双面ふたおもて
常磐津 木村ゑんふ 述 本名題『両顔月姿絵』 作曲者・初演年不詳

隅田川。松若丸と下女おしづのもとへ、殺された寿姫の魂魄と法界坊の亡魂が合わさり、おくみとまったく同じ姿で現れる。どちらが本物か踊りの振で試すが分からず、浅草観音の尊像の功力でついに正体をあらわす。鐘ヶ淵の名の由来で結ぶ。
あらすじ
名に負う月の武蔵に影は清く、霞を流す隅田川。岸を分ければ下総と昔は言い、今もなお、ゆかりある人が問えば、ありのままに在原の——まめな心を都鳥。群れつつ寄せる白波は瀬々に堰かれて、伊達な浮気を渡し守。川淀に映る姿もおのずと色ある露の水馴棹。差す手も遠い唐土の五湖の景色はいざ知らず、知る辺を松の名に愛でて、縁も深い若草の葉越しに隠れる二人連れ。来るのを遅しと待っている。待乳山に夕日が越えれば庵崎の、隅田川原にひとり寝ようと詠んだのも道理よ。見ぬ唐土の八景はいざ知らず、はて面白い景色じゃなあ——それはそうと、夫の軍助の知らせでここへおいでになる松若さまを先刻からお待ちしているが、どうしてこんなに遅いことじゃやら。恋には身をもやつせと言った、その言葉にまかせて、徒歩や跣で人目の関を、忍ぶ忍ぶと売り歩く。忍ぶ草を売る身はこうもあるかと、小褄をしゃんと川千鳥。千鳥鴎の名所である隅田川原に着いた。それと見るより船から出て——やあ、あなたは松若さまでございますか、大方お待ち申したことではございませぬ。やあ、おしづかいの、嬉しや。早速ながら聞いてたも。軍助の言葉にまかせて二人ともこのように忍ぶ売りと姿を変えてここまで来たけれど、道々も恐ろしいことがある。これ、あの寿姫は人手にかかって死にやったわいの。聞いておしづも驚き、それでは姫君さまはあえない御最期でございましたかいな。習わぬ旅路も、許嫁の松若さまに逢いたい添いたいと思い焦がれておいでだったもの。なんの未来も成仏なされましょう、ほんにはかない御縁でございましたなあ——と涙のなか、松若丸は懐から帛紗を取り出す。これを見てたも。またとは思わぬ仲の別れ路を、言葉残りてなお恨まん。幼いときの別れにさえ、許嫁のこの松若へ形見に送ったこの一首も、今は未来への置き土産となったかいの。この世の御縁は薄くとも、御本妻と定まるからには未来は添うてくださりませ。仮のこの世の殿御は私がお預かり申しておりますぞえ。形見こそ今は仇となるその帛紗、せめては妄執も晴れるようにと、煙にすれば未来への門火。南無阿弥陀仏と、岸辺で焼ける葦の火へ形見の帛紗を投げ入れれば——またも瞋恚が立ちのぼり、煙隠れに怪しい心火が現れ出たと見えたのか、ためらう暇もなく、おしづをはじめ松若もおくみも、ただ茫然と伏してしまった。白波の雲かあらぬか、煩悩の堕落に消えた法界坊が姫の魂魄を誘い来て、姿はひとつに二つの顔。恨みをここにありありと、同じ出で立ちの優姿。わしが在所は京の田舎の片辺、八瀬や大原や芹生の里——世を忍ぶゆえ姫御前の身で褄をからげ、忍ぶはいらんせんかいな。世を忍ぶ、その忍ぶの乱れ、限りない恨みの刃に情けなや。恨みも晴れぬままその人が連れ添うことの恨めしく、うつらうつらと迷い来て小舟の間近に立ち寄れば、松若はふと気づく。やあ、そなたはおくみではないかいの。あい、くみじゃわいの——と言うのに心も晴れず、こちらの二人を呼び生けて、そなたはおくみか、気がついたかいの。やあ松若さま、また恐ろしいことでございましたな。おしづも呼び生けて、気がついたかいの。おお、お二人でございますか。これおしづ、おくみがいつの間にやら二人になったわいの。何をおっしゃいますやら、どうしておくみさんが二人あってよいものでございましょう——と言いつつこちらを見て驚き、しばし言葉も出なかったが、ようよう胸を据えて、もし、お前の名は何と申しますえ。あい、私はくみというわいな。と聞いてこちらへ立ち戻り、して、お前の名は。あい、私はくみというわいな。ほんにまあ、こちらにもおくみさん、こちらにもおくみさん。こりゃまあどうじゃと驚けば、ええ何のこっちゃいな、私を退けてほかにおくみがあってよいものかいな——と二人が同じことを言う。いやもう、どちらがおくみさまじゃやら、とんと合点がゆかぬわいな。いつぞや柳橋の大黒屋で踊り初めのあった時の振事を、私はよう覚えておりますが、そちらのおくみさま、お前もよう振を覚えておいでなさんすかえ。