藤舎の紋 藤舎名玄TOSHA MEIGEN ― 詞章ライブラリーへ戻る
常磐津

双面ふたおもて

常磐津  木村ゑんふ 述  本名題『両顔月姿絵』  作曲者・初演年不詳

A4一枚に印刷できる詞章(PDF)開く・印刷・保存お稽古や舞台の予習に。A4横一枚にまとめてあります。
双面 隅田川のふたりのおくみ
隅田川のふたりのおくみ

隅田川。松若丸と下女おしづのもとへ、殺された寿姫の魂魄と法界坊の亡魂が合わさり、おくみとまったく同じ姿で現れる。どちらが本物か踊りの振で試すが分からず、浅草観音の尊像の功力でついに正体をあらわす。鐘ヶ淵の名の由来で結ぶ。

あらすじ

名に負う月の武蔵に影は清く、霞を流す隅田川。岸を分ければ下総と昔は言い、今もなお、ゆかりある人が問えば、ありのままに在原の——まめな心を都鳥。群れつつ寄せる白波は瀬々に堰かれて、伊達な浮気を渡し守。川淀に映る姿もおのずと色ある露の水馴棹。差す手も遠い唐土の五湖の景色はいざ知らず、知る辺を松の名に愛でて、縁も深い若草の葉越しに隠れる二人連れ。来るのを遅しと待っている。待乳山に夕日が越えれば庵崎の、隅田川原にひとり寝ようと詠んだのも道理よ。見ぬ唐土の八景はいざ知らず、はて面白い景色じゃなあ——それはそうと、夫の軍助の知らせでここへおいでになる松若さまを先刻からお待ちしているが、どうしてこんなに遅いことじゃやら。恋には身をもやつせと言った、その言葉にまかせて、徒歩や跣で人目の関を、忍ぶ忍ぶと売り歩く。忍ぶ草を売る身はこうもあるかと、小褄をしゃんと川千鳥。千鳥鴎の名所である隅田川原に着いた。それと見るより船から出て——やあ、あなたは松若さまでございますか、大方お待ち申したことではございませぬ。やあ、おしづかいの、嬉しや。早速ながら聞いてたも。軍助の言葉にまかせて二人ともこのように忍ぶ売りと姿を変えてここまで来たけれど、道々も恐ろしいことがある。これ、あの寿姫は人手にかかって死にやったわいの。聞いておしづも驚き、それでは姫君さまはあえない御最期でございましたかいな。習わぬ旅路も、許嫁の松若さまに逢いたい添いたいと思い焦がれておいでだったもの。なんの未来も成仏なされましょう、ほんにはかない御縁でございましたなあ——と涙のなか、松若丸は懐から帛紗を取り出す。これを見てたも。またとは思わぬ仲の別れ路を、言葉残りてなお恨まん。幼いときの別れにさえ、許嫁のこの松若へ形見に送ったこの一首も、今は未来への置き土産となったかいの。この世の御縁は薄くとも、御本妻と定まるからには未来は添うてくださりませ。仮のこの世の殿御は私がお預かり申しておりますぞえ。形見こそ今は仇となるその帛紗、せめては妄執も晴れるようにと、煙にすれば未来への門火。南無阿弥陀仏と、岸辺で焼ける葦の火へ形見の帛紗を投げ入れれば——またも瞋恚が立ちのぼり、煙隠れに怪しい心火が現れ出たと見えたのか、ためらう暇もなく、おしづをはじめ松若もおくみも、ただ茫然と伏してしまった。白波の雲かあらぬか、煩悩の堕落に消えた法界坊が姫の魂魄を誘い来て、姿はひとつに二つの顔。恨みをここにありありと、同じ出で立ちの優姿。わしが在所は京の田舎の片辺、八瀬や大原や芹生の里——世を忍ぶゆえ姫御前の身で褄をからげ、忍ぶはいらんせんかいな。世を忍ぶ、その忍ぶの乱れ、限りない恨みの刃に情けなや。恨みも晴れぬままその人が連れ添うことの恨めしく、うつらうつらと迷い来て小舟の間近に立ち寄れば、松若はふと気づく。やあ、そなたはおくみではないかいの。あい、くみじゃわいの——と言うのに心も晴れず、こちらの二人を呼び生けて、そなたはおくみか、気がついたかいの。