藤舎の紋 藤舎名玄TOSHA MEIGEN ― 詞章ライブラリーへ戻る
常磐津

巽八景たつみはっけい

常磐津  立川焉馬 述  作曲者・初演年不詳

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巽八景 深川の夕暮れ
深川の夕暮れ

巽すなわち深川を舞台に、瀟湘八景になぞらえた八つの景を恋のことばへ織りこむ。永代の帰帆、佃の晩鐘、仲町の夜雨、石場の暮雪、新地の晴嵐、有明の秋月、雁の文字の落雁、櫓下の夕照——深川の地名を次々に掛けていく。当ライブラリで最初の常磐津。

あらすじ

大江戸となる前の昔は武蔵野の、尾花が招き寄せたというこの土地。張りと意気地の深川、因縁も長い永代の——帰る帆も粋な送り船。その爪弾きの絃の音に、情緒に身さえ入る入相の鐘。後朝ならぬ山の鐘も、ごんと鳴る佃の辻占に、燃える焔の篝火よ。せめて恨みを手紙に託し、薄墨に書く雁の文字。女の一念も通し矢のように届いて、今は張りも弱く、いつか二人は仲町に、しっぽりと濡れる夜の雨。堅い石場の約束に、話は積もる雪のような肌。解けて嬉しい胸の雲を吹き払った晴嵐は、辛気な新地ではないかいな。洲崎の浦の浪は越すまいと誓ったことも有明の——月の桂のような男気は、定めかねる秋の空。だまされたいと思うほどの真実に、見下ろされた櫓下。疑念を晴らして夕化粧、目元に照る紅の花。幾世を契ろうか、ともに白髪になるまで。浮名の巽八景と、そのひと節を立川が、流れを筆に残したのであった。

詞章と現代語訳

大江戸おほえどとならぬ往昔むかしの武蔵野むさしのの、尾花をばなや招まねき寄よせたりし

まだ大江戸とならなかった昔の武蔵野——その尾花が人を招き寄せたのであろうか。

張はりと意気地いきぢの深川ふかがはや、因縁いんねんも長ながき永代えいたいの、帰帆きはんも粋いきな送おくり船ぶね

張りと意気地の深川よ。因縁も長い永代の——帰る帆も粋な送り船。

その爪弾つまびきの絃いとによる、情緒じやうしよに身みさへ入相いりあひの、後朝きぬぎぬならぬ山鐘やまがねも

その爪弾きの絃の音に、情緒に身さえ入る——その入相の、後朝ならぬ山寺の鐘も。

ごんと佃つくだの辻占つじうらに、燃もゆる焔ほのほの篝火かがりびや

ごんと鳴る——その佃の辻占に、燃える焔の篝火よ。

せめて怨うらみて玉章たまづさを、薄墨うすずみに書かく雁かりの文字もじ

せめて恨みを手紙に託して、薄墨で書く——空をゆく雁の列のような、その文字よ。

女子をなごの念ねんも通とほし矢やの、届とどいて今いまは張はり弱よわく

女の一念も通し矢のように——その思いが届いて、今は張りも弱くなり。

いつか二人ふたりが仲町なかちやうに、しつぽり濡ぬるる夜よの雨あめ

いつしか二人は仲町に——しっぽりと濡れる、夜の雨。

堅かたい石場いしばの約束やくそくに、話はなしは積つもる雪ゆきの肌はだ

石のように堅い石場の約束に、話は積もる——その雪のような肌。

解とけて嬉うれしき胸むねの雲くも、吹払ふきはらふたる晴嵐せいらんは

解けて嬉しい胸の雲。それを吹き払った晴嵐は。

辛気しんき新地しんちぢやないかいな

辛気くさい——その新地ではないかいな。

洲崎すさきの浦うらの浪なみ越こさじと、盟ちかひしことも有明ありあけの

洲崎の浦の浪は越すまい——よそへは心を移すまいと誓ったことも、いまは有明の。

月つきの桂かつらの男気をとこぎは、定さだめかねたる秋あきの空そら

月の桂のようなあの人の男気は、定めかねる——移りやすい秋の空。

誑たぶらされたさの真実しんじつに、見下みおろされたる櫓下やぐらした

いっそだまされたいと思うほどの真実に、見下ろされる——その櫓下。

疑念ぎねん晴はらし夕化粧ゆふげしやう、目元めもとに照てらす紅べにの花はな

疑念を晴らして夕化粧。目元に照り映える、紅の花よ。

幾世いくよ契ちぎらん諸白髪もろしらが

幾世を契ろうか——ともに白髪になるまで。

浮名うきな巽たつみの八景はつけいと、その一節ひとふしを立川たてかはの、流ながれを筆ふでに残のこしける

浮名の巽八景と——そのひと節を立川が、その流れを筆に残したのであった。

この曲は常磐津。詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第四編 常磐津集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開した。当ライブラリで最初の常磐津にあたる。

「巽」は辰巳。江戸城から見て東南にあたる深川をいう。深川の芸者を辰巳芸者と呼んだ。

瀟湘八景になぞらえて八つの景を詠みこむ。帰帆(永代の帰帆)、晩鐘(山鐘・佃)、夜雨(仲町のしっぽり濡るる夜の雨)、暮雪(積る雪の肌)、晴嵐(吹払ふたる晴嵐)、秋月(有明の月)、落雁(雁の文字)、夕照(夕化粧・目元に照らす)。

同時に深川の岡場所の地名を掛けていく。仲町・新地・石場・櫓下はいずれも深川の遊所の名。永代・佃・洲崎も深川近辺の地名。

「張と意気地」は辰巳芸者の気風をいう言葉。

「通し矢」は三十三間堂で堂の端から端へ矢を射通す競技。「届く」に掛ける。

「玉章」は手紙。「雁の文字」は空をゆく雁の列を文字に見立てたもので、落雁に掛ける。

「月の桂」は月に生えているという伝説の桂の木。転じて手の届かないものをいう。

「諸白髪」はふたりとも白髪になること。長く添い遂げる意。

立川焉馬(烏亭焉馬)は江戸後期の戯作者・狂歌師。結びに自らの名を詠みこんでいる。

作曲者・初演年は原典に記載がない。流儀・稽古本によって仮名遣いや字句にも異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。