それを忘れてよいものかいな。そんならここで見ようかいな——恥ずかしながらちょっと小褄をこう取って。尾花招けばうなずく小萩、何をくねるぞ女郎花。わしゃ可愛うてならぬのに。さても縁が朝顔ならば、廓の女郎衆は見やせまい。開くを莟が開いたと見やせまい。さいな、そうじゃといな。人を忍ぶの草隠れ——おしづもほっと持て余す。いやもう不思議と言おうか、とんと合点がゆかぬわいな。それそれ、そんならこのうえは、松若さまが幸吉と名を変えておくみさんの所へ行かしゃんした、その馴れそめの睦言。お前ならでは知った者はございませぬ。さあその話が聴きたいわいな。恥ずかしながら、よう覚えているわいな。過ぎにし梅の花見月、お目見え初めと手をついて、ふっと見合わす顔と顔。いとしらしゅうて優形で。ほんに思えば徒らな、人の前髪何のその。嗜んで見ても忘れられず、目先にふだん、業平さんも及びやせまい殿ぶりと惚れて心で褒めていて、ついしたわけになったのが、積もり積もっていつしかに、桃と桜の色競べ。雛遊びのささごとに二世の堅めと抱きしめて、つい手枕のそそけ髪。直してあぎょと簪に、お前の紋の差し込みは、癪というもの初めて知った。ほかの殿御の肌知らず、思い焦がるる私じゃもの、何の心が変わろうと——あちらへ引けばこちらへも、縺れ縺るる糸柳、風に揉まるる風情である。おしづはそれと見るより、仲を隔てて結び柴。こちらもつぼみの花、若木の薫りゆかしさに見とれておいでのその中へ、内の子飼いの長太めが阿呆の癖にいやらしく、稚遊びにかこつけて捕迷蔵。しじゅうおしづが止めても止め兼ねた妹背の仲、結び柏や振袖の垣根にまとう蔦かずら、離れがたない風情である。誰とて思いは同じ飛鳥川、瀬と変わりゆく昨日今日。修羅の苦験は晴れやらず、名乗らでも知れやわが思いと、じっと見る目も物凄い。松若さま、おくみどの。恨めしの心や。人の恨みが深くして、刃にかかったこの身の因果。生きてこの世にあるならば、いとしい殿御と添いもしよう。ああ、可愛い女と寝ようものを、なまなか出家を遂げた身は苦験に障られ、法心の中立ちを忘れたのも、みな誰ゆえぞ、おくみゆえ。私の迷いは松若さま、幼馴染の許嫁。末を頼みの甲斐もなく、思わぬ憂き目の三つ瀬川。胸にみなぎる思いの淵。浅いは縁、深いは恨み。恨みは人をも世をも、思い思わずただその人こそ——憎し、つらし、情けないぞとかこち泣き、かっぱと伏して泣いている。おしづはそれと気はつくが、なお様子を見届けようと二人の傍へ立ち寄って、なるほど聞けば聞くほど合点のゆかぬ二人のおくみさま。このうえの思案には、それぞれ去年の秋、神田祭に稽古した踊りの振を、私らも相手になって——さあその振が見たいわいな。それそれ、そっこでせい。花容の渡しに色の綾瀬川、姿箕の輪と浮名は請地。人が庵崎、心の関屋。天神さまのお世話なら片葉の蘆じゃないかいな。花川戸、恋を待乳は三囲や。逢いにや牛島、わしの森。縁の橋場も嬉しの森よ。白鬚さまのお世話なら吾妻橋じゃないかいな。離れぬ仲の縁じゃもの——揃う姿の品かたち。おしづも今はもどかしく、懐から尊像を取り出す。このうえは、夫の軍助どのともども日ごろ信心する浅草の観世音、この尊像の功力をもって化生の姿を現し給え。南無浅草観世音——と一心を凝らして差しつければ、今まで見まがうた顔かたちも震えおののき、忽然と。ああら恐ろしや苦しやなあ。娑婆の業因が深いゆえ、思わぬこの身に験を受け、ともに奈落の底へも引き立ててゆこうとしたけれど、観音薩埵の誓いに恐れ、われとわが身を責めに責め来る冥途の使い。かけもよしなや、恥ずかしの——漏れてよそには白露の、見えつ隠れつ、面影があるとは見えて春風に、姿は消えて失せてしまった。人々は奇異の思いをなし、げに観音の御功力と奇瑞を感ずる折もあれ、間近に聞こえる貝の音、太鼓。おしづはきっと心をつけ、あれあれ、あの太鼓はたしかに常陸の大掾百連よりの討手の者。目にかかってはお為にならぬと、早々とともにささやいて釣鐘の小蔭へ忍ばせる間もなく、百連の手の者どもが我先にと馳せ来る。たしかに見つけた松若丸、また一人は寿姫。注進があって聞いたゆえ搦め捕ろうと来たが、影も形も見えぬのは逃げ隠れたに極まった。ありのままに白状なせ——と犇めけば、おしづは脇へかわして知らぬ体。おお、気疎いこと。