藤舎の紋 藤舎名玄TOSHA MEIGEN ― 詞章ライブラリーへ戻る
長唄

桜狩さくらがり

作詞者・作曲者・初演年不詳

A4一枚に印刷できる詞章(PDF)開く・印刷・保存お稽古や舞台の予習に。A4横一枚にまとめてあります。
桜狩 吉野の山桜
吉野の山桜

如月の柳から説き起こし、隅田河原の曙、花蔭の蝶鳥、仲之町の夕桜と運んで、結びに長唄の道の栄を祝う。花見の曲でありながら、祝儀の心で舞い納める。

あらすじ

のどかな如月、柳の糸も浅緑に芽吹く。吉野の花をよく見た人よ、いざ問おうと、慣れ親しんだ東の都鳥。大宮人も憧れるという隅田河原の春景色、曙染めの空がほのぼのと明けて、霞か空か咲く花か、その雲の中を分けてゆく桜狩。蝶鳥の羽も舞う袖も薫る花の蔭、人の心も浮き立って、花を翳す袂をくぐる燕の可愛らしさ、見飽かぬ空を行く雁。その昔もあったという恋の手引草、誓いも深い奥山から根ごと移し植えた初桜。色香を送る春風のなかを馬道越しに通う駕籠、衣紋坂を下れば早くも大門、夕桜。気高い花の装いさながらに、松の位の太夫が外八文字を踏む。この里の春の宵、桂男の面影も霞む朧月。初恋の花は物を言わぬ習い、意中の人に差す武蔵野の大盃、その影にこぼれる愛嬌は花紅葉。濃いも薄いもこき交ぜて、はやす羽織の曲舞は君が笑顔の半開き、心の駒も勇むよう。面白や、花の友垣がひと群れに集う眺め尽きせぬ春遊び。なおいつまでも長唄の道の栄を祝うのであった。

詞章と現代語訳

長閑のどかなるころ如月きさらぎおしなべて、やなぎいと浅緑あさみどり吉野よしのよくひとはいざ、なれあづま都鳥みやこどり

のどかな頃、如月はどこもかしこも春めいて、柳の枝の糸も浅緑に芽吹いた。吉野の花をよく見た人よ、いざ問おう——と、見慣れた東の都鳥に問いかける。

大宮人おほみやびともあこがるる、隅田河原すみだがはら春景色はるげしき曙染あけぼのぞめやほのぼのと、かすみそらはなの、くもなかゆく桜狩さくらがり

大宮人までも憧れるという、隅田河原の春景色。曙染めの空がほのぼのと明けて、霞か空か、それとも咲く花か——その雲のような花の中を分けてゆく桜狩よ。

蝶鳥てふとり羽袖はそでかをはなかげひとこころちて、はなかざしのたもとより、くぐつばめ可愛かはいらし、見飽みあかぬそらかりの、がまつちやら向越むかうごし、にくこころぢやないかいな

蝶や鳥の羽も、舞う袖までも薫る花の蔭。人の心も浮き立って、花を翳す袂の下をくぐってゆく燕の可愛らしいこと。見飽きることのない空を行く雁は、誰を待つのやら向こう越しに行ってしまう——憎らしい心ではないか。

むかしありしもこひ手引草てびきぐさちかひふか奥山おくやまごしてうゑ初桜はつざくら色香いろかおく春風はるかぜに、馬道うまみちしてかよ駕籠かご三枚さんまい四枚よまい衣紋坂えもんざか大門おほもん夕桜ゆふざくら気高けだかはなよそほひに、まつくらゐ外八文字そとはちもんじさとはるよひ桂男かつらをとこおもかげも、かすめるそら朧月おぼろづき

その昔にもあったという恋の手引草。誓いも深い奥山から、根ごと移して植えたという初桜。その色香を送る春風のなかを、馬道を越して通う駕籠。三枚四枚と衣紋坂を下れば、早くも大門、そして夕桜。気高い花の装いさながらに、松の位の太夫が外八文字を踏んでゆく。まことにこの里の春の宵、桂男の面影までも霞んで見える朧月よ。

初恋はつこひはなものはぬならはしに、おもひざしなる武蔵野むさしのも、にふれしさかづきかげにこぼるる愛嬌あいけうは、いとしらしさの花紅葉はなもみぢいもうすいもこきぜて、寿海じゆかい猿若さるわかとりどりに、はやす羽織はおり曲舞くせまひは、きみ笑顔ゑがほ半開はんかいと、こころこまいさむらん

初恋の花は物を言わぬ習いだというのに、意中の人に差す武蔵野の大盃。誰の手が触れた盃であろうか、その影にこぼれる愛嬌は、いとおしいばかりの花紅葉。濃いも薄いもこき交ぜて、寿海に猿若とりどりに、はやし立てる羽織の曲舞は、君が笑顔の半開きの花のよう。心の駒も勇み立つことよ。

面白おもしろはな友垣ともがきひとむれに、ながめつきせぬ春遊はるあそび、なほいつまでも長唄ながうたの、みちさかえしゆくしけり

面白いことよ。花を愛でる友垣がひと群れに集って、眺めの尽きせぬ春の遊び。なおいついつまでも、長唄の道の栄えを祝うのであった。

詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第二編 長唄集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開し、合方〔合〕の指示は省いた。

「吉野よく見し人はいざ」から「都鳥」へ運ぶのは『伊勢物語』第九段の「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」を踏まえる。吉野の花に対して、東の隅田川の花を問う心。

原典は「太宮人」とするが、「大宮人」の誤刻と見て改めた。

「曙染」は明け方の空の色に染めたような染物をいう。ここは曙の空そのものを指す。

第四段は吉原仲之町の夕桜。「馬道」「衣紋坂」「大門」はいずれも日本堤から廓へ入る道筋。「松の位」は太夫の位、「外八文字」はその道中の足の運び。

「武蔵野」は大きな盃の異名。武蔵野は野が見尽くせぬことから「飲み尽くせぬ」に掛けたもの。「思ひざし」は意中の人に差す盃。

「桂男」は月の中に住むという伝説の男。転じて美男をいう。

「根ごして」は根ごと移しての意と解した。

「誰がまつちやら向越し」「三枚四枚」「寿海猿若」は語義が定かでないため原典のままとした。

結びは花見の曲でありながら長唄そのものの繁栄を祝う。祝儀の心で舞い納める。

作詞者・作曲者・初演年は原典に記載がない。流儀・稽古本によって仮名遣いや字句にも異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。