狂乱手くだのすががききやうらんてくだのすががき
荻江節 作詞者・作曲者・初演年不詳

狂乱物。真如の月は曇らないのに、わが思いは雲間を行く——と起こし、番いを離れぬ鳥をうらやみ、心のもつれ糸が風に乱れる。人に指をさされてもままよと狂い歩き、道行く奴を恋しい殿御かと見て、似ても似つかぬ奴めと言い、人を花と見まがう。誰に見せようとて咲く花のと口説き、胡蝶のようにあちらへこちらへ走りめぐって、散る花と雪を見分けかね、紋日の約束をした主さんの伊達姿を思い浮かべる。恋が先か思いが先か、昔を忍ぶ鐘の声。焦がれ焦がれて裾にもつれ袂にすがる、その狂乱の見るもいぶせき風情なり、と納める。曲名の「手くだ」は廓の手管、「すががき」は吉原の見世先に響く三味線の清掻のこと。『徳川文芸類聚』所収の荻江節正本による。
あらすじ
真如の月は曇らないけれど、わたしの思いは雲間を行く。あの鳥さえも番いは離れない、うらやましい。わたしの心はもつれ糸。乱れ乱れて風に遊ぶよ。花車、盃を投げて、曲水の宴も結んで、誰と着初めした下紐の。狂い乱れる身なり振りを、人が指さし、笑わば笑え、ままよ。ちっともそっとも大事ない、こちらは大事もないよの。申し申し、あの人さんを、立って見てみや、よく見てみや。さてもよう似た——いや、こちらの思う殿御の顔に、似ても似つかぬ奴の奴の奴の、奴め。(せりふ)はははは、なんの、こちゃこちゃ。人かと思えば、ありゃ花じゃ、花じゃ。しかも桜の、てもまあ、よう見事に咲いたは、咲いたは。誰に見せようとて咲く花の、ほんに野に咲くあだ花よ。一重二重は薄くていやよ。君を思えどその人は、絶えて訪ねもせず、待つ——松風の訪れもない。あだごとの、かわいかわいはみな偽りよ。酒の一夜にもまことがあるなら、浮名の立つのはかまうものかと、思いかこちて、くどくどと、あちらへしゃなりしゃなり、こちらへ走り走りめぐる。風に胡蝶のひらひら、ひらと。羽風に花も散り散り散り、散りかかる。雪か、花か、雪も花も、いやいや。焦がれる三保の松、身より待たれる紋日の約束は、待つ、ゆかしい主さんの、腰巻羽織、人目を包んで、八丁二本差し。さりとては、やるせないぞや、鳥の声。恋が先か、思いが先か。昔を忍ぶ鐘の声。ひい、ふう、みい、よ、いつしかに、思い合うたのが縁ででもあろう。解いて口説いて打ち解けて、添い寝の添い寝の夢もなく、二人の仲の思い川。われ恋しい面影に、焦がれ焦がれて物狂いよの、物狂いよの。裾にもつれて袂にすがり、止めて止まらぬその狂乱の、見るも痛ましい風情である。
詞章と現代語訳
〔吉次〕「真如の〔モツハル〕月はくもらねど。〔ギン〕われがおもひは雲間ゆく。〔ツゞミ相方〕あのとりさへもつがひはなれぬうらやまし。〔ギン〕われがこゝろのもつれ糸。〔ウタヒ〕みだれみだれて風に遊ぶや。〔ヒヤウシ〕花ぐるま盃投て曲水の宴もむすびてたれときそめし下紐の
真如の月は曇らないけれど、わたしの思いは雲間を行く。あの鳥さえも番いは離れない、うらやましい。わたしの心はもつれ糸。乱れ乱れて風に遊ぶよ。花車、盃を投げて、曲水の宴も結んで、誰と着初めした下紐の——
「狂ひみだるゝなりふりを。人がゆびさしわらをとまゝよちゝ。〔ツゞミ〕ちつともそつとも大事ない。こちや大事もないよの〔詞〕申し申しあの人さん立てみや。〔合〕ゐてみや〔合〕さつてもよふにたこちの思わくとのごの顔に〔ツゞミフシ〕にてにもつかぬやつこのやつこのやつこのやつこめ
狂い乱れる身なり振りを、人が指さす。笑わば笑え、ままよ、ちち。ちっともそっとも大事ない、こちらは大事もないよの。申し申し、あの人さんを、立って見てみや、よく見てみや。さてもよう似た——いや、こちらの思う殿御の顔に、似ても似つかぬ奴の奴の奴の、奴め。
「ハハヽヽ何のこちやこちや人かと思へばありや花じや花じやしかも桜のてもよふ見ごとに咲たは咲たは
はははは、なんの、こちゃこちゃ。人かと思えば、ありゃ花じゃ、花じゃ。しかも桜の、てもまあ、よう見事に咲いたは、咲いたは。
「誰にみしよとてさく花のほんに野にさくあだ花よ〔ハル〕ひとへふたえはうすくていやよ〔合〕君を思へど其人はたへてとはせもまつ風のおとづれもなき〔ヲトシ〕あだことの〔合〕かはいかはいはみないつわりよ〔合〕さゝの一夜もまことがあらば〔ヲン〕浮名たつのはわざくれと〔合〕おもひかこちてくどくどとあなたへしやなしやな〔合〕こなたへ〔合〕はしりはしりめぐる〔合〕かぜに胡蝶の〔合〕ひらひら〔合〕ひらと〔合〕はかぜにはなも〔合〕ちりちりちりちりかゝるゆきかの〔合〕はなかのゆきも花もいやいやこがるゝ三保のまつ身よりまたるゝもんびやくそくは〔合〕まつまゆかしきぬしさんの〔レイゼイガカリ〕こしまきばをり〔ナヲス〕人目をばつゝみ八町にほんざし