やあ松若さま、また恐ろしいことでございましたな。おしづも呼び生けて、気がついたかいの。おお、お二人でございますか。これおしづ、おくみがいつの間にやら二人になったわいの。何をおっしゃいますやら、どうしておくみさんが二人あってよいものでございましょう——と言いつつこちらを見て驚き、しばし言葉も出なかったが、ようよう胸を据えて、もし、お前の名は何と申しますえ。あい、私はくみというわいな。と聞いてこちらへ立ち戻り、して、お前の名は。あい、私はくみというわいな。ほんにまあ、こちらにもおくみさん、こちらにもおくみさん。こりゃまあどうじゃと驚けば、ええ何のこっちゃいな、私を退けてほかにおくみがあってよいものかいな——と二人が同じことを言う。いやもう、どちらがおくみさまじゃやら、とんと合点がゆかぬわいな。いつぞや柳橋の大黒屋で踊り初めのあった時の振事を、私はよう覚えておりますが、そちらのおくみさま、お前もよう振を覚えておいでなさんすかえ。それを忘れてよいものかいな。そんならここで見ようかいな——恥ずかしながらちょっと小褄をこう取って。尾花招けばうなずく小萩、何をくねるぞ女郎花。わしゃ可愛うてならぬのに。さても縁が朝顔ならば、廓の女郎衆は見やせまい。開くを莟が開いたと見やせまい。さいな、そうじゃといな。人を忍ぶの草隠れ——おしづもほっと持て余す。いやもう不思議と言おうか、とんと合点がゆかぬわいな。それそれ、そんならこのうえは、松若さまが幸吉と名を変えておくみさんの所へ行かしゃんした、その馴れそめの睦言。お前ならでは知った者はございませぬ。さあその話が聴きたいわいな。恥ずかしながら、よう覚えているわいな。過ぎにし梅の花見月、お目見え初めと手をついて、ふっと見合わす顔と顔。いとしらしゅうて優形で。ほんに思えば徒らな、人の前髪何のその。嗜んで見ても忘れられず、目先にふだん、業平さんも及びやせまい殿ぶりと惚れて心で褒めていて、ついしたわけになったのが、積もり積もっていつしかに、桃と桜の色競べ。雛遊びのささごとに二世の堅めと抱きしめて、つい手枕のそそけ髪。直してあぎょと簪に、お前の紋の差し込みは、癪というもの初めて知った。ほかの殿御の肌知らず、思い焦がるる私じゃもの、何の心が変わろうと——あちらへ引けばこちらへも、縺れ縺るる糸柳、風に揉まるる風情である。おしづはそれと見るより、仲を隔てて結び柴。こちらもつぼみの花、若木の薫りゆかしさに見とれておいでのその中へ、内の子飼いの長太めが阿呆の癖にいやらしく、稚遊びにかこつけて捕迷蔵。しじゅうおしづが止めても止め兼ねた妹背の仲、結び柏や振袖の垣根にまとう蔦かずら、離れがたない風情である。誰とて思いは同じ飛鳥川、瀬と変わりゆく昨日今日。修羅の苦験は晴れやらず、名乗らでも知れやわが思いと、じっと見る目も物凄い。松若さま、おくみどの。恨めしの心や。人の恨みが深くして、刃にかかったこの身の因果。生きてこの世にあるならば、いとしい殿御と添いもしよう。ああ、可愛い女と寝ようものを、なまなか出家を遂げた身は苦験に障られ、法心の中立ちを忘れたのも、みな誰ゆえぞ、おくみゆえ。私の迷いは松若さま、幼馴染の許嫁。末を頼みの甲斐もなく、思わぬ憂き目の三つ瀬川。胸にみなぎる思いの淵。浅いは縁、深いは恨み。恨みは人をも世をも、思い思わずただその人こそ——憎し、つらし、情けないぞとかこち泣き、かっぱと伏して泣いている。おしづはそれと気はつくが、なお様子を見届けようと二人の傍へ立ち寄って、なるほど聞けば聞くほど合点のゆかぬ二人のおくみさま。