私は今ここへ参りましたもの、そのようなお方は存じませぬわいな。それでも今の知らせはこの釣鐘、ちょっと様子をあらためん——と立ちかかるのを、おしづははっと押し隔てる。これはまた疑い深い、何じゃぞいな。いや、見せともながるがなお怪しい。それでもここにはいないわいな。それが定めなら誓言を立てて見せろ。神や仏を誓いにかけ、偽りならぬ誓言を——さあそれは。敬って払い清め奉る。上は梵天、誓文どうしてここにござんしょ明王。なんぼうすんかりきしゃ明王、愛嬌に大威徳、ぽっとりこんりんやな女房。大日大事の神かけて、なまくさばんだばざらにも——と、言葉はすわに誓った。むむ、はは、間に合わせの空誓文。どうでも様子が有明の、釣鐘こそ、すわすわ動くぞ、祈れただ——それ者どもと下知のもと、いで承ると大勢が走りかかって釣鐘を、ほどなく梢に引き上げれば、二人ではなく化けた姿。そもまず汝は何奴だ。およそ輪廻は小車の、六趣四生を出でやらず。人間不定は芭蕉葉の、萎れはかない身の果てを、問う人さえも情けなや。修羅の巷に迷うらん——おしづは以前の尊像を、成仏あれやと差しつける。謹請東方青龍清浄、謹請西方白体白龍、一大三千大千世界の恒沙の竜王、哀愍納受哀愍自謹のみきんなれば、いずこに大蛇のあるべきぞ——と祈り祈られ、また立ち向かうその勢い。なおも恨みは尽きぬと、小蔭に忍ぶ両人へ飛びかかろうとするところへ、松浦五郎則光がそれと見るより馳せ来る。はて怪しや。今、松浦五郎が来て見れば、天地に渦巻く黒雲雷電。心得ずとよく見れば稀有なる女の立ち姿。たとえいかなる悪霊なりとも、この則光が降魔の利剣、立ち去れ——とさしも鋭い勇士の太刀風。おしづは始終一心不乱。観音薩埵の妙智力に怨霊はたちまち遠ざかり、波間へ飛んで入ってしまった。かの怨霊の旧跡も、日高にあらぬ隅田川——鐘ヶ淵と、今の世に伝えてその名を残したのである。
詞章と現代語訳
名にしおふ、月の武蔵に影清く、霞を流す隅田川、岸を分れば下総と、昔はいふて今も尚、よしある人の言問はば、ありのまにまに在原の、まめな心を都鳥、むれつつ寄する白浪は、瀬々に堰れてはつとして、伊達な浮気を渡し守
名に負う月の武蔵に影は清く、霞を流す隅田川。岸を分ければ下総と昔は言い、今もなお、ゆかりある人が問えば、ありのままに——在原の、まめな心を都鳥。群れつつ寄せる白波は瀬々に堰かれてはっとして、伊達な浮気を渡し守。
川淀にうつす姿も自ら、色ある露の水馴棹、さす手も遠き唐土の、五湖の景色はいざ知らず、知辺を松の名に愛でて、縁も深き嫩草、葉越隠れの二人連、来るを遅しと待居たる
川淀に映る姿もおのずと、色ある露の水馴棹。差す手も遠い唐土の五湖の景色はいざ知らず、知る辺を待つ——その松の名に愛でて、縁も深い若草の葉越しに隠れる二人連れが、来るのを遅しと待っている。
待乳山夕越ゆくれば庵崎の、隅田川原に独かも寐んと、すさみしも理や、見ぬ唐土の八景はいざ知らず、はて面白き景色ぢやナア、それはさうと夫軍助の知せ故、此所へお出なさるる松若様を、先刻にからお待申して居るが、どうして此様に遅い事ぢややら、ほんに待るるとも待身に成なとは、よういふた物ぢやナア
「待乳山に夕日が越えれば庵崎の、隅田川原にひとり寝ようと詠んだのも道理よ。見ぬ唐土の八景はいざ知らず、はて面白い景色じゃなあ。それはそうと、夫の軍助の知らせでここへおいでになる松若さまを先刻からお待ち申しているが、どうしてこんなに遅いことじゃやら。ほんに、待たれるとも待つ身になるなとは、よう言うたものじゃなあ」
暫し案じて佇めり
しばし案じてたたずんでいる。
恋には身をもやつせといふた、いふたいふたよう言た、其言葉を偲ぶにまかせ、徒歩や跣足で人目の関を、荵しのぶと売歩く、荵売る身は斯うも有かと、小褄をしやんと川千鳥、千鳥鴎の名所なる、隅田川原に著にけり、夫と見るより船より出で
恋には身をもやつせと言った、よう言うた——その言葉を偲ぶにまかせ、徒歩や跣で人目の関を、忍ぶ忍ぶと売り歩く。忍ぶ草を売る身はこうもあるかと、小褄をしゃんと川千鳥。千鳥鴎の名所である隅田川原に着いた。それと見るより船から出て。
ヤアあなたは松若様で御座りますか、大体や大方お待申した事ぢや御座りませぬ
「やあ、あなたは松若さまでございますか。大方お待ち申したことではございませぬ」
