊勢の御師(神職)の身分を踏まえた悪口である。
「サアヤアトヤ夜さの泊りはどこが泊りぞ、草を敷寐の肱枕」は伊勢音頭(道中唄)の文句。
「死ぬる覚悟の私が橾」の「橾」は原典の用字。「操」の意と見て読みを付け、字は改めていない(主誰糸春雨にも同じ用字がある)。「折紙をかたり取れ」は文意から「かたり取られ」と読み、字は原典のままにした。「洒落さいこと」は「しゃらくさいこと」と読んだ。「戻りは丁字屋で立ぢや」の「立」は宴席の意と見て「たて」と読んだが、確かめられていない。
治郎介と次郎介、喜介と喜助は、いずれも原典の表記のゆれ。改めずそのままにした。
語義の定めがたい語は、推測で埋めず原典のまま残した。「少びんながら」「ゑんり江戸町」「つばらんだア」「隣のかみさん是者ぢや」「稲妻さきてに」「思ふ事をひよこすかと」「イヨ大和屋ア」(万野をはやした掛け声と見えるが、大和屋が何を指すかは定めがたい)。
流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。