このうえの思案には、それぞれ去年の秋、神田祭に稽古した踊りの振を、私らも相手になって——さあその振が見たいわいな。それそれ、そっこでせい。花容の渡しに色の綾瀬川、姿箕の輪と浮名は請地。人が庵崎、心の関屋。天神さまのお世話なら片葉の蘆じゃないかいな。花川戸、恋を待乳は三囲や。逢いにや牛島、わしの森。縁の橋場も嬉しの森よ。白鬚さまのお世話なら吾妻橋じゃないかいな。離れぬ仲の縁じゃもの——揃う姿の品かたち。おしづも今はもどかしく、懐から尊像を取り出す。このうえは、夫の軍助どのともども日ごろ信心する浅草の観世音、この尊像の功力をもって化生の姿を現し給え。南無浅草観世音——と一心を凝らして差しつければ、今まで見まがうた顔かたちも震えおののき、忽然と。ああら恐ろしや苦しやなあ。娑婆の業因が深いゆえ、思わぬこの身に験を受け、ともに奈落の底へも引き立ててゆこうとしたけれど、観音薩埵の誓いに恐れ、われとわが身を責めに責め来る冥途の使い。かけもよしなや、恥ずかしの——漏れてよそには白露の、見えつ隠れつ、面影があるとは見えて春風に、姿は消えて失せてしまった。人々は奇異の思いをなし、げに観音の御功力と奇瑞を感ずる折もあれ、間近に聞こえる貝の音、太鼓。おしづはきっと心をつけ、あれあれ、あの太鼓はたしかに常陸の大掾百連よりの討手の者。目にかかってはお為にならぬと、早々とともにささやいて釣鐘の小蔭へ忍ばせる間もなく、百連の手の者どもが我先にと馳せ来る。たしかに見つけた松若丸、また一人は寿姫。注進があって聞いたゆえ搦め捕ろうと来たが、影も形も見えぬのは逃げ隠れたに極まった。ありのままに白状なせ——と犇めけば、おしづは脇へかわして知らぬ体。おお、気疎いこと。私は今ここへ参りましたもの、そのようなお方は存じませぬわいな。それでも今の知らせはこの釣鐘、ちょっと様子をあらためん——と立ちかかるのを、おしづははっと押し隔てる。これはまた疑い深い、何じゃぞいな。いや、見せともながるがなお怪しい。それでもここにはいないわいな。それが定めなら誓言を立てて見せろ。神や仏を誓いにかけ、偽りならぬ誓言を——さあそれは。敬って払い清め奉る。上は梵天、誓文どうしてここにござんしょ明王。なんぼうすんかりきしゃ明王、愛嬌に大威徳、ぽっとりこんりんやな女房。大日大事の神かけて、なまくさばんだばざらにも——と、言葉はすわに誓った。むむ、はは、間に合わせの空誓文。どうでも様子が有明の、釣鐘こそ、すわすわ動くぞ、祈れただ——それ者どもと下知のもと、いで承ると大勢が走りかかって釣鐘を、ほどなく梢に引き上げれば、二人ではなく化けた姿。そもまず汝は何奴だ。およそ輪廻は小車の、六趣四生を出でやらず。人間不定は芭蕉葉の、萎れはかない身の果てを、問う人さえも情けなや。修羅の巷に迷うらん——おしづは以前の尊像を、成仏あれやと差しつける。謹請東方青龍清浄、謹請西方白体白龍、一大三千大千世界の恒沙の竜王、哀愍納受哀愍自謹のみきんなれば、いずこに大蛇のあるべきぞ——と祈り祈られ、また立ち向かうその勢い。なおも恨みは尽きぬと、小蔭に忍ぶ両人へ飛びかかろうとするところへ、松浦五郎則光がそれと見るより馳せ来る。はて怪しや。今、松浦五郎が来て見れば、天地に渦巻く黒雲雷電。心得ずとよく見れば稀有なる女の立ち姿。たとえいかなる悪霊なりとも、この則光が降魔の利剣、立ち去れ——とさしも鋭い勇士の太刀風。おしづは始終一心不乱。観音薩埵の妙智力に怨霊はたちまち遠ざかり、波間へ飛んで入ってしまった。かの怨霊の旧跡も、日高にあらぬ隅田川——鐘ヶ淵と、今の世に伝えてその名を残したのである。