ヤアおしづかいの嬉しやうれしや早速乍ら聞いてたも、軍助が言葉にまかせ、二人共此様に、荵売りと姿をかへ、此処迄は来ども、道々も恐ろしい事のある条、コレあの寿姫は人手にかかつて死やつたわいの
「やあ、おしづかいの。嬉しや、嬉しや。早速ながら聞いてたも。軍助の言葉にまかせ、二人ともこのように忍ぶ売りと姿を変えてここまで来たけれど、道々も恐ろしいことがある。これ、あの寿姫は人手にかかって死にやったわいの」
聞いておしづも吃驚し、そんなら姫君様にはあへない御最期で御座りましたかいな、ほんに習はぬ旅路も、お許嫁の松若様に、逢たい添たいと思ひ焦れておいで遊ばしたもの、なんの未来も成仏なされませう、ほんに果敢ない御縁で御座りましたナア
聞いておしづも驚き、「それでは姫君さまはあえない御最期でございましたかいな。ほんに、習わぬ旅路も、許嫁の松若さまに逢いたい添いたいと思い焦がれておいででしたもの。なんの、未来も成仏なされましょう。ほんにはかない御縁でございましたなあ」
と涙の中に、松若丸、懐中より帛紗を取出し
と涙のなか、松若丸は懐から帛紗を取り出し。
是を見てたも、又とだに思はぬ中の別れ路を、言葉残りてなほや恨みん、稚い時の別れさへ、許嫁の此松若へ、形見に送りし此一首も、今は未来の置土産となつたかいの
「これを見てたも。またとは思わぬ仲の別れ路を、言葉残りてなお恨まん——幼いときの別れにさえ、許嫁のこの松若へ形見に送ったこの一首も、今は未来への置き土産となったかいの」
此世の御縁は薄くとも、御本妻と定まるからは、未来は添て下さりませ、仮の此世の殿御をば、私がお預り申して御座んすぞへ
「この世の御縁は薄くとも、御本妻と定まるからには、未来は添うてくださりませ。仮のこの世の殿御は、私がお預かり申しておりますぞえ」
肩身こそ今は仇なる其帛紗せめては妄執も晴るやう、煙となさば未来の門火
形見こそ今は仇となるその帛紗。せめては妄執も晴れるようにと、煙にすれば未来への門火。
それそれどうぞ未来は成仏なされて下さりませ
「それそれ、どうぞ未来は成仏なされてくださりませ」
南無阿弥陀仏なむあみだぶつと傍なる、岸根に焼くる葦の火へ、形見の帛紗打入れば
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、傍らの岸辺で焼ける葦の火へ、形見の帛紗を投げ入れれば。
又も瞋恚の立登る、煙隠れに怪しの心火、現はれ出ると見えたるか、ためらふ暇もなかなかに、おしづを始め松若おくみ、たた茫然と伏にける
またも瞋恚が立ちのぼり、煙隠れに怪しい心火が現れ出たと見えたのか。ためらう暇もなく、おしづをはじめ松若もおくみも、ただ茫然と伏してしまった。
白波の雲かあらぬか煩悩の、堕落にうせし法界坊、姫が魂魄さそひきて、姿は一つ二面、恨をここにありありと同じ出立のやさすがた
白波の雲かあらぬか。煩悩の堕落に消えた法界坊が姫の魂魄を誘い来て、姿はひとつに二つの顔。恨みをここにありありと——同じ出で立ちの優姿よ。
わしが在所は京の田舎の片辺、八瀬や大原や芹生の里、世を忍ぶ故姫御前の身で褄からげ、荵いらんせんかいな、買はんせんかにや、世を忍ぶしのぶの乱れかぎりなき恨みの刃に情なや、恨みもやらで其人の、つれそふことの恨めしく、うつらうつらと迷ひきて、小舟間近く立寄れば、松若ふつと心付き
「わしが在所は京の田舎の片辺、八瀬や大原や芹生の里。世を忍ぶゆえ姫御前の身で褄をからげ、忍ぶはいらんせんかいな、買わんせんかいな」——世を忍ぶ、その忍ぶの乱れ。限りない恨みの刃に情けなや。恨みも晴れぬままその人が連れ添うことの恨めしく、うつらうつらと迷い来て、小舟の間近に立ち寄れば、松若はふと気づく。
ヤアそなたはおくみぢやないかいの
「やあ、そなたはおくみではないかいの」
アイくみぢやわいの
「あい、くみじゃわいの」
といふに心も晴やらず、此方の二人を呼生けて
と言うのに心も晴れず、こちらの二人を呼び生けて。
ヤそなたはおくみか、心がついたかいの
「や、そなたはおくみか。気がついたかいの」
ヤア松若様、又恐ろしい事で御座んしたな
「やあ松若さま、また恐ろしいことでございましたな」
と言葉になほも恐気だち、おしづおしづと呼生けて
とその言葉になおも怖気だち、おしづおしづと呼び生けて。