誰に見せようとて咲く花の、ほんに野に咲くあだ花よ。一重二重は薄くていやよ。君を思えどその人は、絶えて訪ねもせず、待つ——松風の訪れもない。あだごとの、かわいかわいはみな偽りよ。酒の一夜にもまことがあるなら、浮名の立つのはかまうものかと、思いかこちて、くどくどと、あちらへしゃなりしゃなり、こちらへ走り走りめぐる。風に胡蝶のひらひら、ひらと。羽風に花も散り散り散り、散りかかる。雪か、花か、雪も花も、いやいや。焦がれる三保の松、身より待たれる紋日の約束は、待つ、ゆかしい主さんの、腰巻羽織、人目を包んで、八丁二本差し。
「さりとては〔合〕やるせないぞや鳥のこゑ〔ツゞミウタ〕恋がはじめかおもひがまへかむかししのぶのかねのこゑ
さりとては、やるせないぞや、鳥の声。恋が先か、思いが先か。昔を忍ぶ鐘の声。
「ひいふう三いよいつしかに〔合〕おもひあふたが縁でがなあろ〔合〕といてくどいてうちとけてそひねのそひねのゆめもなくふたりが中のおもひ川
ひい、ふう、みい、よ、いつしかに、思い合うたのが縁ででもあろう。解いて口説いて打ち解けて、添い寝の添い寝の夢もなく、二人の仲の思い川。
「われこひしきおもかげをこがれこがれてものぐるひよのものぐるひよのすそにもつれてたもとにすがりとめてとまらぬそのきやうらんの〔合〕みるもいぶせきふぜいなり。
われ恋しい面影に、焦がれ焦がれて物狂いよの、物狂いよの。裾にもつれて袂にすがり、止めて止まらぬその狂乱の、見るも痛ましい風情である。
この曲は詞章の出典が他と異なる。『徳川文芸類聚』第十 俗曲下所収『荻江節正本』の本文(著作権消滅)により、章句・合方の記号は原典のまま段の頭や途中に残し、繰り返し記号は読みやすく展開した。繰り返し記号はいずれも直前の語句を繰り返すものとして展開したが、どこまでを一語と見るかはこちらの判断による。とくに「やつこの」に付く二連の繰り返し記号は「やつこのやつこのやつこの」、「ちり」に付く二連の繰り返し記号は「ちりちりちり」と展開した。
原典は総かな書きのため、読みやすさを考えて漢字を当てた。ふりがなが原典の仮名である。
目次・本文の題名は『狂乱手くだのすがゝき』。狂乱物。心を乱した人物を描く曲種の一つ。「手くだ」は人をあしらう手管、「すががき」(清掻)は吉原の見世先で夕暮れに弾いた三味線の手のこと。
段の頭や途中の〔吉次〕は演者の受け持ちを、〔与三八せりふ有〕はその場で与三八がせりふを入れたことを示すものと見て、原典のまま残した(当ライブラリの「与作」と同じ扱い。せりふそのものは正本に載っていない)。
「しんによの月」は真如の月。曇りのない悟りを月にたとえる仏語で、それに曇る心を対させる常套の起こし。
「きよくすいのゑん」は曲水の宴。流れに盃を浮かべて詩歌を詠む雅び。「したひも」(下紐)は、下紐が解けると人に思われているしるしという古歌の縁で恋のことばになる。
「もんびやくそく」は紋日の約束。紋日は廓の物日で、この日に馴染みの客が来る約束をすること。「こしまきばをり」は腰巻羽織。羽織を着ずに腰へ巻きつけた伊達な着こなしのこと。
「はちちやうにほんざし」は「八丁、二本差し」と切って、土手八丁を刀を差して忍び行く姿と読んだが、「八町に本差し」とも切れるので断じきれない。
「わらをとまゝよ」は笑わば笑え、ままよ、の意と見られる言い回しで、当ライブラリの「狂乱情姿絵」にも出る。「わざくれ」はままよ、どうともなれ、の意。
「ひいふう三いよいつしかに」は、ひい・ふう・みい・よ、と指折り数える言い方の続きに「いつ(五)しかに」を言い掛けたもの。
語義の定めがたい語は推測で埋めず原典のまま残した。「わらをとまゝよちゝ」の「ちゝ」、「ゐてみや」(居て見や、とも、行て見や、とも読める)、「はなかのゆきも」(「雪かの花かの雪も」と繰り返す言い回しの続きで、切り方が定めがたい)。
作詞者・作曲者・初演年は原典に記載がない。流儀・稽古本によって仮名遣いや字句にも異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。