詞章と現代語訳

にしおふ、つき武蔵むさしかげきよく、かすみなが隅田川すみだがはきしわかれば下総しもふさと、むかしはいふていまなほ、よしあるひと言問こととはば、ありのまにまに在原ありはらの、まめなこころ都鳥みやこどり、むれつつする白浪しらなみは、瀬々せぜせかれてはつとして、伊達だて浮気うはきわたもり

名に負う月の武蔵に影は清く、霞を流す隅田川。岸を分ければ下総と昔は言い、今もなお、ゆかりある人が問えば、ありのままに——在原の、まめな心を都鳥。群れつつ寄せる白波は瀬々に堰かれてはっとして、伊達な浮気を渡し守。

川淀かはよどにうつす姿すがたおのづから、いろあるつゆ水馴棹みなれざを、さすとほ唐土もろこしの、五湖ごこ景色けしきはいざらず、知辺しるべまつでて、えんふか嫩草わかくさ葉越はごしがくれの二人連ふたりづれるをおそしと待居まちゐたる

川淀に映る姿もおのずと、色ある露の水馴棹。差す手も遠い唐土の五湖の景色はいざ知らず、知る辺を待つ——その松の名に愛でて、縁も深い若草の葉越しに隠れる二人連れが、来るのを遅しと待っている。

待乳山まつちやま夕越ゆふごゆくれば庵崎いほりざきの、隅田川原すみだがはらひとりかもんと、すさみしもことわりや、唐土もろこし八景はつけいはいざらず、はて面白おもしろ景色けしきぢやナア、それはさうとをつと軍助ぐんすけしらゆゑ此所ここへおいでなさるる松若様まつわかさまを、先刻さつきにからお待申まちまうしてるが、どうして此様このやうおそことぢややら、ほんにまたるるとも待身まつみなるなとは、よういふたものぢやナア

「待乳山に夕日が越えれば庵崎の、隅田川原にひとり寝ようと詠んだのも道理よ。見ぬ唐土の八景はいざ知らず、はて面白い景色じゃなあ。それはそうと、夫の軍助の知らせでここへおいでになる松若さまを先刻からお待ち申しているが、どうしてこんなに遅いことじゃやら。ほんに、待たれるとも待つ身になるなとは、よう言うたものじゃなあ」

しばあんじてたたずめり

しばし案じてたたずんでいる。

こひにはをもやつせといふた、いふたいふたよういうた、その言葉ことばしのぶにまかせ、徒歩かち跣足はだし人目ひとめせきを、しのぶしのぶと売歩うりあるく、しのぶうもあるかと、小褄こづまをしやんと川千鳥かはちどり千鳥ちどりかもめ名所などころなる、隅田川原すみだがはらつきにけり、それるよりふねより

恋には身をもやつせと言った、よう言うた——その言葉を偲ぶにまかせ、徒歩や跣で人目の関を、忍ぶ忍ぶと売り歩く。忍ぶ草を売る身はこうもあるかと、小褄をしゃんと川千鳥。千鳥鴎の名所である隅田川原に着いた。それと見るより船から出て。

ヤアあなたは松若様まつわかさま御座ござりますか、大体だいたい大方おほかた待申まちまうしたことぢや御座ござりませぬ

「やあ、あなたは松若さまでございますか。大方お待ち申したことではございませぬ」

ヤアおしづかいのうれしやうれしや早速さつそくながいてたも、軍助ぐんすけ言葉ことばにまかせ、二人ふたりとも此様このやうに、荵売しのぶうりと姿すがたをかへ、此処ここまでこれども、道々みちみちおそろしいことのあるでう、コレあの寿姫ことぶきひめ人手ひとでにかかつてしにやつたわいの

「やあ、おしづかいの。嬉しや、嬉しや。早速ながら聞いてたも。軍助の言葉にまかせ、二人ともこのように忍ぶ売りと姿を変えてここまで来たけれど、道々も恐ろしいことがある。これ、あの寿姫は人手にかかって死にやったわいの」