コレおしづ気がついたかいの
「これおしづ、気がついたかいの」
ヲヲお二人で御座りまするか
「おお、お二人でございますか」
コレおしづおくみが何時の間にやら二人になつたわいの
「これおしづ、おくみがいつの間にやら二人になったわいの」
何を仰有りまするやら、どうしておくみさんが二人あつてよいもので御座りまする、と言つつ此方を見て吃驚、暫し言葉も出ざりしが、やうやうに胸をすゑ
「何をおっしゃいますやら。どうしておくみさんが二人あってよいものでございましょう」——と言いつつこちらを見て驚き、しばし言葉も出なかったが、ようよう胸を据えて。
もしお前の名は何と申しますへ
「もし、お前の名は何と申しますえ」
アイ私やくみといふわいな
「あい、私はくみというわいな」
と聞いて此方へ立戻り、シテお前の名は
と聞いてこちらへ立ち戻り、「して、お前の名は」
アイ私はくみといふわいな
「あい、私はくみというわいな」
ほんにマア此方にもおくみさん此方にもおくみさん
「ほんにまあ、こちらにもおくみさん、こちらにもおくみさん」
こりやまあどうぢやと驚けば
こりゃまあどうじゃと驚けば。
エエ何のこつちやいな、私を退て外におくみがあつてよいものかいな
「ええ、何のこっちゃいな。私を退けてほかにおくみがあってよいものかいな」
エエ何のこつちやいな、私を退て外におくみがあつてよいものかいな
「ええ、何のこっちゃいな。私を退けてほかにおくみがあってよいものかいな」——と、もう一人もまったく同じことを言う。
イヤもう何方がおくみさまぢややら、とんと合点がゆかぬわいな、イヤ申しおくみさま、あなたは何時ぞや柳橋の大黒屋で踊初めのあつた時の振事、私やよう覚えて居りまするが、そちらなおくみさま、お前もよう振を覚えておいでなさんすかへ
「いやもう、どちらがおくみさまじゃやら、とんと合点がゆかぬわいな。いや申し、おくみさま。あなたはいつぞや柳橋の大黒屋で踊り初めのあった時の振事を、私はよう覚えておりますが、そちらのおくみさま、お前もよう振を覚えておいでなさんすかえ」
それを忘れてよい物かいな
「それを忘れてよいものかいな」
そんならここで見ようかいな
「そんなら、ここで見ようかいな」
サア其振事は
「さあ、その振事は」
其振事は
「その振事は」
恥かしながら一寸小褄をかう取りて
「恥ずかしながら、ちょっと小褄をこう取って」
尾花招けばうなづく小萩、何をくねるぞ女郎花、わしや可愛うてならぬのに、扨も縁が朝顔ならば、郭の女郎衆は見やせまい、開くを莟が開いたと見やせまい、サイナさいなさうぢやといな、人をしのぶの草隠れ、おしづもほつと持あぐみ
尾花招けばうなずく小萩。何をくねるぞ女郎花。わしゃ可愛うてならぬのに。さても縁が朝顔ならば、廓の女郎衆は見やせまい。開くを莟が開いたと見やせまい。さいな、さいな、そうじゃといな。人を忍ぶの草隠れ——おしづもほっと持て余す。
いやもう不思議といはうかとんと合点がゆかぬわいな、ヲヲそれそれそんなら此上は松若様が、幸吉と名を変て、おくみさんの所へ行かしやんした、其馴初めの睦言は、お前ならでは知つたものは御座んせぬ、サア其話が聴きたいわいな
「いやもう、不思議と言おうか、とんと合点がゆかぬわいな。おお、それそれ。そんならこのうえは、松若さまが幸吉と名を変えておくみさんの所へ行かしゃんした、その馴れそめの睦言。お前ならでは知った者はございませぬ。さあ、その話が聴きたいわいな」
サア其睦言の話はな、恥かしながらよう覚えて居るわいな
「さあ、その睦言の話はな。恥ずかしながら、よう覚えているわいな」
ハテマアこちらなおくみさまから聞かうわいな
「はてまあ、こちらのおくみさまから聞こうわいな」
それそれ夫を聞かうわいな
「それそれ、それを聞こうわいな」
サアそれは
「さあ、それは」
過にし梅の花見月、目見へ初めと手をついて、ふつと見合す顔と顔、いとしらしうて優形で
過ぎにし梅の花見月。お目見え初めと手をついて、ふっと見合わす顔と顔。いとしらしゅうて優形で。
ほんに思へば徒らな、人の前髪何のその、嗜んで見ても忘られず、目先にふだん業平さんも、及びやせまい殿振りと、惚れて心で褒めて居て、ついしたわけに成たのが、積りつもつて何時しかに、桃と桜の色競べ