いておしづも吃驚びつくりし、そんなら姫君様ひめぎみさまにはあへない御最期ごさいご御座ござりましたかいな、ほんにならはぬ旅路たびぢも、お許嫁いひなづけ松若様まつわかさまに、あひたいそひたいとおもこがれておいであそばしたもの、なんの未来みらい成仏じやうぶつなされませう、ほんに果敢はかない御縁ごえん御座ござりましたナア

聞いておしづも驚き、「それでは姫君さまはあえない御最期でございましたかいな。ほんに、習わぬ旅路も、許嫁の松若さまに逢いたい添いたいと思い焦がれておいででしたもの。なんの、未来も成仏なされましょう。ほんにはかない御縁でございましたなあ」

なみだなかに、松若丸まつわかまる懐中ふところより帛紗ふくさ取出とりだ

と涙のなか、松若丸は懐から帛紗を取り出し。

これてたも、またとだにおもはぬなかわかを、言葉ことばのこりてなほやうらみん、をさなときわかれさへ、許嫁いひなづけこの松若まつわかへ、形見かたみおくりしこの一首いつしゆも、いま未来みらい置土産おきみやげとなつたかいの

「これを見てたも。またとは思わぬ仲の別れ路を、言葉残りてなお恨まん——幼いときの別れにさえ、許嫁のこの松若へ形見に送ったこの一首も、今は未来への置き土産となったかいの」

此世このよ御縁ごえんうすくとも、御本妻ごほんさいさだまるからは、未来みらいそうくださりませ、かり此世このよ殿御とのごをば、わたしがおあづかまうして御座ござんすぞへ

「この世の御縁は薄くとも、御本妻と定まるからには、未来は添うてくださりませ。仮のこの世の殿御は、私がお預かり申しておりますぞえ」

肩身かたみこそいまあだなるその帛紗ふくさせめては妄執まうしふはるるやう、けぶりとなさば未来みらい門火かどび

形見こそ今は仇となるその帛紗。せめては妄執も晴れるようにと、煙にすれば未来への門火。

それそれどうぞ未来みらい成仏じやうぶつなされてくださりませ

「それそれ、どうぞ未来は成仏なされてくださりませ」

南無阿弥陀仏なむあみだぶつなむあみだぶつとかたはらなる、岸根きしねくるあしへ、形見かたみ帛紗ふくさ打入うちいれば

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、傍らの岸辺で焼ける葦の火へ、形見の帛紗を投げ入れれば。

また瞋恚しんい立登たちのぼる、煙隠けぶりがくれにあやしの心火しんくわあらはれるとえたるか、ためらふひまもなかなかに、おしづをはじ松若まつわかおくみ、たた茫然ばうぜんふしにける

またも瞋恚が立ちのぼり、煙隠れに怪しい心火が現れ出たと見えたのか。ためらう暇もなく、おしづをはじめ松若もおくみも、ただ茫然と伏してしまった。

白波しらなみくもかあらぬか煩悩ぼんなうの、堕落だらくにうせし法界坊ほふかいばうひめ魂魄こんぱくさそひきて、姿すがたひと二面ふたおもてうらみをここにありありとおな出立いでたちのやさすがた

白波の雲かあらぬか。煩悩の堕落に消えた法界坊が姫の魂魄を誘い来て、姿はひとつに二つの顔。恨みをここにありありと——同じ出で立ちの優姿よ。

わしが在所ざいしよきやう田舎ゐなか片辺かたほとり八瀬やせ大原おほはら芹生せりふさとしのゆゑ姫御前ひめごぜつまからげ、しのぶいらんせんかいな、はんせんかにや、しのぶしのぶのみだれかぎりなきうらみのやいばなさけなや、うらみもやらで其人そのひとの、つれそふことのうらめしく、うつらうつらとまよひきて、小舟こぶね間近まぢか立寄たちよれば、松若まつわかふつと心付こころづ