ほんに思えば徒らな。人の前髪何のその。嗜んで見ても忘れられず、目先にふだん——業平さんも及びやせまい殿ぶりと惚れて、心で褒めていて、ついしたわけになったのが、積もり積もっていつしかに、桃と桜の色競べ。
雛遊びのささごとに、二世の堅めと抱しめて、つい手枕のそそけ髪、直してあぎよと髪挿に、お前の紋のさしこみは、癪といふもの初めて知つた、外の殿御の肌知らず、思ひ焦るる私ぢやもの、何の心が変らうと、彼方へ引ば此方へも、縺れもつるる糸柳、風にもまるる風情なり
雛遊びのささごとに、二世の堅めと抱きしめて、つい手枕のそそけ髪。直してあげようと簪に、お前の紋の差し込みは——癪というもの初めて知った。ほかの殿御の肌知らず、思い焦がるる私じゃもの、何の心が変わろうと。あちらへ引けばこちらへも、縺れ縺るる糸柳、風に揉まるる風情である。
おしづは夫と見るよりも、中を隔てて結柴の、こちらもこちらも莟の花
おしづはそれと見るより、仲を隔てて結び柴の——こちらもこちらも、つぼみの花。
若木の薫床しさに、見とれ居さんす其中へ
若木の薫りゆかしさに見とれておいでの、その中へ。
内の子飼の長太奴が、阿呆の癖にいやらしい、稚遊びにかこつけて、捕迷蔵はんま千鳥、ちりてはしたふ磯隠れ、しじゆうをおしづが止めても、止兼ねたる妹脊中、結び柏や振袖の、垣根に纏ふ蔦かづら、離れがたなき風情なり
内の子飼いの長太めが、阿呆の癖にいやらしく、稚遊びにかこつけて捕迷蔵。しじゅうをおしづが止めても止め兼ねた妹背の仲。結び柏や振袖の垣根にまとう蔦かずら、離れがたない風情である。
誰とて思ひは同じ飛鳥川、瀬とかはりゆく昨日今日、修羅の苦験のはれやらず、名乗らでしれや我思ひ、じつと見る目も物凄く
誰とて思いは同じ飛鳥川、瀬と変わりゆく昨日今日。修羅の苦験は晴れやらず、名乗らでも知れやわが思いと、じっと見る目も物凄い。
松若様おくみどの
「松若さま、おくみどの」
恨めしの心や、人の恨みの深くして、刃にかかりし身の因果、生て此世にあるならば、いとし殿御と添もせう
「恨めしの心や。人の恨みが深くして、刃にかかったこの身の因果。生きてこの世にあるならば、いとしい殿御と添いもしよう」
アア可愛女と寐んものを、なまなか出家を遂げし身は、苦験に障られ法心の、中立を忘れしも皆誰故ぞおくみゆゑ
「ああ、可愛い女と寝ようものを。なまなか出家を遂げた身は苦験に障られ、法心の中立ちを忘れたのも、みな誰ゆえぞ——おくみゆえ」
私が迷ひは松若様、稚馴染の許嫁、末を頼みの甲斐もなく、思はぬ憂目三つ瀬川
「私の迷いは松若さま、幼馴染の許嫁。末を頼みの甲斐もなく、思わぬ憂き目の三つ瀬川」
胸に漲る思ひの淵
胸にみなぎる思いの淵。
あさいは縁
「浅いは縁」
深いは恨み
「深いは恨み」
恨みは人をも世をも、思ひ思はずただ其人こそ
恨みは人をも世をも、思い思わずただその人こそ。
憎し
「憎し」
つらし
「つらし」
なさけないぞとかこち泣き
情けないぞと、かこち泣き。
かつぱと伏して泣き居たる、おしづは夫と気はつけど、なほも様子を見届けんと、二人が傍へ立よつて
かっぱと伏して泣いている。おしづはそれと気はつくが、なお様子を見届けようと二人の傍へ立ち寄って。
成程聞けば聞く程合点の行かぬ二人のおくみ様、此うへの思案にはそれそれ去年の秋、神田祭に稽古した踊りの振、私等も相手になつて
「なるほど、聞けば聞くほど合点のゆかぬ二人のおくみさま。このうえの思案には、それぞれ去年の秋、神田祭に稽古した踊りの振を、私らも相手になって」
サア其振が見たいわいな
「さあ、その振が見たいわいな」
サア其踊りの振はな
「さあ、その踊りの振はな」
それ
「それ」
それ
「それ」
それそれそれそつこでせい、花容の渡しに色の綾瀬川、姿箕の輪と浮名は請地、人が庵崎心の関屋、天神さまの御世話なら、片葉の蘆ぢやないかいな、それそれ誓文さうかいな、花川戸恋を待乳は三圍や、逢ひにや牛島わしの森、縁の橋場も嬉の森よ、白鬚さまのお世話なら吾妻橋ぢやないかいな、それそれ誓文さうかいな、離れぬ中の縁ぢやもの、揃ふ姿の品かたち、おしづも今はもどかしく懐中の尊像取出し