「わしが在所は京の田舎の片辺、八瀬や大原や芹生の里。世を忍ぶゆえ姫御前の身で褄をからげ、忍ぶはいらんせんかいな、買わんせんかいな」——世を忍ぶ、その忍ぶの乱れ。限りない恨みの刃に情けなや。恨みも晴れぬままその人が連れ添うことの恨めしく、うつらうつらと迷い来て、小舟の間近に立ち寄れば、松若はふと気づく。

ヤアそなたはおくみぢやないかいの

「やあ、そなたはおくみではないかいの」

アイくみぢやわいの

「あい、くみじゃわいの」

といふにこころはれやらず、此方こなた二人ふたり呼生よびいけて

と言うのに心も晴れず、こちらの二人を呼び生けて。

ヤそなたはおくみか、こころがついたかいの

「や、そなたはおくみか。気がついたかいの」

ヤア松若様まつわかさままたおそろしいこと御座ござんしたな

「やあ松若さま、また恐ろしいことでございましたな」

言葉ことばになほも恐気おぢけだち、おしづおしづと呼生よびいけて

とその言葉になおも怖気だち、おしづおしづと呼び生けて。

コレおしづがついたかいの

「これおしづ、気がついたかいの」

ヲヲお二人ふたり御座ござりまするか

「おお、お二人でございますか」

コレおしづおくみが何時いつにやら二人ふたりになつたわいの

「これおしづ、おくみがいつの間にやら二人になったわいの」

なに仰有おつしやりまするやら、どうしておくみさんが二人ふたりあつてよいもので御座ござりまする、といひつつ此方こなた吃驚びつくりしば言葉ことばいでざりしが、やうやうにむねをすゑ

「何をおっしゃいますやら。どうしておくみさんが二人あってよいものでございましょう」——と言いつつこちらを見て驚き、しばし言葉も出なかったが、ようよう胸を据えて。

もしおまへなんまうしますへ

「もし、お前の名は何と申しますえ」

アイわたしやくみといふわいな

「あい、私はくみというわいな」

いて此方こなた立戻たちもどり、シテおまへ

と聞いてこちらへ立ち戻り、「して、お前の名は」

アイわたしはくみといふわいな

「あい、私はくみというわいな」

ほんにマア此方こなたにもおくみさん此方こなたにもおくみさん

「ほんにまあ、こちらにもおくみさん、こちらにもおくみさん」

こりやまあどうぢやとおどろけば

こりゃまあどうじゃと驚けば。

エエなんのこつちやいな、わたし退のけほかにおくみがあつてよいものかいな

「ええ、何のこっちゃいな。私を退けてほかにおくみがあってよいものかいな」

エエなんのこつちやいな、わたし退のけほかにおくみがあつてよいものかいな

「ええ、何のこっちゃいな。私を退けてほかにおくみがあってよいものかいな」——と、もう一人もまったく同じことを言う。

イヤもう何方どちらがおくみさまぢややら、とんと合点がつてんがゆかぬわいな、イヤまうしおくみさま、あなたは何時いつぞや柳橋やなぎばし大黒屋だいこくや踊初をどりぞめのあつたとき振事ふりごとわたしやようおぼえてりまするが、そちらなおくみさま、おまへもようふりおぼえておいでなさんすかへ

「いやもう、どちらがおくみさまじゃやら、とんと合点がゆかぬわいな。いや申し、おくみさま。あなたはいつぞや柳橋の大黒屋で踊り初めのあった時の振事を、私はよう覚えておりますが、そちらのおくみさま、お前もよう振を覚えておいでなさんすかえ」

それをわすれてよいものかいな

「それを忘れてよいものかいな」

そんならここでようかいな

「そんなら、ここで見ようかいな」

サアその振事ふりごと

「さあ、その振事は」

その振事ふりごと

「その振事は」

はづかしながら一寸ちよつと小褄こづまをかうりて

「恥ずかしながら、ちょっと小褄をこう取って」

尾花をばなまねけばうなづく小萩こはぎなにをくねるぞ女郎花をみなへし、わしや可愛かはいうてならぬのに、さてえん朝顔あさがほならば、くるわ女郎衆ぢよらうしゆやせまい、ひらくをつぼみひらいたとやせまい、サイナさいなさうぢやといな、ひとをしのぶの草隠くさがくれ、おしづもほつともちあぐみ