それそれ、そっこでせい。花容の渡しに色の綾瀬川。姿箕の輪と浮名は請地。人が庵崎、心の関屋。天神さまのお世話なら片葉の蘆じゃないかいな。それそれ、誓文そうかいな。花川戸、恋を待乳は三囲や。逢いにや牛島、わしの森。縁の橋場も嬉しの森よ。白鬚さまのお世話なら吾妻橋じゃないかいな。それそれ、誓文そうかいな。離れぬ仲の縁じゃもの——揃う姿の品かたち。おしづも今はもどかしく、懐から尊像を取り出す。
此上は夫軍助殿諸共日比信心なす、浅草の観世音此尊像の功力をもつて、化生の姿を現はし給へ、南無浅草観世音
「このうえは、夫の軍助どのともども日ごろ信心する浅草の観世音。この尊像の功力をもって、化生の姿を現し給え。南無浅草観世音」
と一心凝してさしつくれば、今まで見まがふ顔ばせも、慄ひ戦きて忽然と
と一心を凝らして差しつければ、今まで見まがうた顔かたちも震えおののき、忽然と。
ああら恐ろしや苦しやなア、娑婆の業印深き故
「ああら恐ろしや、苦しやなあ。娑婆の業因が深いゆえ」
思はぬ此身に験を請け、倶に奈落の底も、引立てゆかんとせしかども、観音薩陀の誓ひに恐れ、我と我身をせめに責めくる冥土の使、かけもよしなや恥かしのもりてよそにや白露の、見えつ隠れつ面影のありとは見えて春風に、姿は消えてうせにけり
思わぬこの身に験を受け、ともに奈落の底へも引き立ててゆこうとしたけれど、観音薩埵の誓いに恐れ、われとわが身を責めに責め来る冥途の使い。かけもよしなや、恥ずかしの——漏れてよそには白露の、見えつ隠れつ、面影があるとは見えて春風に、姿は消えて失せてしまった。
人々奇異の思ひをなし、げに観音の御功力と、奇瑞を感ずる折こそあれ、間近く聞ゆる貝が音太鼓、おしづはきつと心をつけ
人々は奇異の思いをなし、げに観音の御功力と奇瑞を感ずる折もあれ、間近に聞こえる貝の音、太鼓。おしづはきっと心をつけ。
あれあれあの太鼓はたしかに常陸の大椽百連より討手の者、目にかかつてはお為にならず早はやと倶にささやき撞鐘の、小蔭へ忍ばす間もなく、百連が手の者共我先にと馳来り
「あれあれ、あの太鼓はたしかに常陸の大掾百連よりの討手の者。目にかかってはお為にならぬ」と早々にともにささやいて、釣鐘の小蔭へ忍ばせる間もなく、百連の手の者どもが我先にと馳せ来る。
確かに見付し松若丸、又一人は寿姫、注進あつて聞しより、搦めとらんと来りしが影も形も見えざるは、逃隠れたに極まつたり、有様に白状なせ何となにと
「たしかに見つけた松若丸、また一人は寿姫。注進があって聞いたゆえ搦め捕ろうと来たが、影も形も見えぬのは逃げ隠れたに極まった。ありのままに白状なせ、何と、何と」
と犇けば、側へかはして左あらぬ体
と犇めけば、おしづは脇へかわして知らぬ体。
ヲヲ気踈と、私は今此処へ参りましたもの、そのやうなお方は存じませぬわいな
「おお、気疎いこと。私は今ここへ参りましたもの、そのようなお方は存じませぬわいな」
それでも今のしらせは此釣鐘、ちよつと様子をあらためん
「それでも今の知らせはこの釣鐘。ちょっと様子をあらためん」
と立かかるを、おしづははつと押隔て
と立ちかかるのを、おしづははっと押し隔てる。
是は又疑ひ深い何ぢやぞいな
「これはまた疑い深い、何じゃぞいな」
イヤ見せともながるが尚怪しい
「いや、見せともながるのがなお怪しい」
それでもここにぢやないわいな
「それでも、ここにはいないわいな」
夫が定なら誓言を立てて見せろ
「それが定めなら、誓言を立てて見せろ」
何とへ
「何とえ」
神や仏を誓ひにかけ
「神や仏を誓いにかけ」
偽りならぬ
「偽りならぬ」
誓言を
「誓言を」
見ようは
「見ようは」
サアそれは
「さあ、それは」
敬つて払ひ清め奉る、かみは梵天誓文どうしてこここに御座んしよ明王
「敬って払い清め奉る。上は梵天——誓文、どうしてここにござんしょ明王」
なんぼうすんかりきしや明王、愛嬌に大威徳ぽつとりこんりんやな女房、大日大事の神かけて、なまくさばんだばざらにも、言葉はすはに誓ひける
なんぼうすんかりきしゃ明王、愛嬌に大威徳、ぽっとりこんりんやな女房。大日大事の神かけて、なまくさばんだばざらにも——と、言葉はすわに誓ったのであった。
ムム間合の空誓文
「むむ、間に合わせの空誓文」
どうでも様子が
「どうでも様子が」
有明の
「有明の」
撞鐘こそ
「釣鐘こそ」
すはすは動くぞ祈れただ、それ者共と下知の下、イデ承はると大勢が、走りかかつて撞鐘を、程なく梢に引上ぐれば、二人にあらで化したる姿