尾花招けばうなずく小萩。何をくねるぞ女郎花。わしゃ可愛うてならぬのに。さても縁が朝顔ならば、廓の女郎衆は見やせまい。開くを莟が開いたと見やせまい。さいな、さいな、そうじゃといな。人を忍ぶの草隠れ——おしづもほっと持て余す。

いやもう不思議ふしぎといはうかとんと合点がつてんがゆかぬわいな、ヲヲそれそれそんなら此上このうへ松若様まつわかさまが、幸吉かうきちかへて、おくみさんのところかしやんした、その馴初なれそめの睦言むつごとは、おまへならではつたものは御座ござんせぬ、サアそのはなしきたいわいな

「いやもう、不思議と言おうか、とんと合点がゆかぬわいな。おお、それそれ。そんならこのうえは、松若さまが幸吉と名を変えておくみさんの所へ行かしゃんした、その馴れそめの睦言。お前ならでは知った者はございませぬ。さあ、その話が聴きたいわいな」

サアその睦言むつごとはなしはな、はづかしながらようおぼえてるわいな

「さあ、その睦言の話はな。恥ずかしながら、よう覚えているわいな」

ハテマアこちらなおくみさまからかうわいな

「はてまあ、こちらのおくみさまから聞こうわいな」

それそれそれかうわいな

「それそれ、それを聞こうわいな」

サアそれは

「さあ、それは」

すぎにしうめ花見月はなみづき目見めみめとをついて、ふつと見合みあはかほかほ、いとしらしうて優形やさがた

過ぎにし梅の花見月。お目見え初めと手をついて、ふっと見合わす顔と顔。いとしらしゅうて優形で。

ほんにおもへばあだらな、ひと前髪まへがみなにのその、たしなんでてもわすられず、目先めさきにふだん業平なりひらさんも、およびやせまい殿振とのぶりと、れてこころめてて、ついしたわけになつたのが、つもりつもつて何時いつしかに、ももさくら色競いろくら

ほんに思えば徒らな。人の前髪何のその。嗜んで見ても忘れられず、目先にふだん——業平さんも及びやせまい殿ぶりと惚れて、心で褒めていて、ついしたわけになったのが、積もり積もっていつしかに、桃と桜の色競べ。

雛遊ひなあそびのささごとに、二世にせかためとだきしめて、つい手枕たまくらのそそけがみなほしてあぎよと髪挿かんざしに、おまへもんのさしこみは、しやくといふものはじめてつた、ほか殿御とのごはだらず、おもこがるるわたしぢやもの、なにこころかはらうと、彼方あちらひけ此方こちらへも、もつれもつるる糸柳いとやなぎかぜにもまるる風情ふぜいなり

雛遊びのささごとに、二世の堅めと抱きしめて、つい手枕のそそけ髪。直してあげようと簪に、お前の紋の差し込みは——癪というもの初めて知った。ほかの殿御の肌知らず、思い焦がるる私じゃもの、何の心が変わろうと。あちらへ引けばこちらへも、縺れ縺るる糸柳、風に揉まるる風情である。

おしづはそれるよりも、なかへだてて結柴むすびしばの、こちらもこちらもつぼみはな

おしづはそれと見るより、仲を隔てて結び柴の——こちらもこちらも、つぼみの花。

若木わかぎかをりゆかしさに、とれさんすそのなか

若木の薫りゆかしさに見とれておいでの、その中へ。

うち子飼こがひ長太ちやうたが、阿呆あはうくせにいやらしい、稚遊をさなあそびにかこつけて、捕迷蔵とりめくらはんま千鳥ちどり、ちりてはしたふ磯隠いそがくれ、しじゆうをおしづがめても、とめねたる妹脊いもせなかむすがしは振袖ふりそでの、垣根かきねまとつたかづら、はなれがたなき風情ふぜいなり

内の子飼いの長太めが、阿呆の癖にいやらしく、稚遊びにかこつけて捕迷蔵。しじゅうをおしづが止めても止め兼ねた妹背の仲。結び柏や振袖の垣根にまとう蔦かずら、離れがたない風情である。