「すわすわ、動くぞ。祈れ、ただ」——それ者どもと下知のもと、いで承ると大勢が走りかかって釣鐘を、ほどなく梢に引き上げれば、二人ではなく、化けた姿。
そもまづ汝は
「そもまず汝は」
何奴だやい
「何奴だやい」
凡そ輪廻は小車の、六しゆ四しやうを出やらず
およそ輪廻は小車の、六趣四生を出でやらず。
人間不定芭蕉葉の、萎れはかなき身の果を、とふ人さへも情なや、修羅の巷に迷ふらん、おしづは以前の尊像を、成仏あれやとさしつくれば
人間不定は芭蕉葉の、萎れはかない身の果てを、問う人さえも情けなや。修羅の巷に迷うらん——おしづは以前の尊像を、成仏あれやと差しつければ。
謹請東方せうりう清浄、謹請西方白体白龍、一大三千大千世界の恒沙の竜王、哀愍納受あいみん自謹のみきんなれば、何処に大蛇のあるべきぞと、祈り祈られ又立むかふ其の勢、なほも恨みは尽せじと、小蔭に忍ぶ両人へ、飛かからんとする所へ、松浦五郎則光は、それと見るより馳来り
謹請東方青龍清浄、謹請西方白体白龍、一大三千大千世界の恒沙の竜王、哀愍納受、哀愍自謹のみきんなれば、いずこに大蛇のあるべきぞ——と祈り祈られ、また立ち向かうその勢い。なおも恨みは尽きぬと、小蔭に忍ぶ両人へ飛びかかろうとするところへ、松浦五郎則光がそれと見るより馳せ来る。
ハテ怪しや今松浦五郎が来て見れば、天地に渦巻く黒雲雷電、心得ずとよく見れば、稀有なる女の立姿、たとへいかなる悪霊なりとも此則光が降魔の利剣、立去れエエ
「はて怪しや。今、松浦五郎が来て見れば、天地に渦巻く黒雲雷電。心得ずとよく見れば、稀有なる女の立ち姿。たとえいかなる悪霊なりとも、この則光が降魔の利剣。立ち去れ、ええ」
とさしも鋭い勇士の太刀風、おしづは始終一心不乱
とさしも鋭い勇士の太刀風。おしづは始終、一心不乱。
観音薩陀の妙智力に、怨霊忽ち遠ざかり、波間へとんで入にける、かの怨霊の旧跡も日高にあらぬ隅田川、鐘が淵とぞ今の世に、伝へて其名を残しける
観音薩埵の妙智力に、怨霊はたちまち遠ざかり、波間へ飛んで入ってしまった。かの怨霊の旧跡も、日高にあらぬ隅田川——鐘ヶ淵と、今の世に伝えてその名を残したのである。
この曲は常磐津。詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第四編 常磐津集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開した。
本名題は『両顔月姿絵』。詞は木村ゑんふ。作曲者・初演年は原典に記載がない。
『隅田川続俤』の系統。殺された寿姫の魂魄と、堕落して死んだ法界坊の亡魂とが合わさり、ひとつの体に二つの心を宿しておくみとまったく同じ姿で現れる。これが「双面」の名の由来。
見分けのために踊りの振を試させる件が二度ある。一度目は柳橋の大黒屋の踊り初め、二度目は神田祭の稽古の振。どちらも寸分たがわず踊るので、いよいよ見分けがつかなくなる。
二度目の振は隅田川筋の地名尽くし。綾瀬川・箕輪・請地・庵崎・関屋・片葉の蘆・花川戸・待乳・三囲・牛島・橋場・嬉しの森・白鬚・吾妻橋と続く。当ライブラリの『戻駕』にも同じ「そつこでせい」の囃子が出る。
結びは鐘ヶ淵の地名由来。討手が釣鐘を引き上げたところ怨霊があらわれ、退散して淵へ入ったので、その名が残ったとする。
「荵売り」は忍ぶ草を売り歩く商い。「世を忍ぶ」に掛けて、身をやつした二人の姿とする。
「六しゆ四しやう」は六趣四生。輪廻する六つの世界と四つの生まれ方。
「哀愍納受」以下は龍神を招く祈りの文句。歌舞伎の祈りの場で使われる型にならう。
原典の翻刻に一字の誤りがある。「奇瑞を感ずる折こそ□れ」の□に欧文字が入っており、明らかな誤植なので「折こそあれ」と改めた。
次の語は語義が定めがたく、推測で埋めず原典のまま残した。「そつこでせい」「はんま千鳥」「なんぼうすんかりきしや明王」以下の誓文の文句、「かけもよしなや」。誓文の一段はもともと文句を崩した地口なので、意味の通らないところがある。
「庵崎」の読みは当ライブラリの『三保の松』と同じく「いほりざき」と推した。「常陸の大椽百連」の読みも確かめきれていない。
流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。