たれとておもひはおな飛鳥川あすかがはとかはりゆく昨日きのふ今日けふ修羅しゆら苦験くげんのはれやらず、名乗なのらでしれやわがおもひ、じつと物凄ものすご

誰とて思いは同じ飛鳥川、瀬と変わりゆく昨日今日。修羅の苦験は晴れやらず、名乗らでも知れやわが思いと、じっと見る目も物凄い。

松若様まつわかさまおくみどの

「松若さま、おくみどの」

うらめしのこころや、ひとうらみのふかくして、やいばにかかりし因果いんぐわいき此世このよにあるならば、いとし殿御とのごそひもせう

「恨めしの心や。人の恨みが深くして、刃にかかったこの身の因果。生きてこの世にあるならば、いとしい殿御と添いもしよう」

アア可愛かはいをんなんものを、なまなか出家しゆつけげしは、苦験くげんさはられ法心ほつしんの、中立なかだちわすれしもみなたれゆゑぞおくみゆゑ

「ああ、可愛い女と寝ようものを。なまなか出家を遂げた身は苦験に障られ、法心の中立ちを忘れたのも、みな誰ゆえぞ——おくみゆえ」

わたしまよひは松若様まつわかさま稚馴染をさななじみ許嫁いひなづけすゑたのみの甲斐かひもなく、おもはぬ憂目うきめ瀬川せがは

「私の迷いは松若さま、幼馴染の許嫁。末を頼みの甲斐もなく、思わぬ憂き目の三つ瀬川」

むねみなぎおもひのふち

胸にみなぎる思いの淵。

あさいはえん

「浅いは縁」

ふかいはうら

「深いは恨み」

うらみはひとをもをも、おもおもはずただ其人そのひとこそ

恨みは人をも世をも、思い思わずただその人こそ。

にく

「憎し」

つらし

「つらし」

なさけないぞとかこち

情けないぞと、かこち泣き。

かつぱとしてたる、おしづはそれはつけど、なほも様子やうす見届みとどけんと、二人ふたりそばたちよつて

かっぱと伏して泣いている。おしづはそれと気はつくが、なお様子を見届けようと二人の傍へ立ち寄って。

成程なるほどけばほど合点がつてんかぬ二人ふたりのおくみさまこのうへの思案しあんにはそれそれ去年こぞあき神田祭かんだまつり稽古けいこしたをどりのふり私等わたしら相手あひてになつて

「なるほど、聞けば聞くほど合点のゆかぬ二人のおくみさま。このうえの思案には、それぞれ去年の秋、神田祭に稽古した踊りの振を、私らも相手になって」

サアそのふりたいわいな

「さあ、その振が見たいわいな」

サアそのをどりのふりはな

「さあ、その踊りの振はな」

それ

「それ」

それ

「それ」

それそれそれそつこでせい、花容くわようわたしにいろ綾瀬川あやせがは姿すがた浮名うきな請地うけぢひと庵崎いほりざきこころ関屋せきや天神てんじんさまの御世話おせわなら、片葉かたはあしぢやないかいな、それそれ誓文せいもんさうかいな、花川戸はなかはどこひ待乳まつち三圍みめぐりや、ひにや牛島うしじまわしのもりえん橋場はしばうれしもりよ、白鬚しらひげさまのお世話せわなら吾妻橋あづまばしぢやないかいな、それそれ誓文せいもんさうかいな、はなれぬなかえんぢやもの、そろ姿すがたしなかたち、おしづもいまはもどかしく懐中ふところ尊像そんざう取出とりだ

それそれ、そっこでせい。花容の渡しに色の綾瀬川。姿箕の輪と浮名は請地。人が庵崎、心の関屋。天神さまのお世話なら片葉の蘆じゃないかいな。それそれ、誓文そうかいな。花川戸、恋を待乳は三囲や。逢いにや牛島、わしの森。縁の橋場も嬉しの森よ。白鬚さまのお世話なら吾妻橋じゃないかいな。それそれ、誓文そうかいな。離れぬ仲の縁じゃもの——揃う姿の品かたち。おしづも今はもどかしく、懐から尊像を取り出す。

此上このうへをつと軍助殿ぐんすけどの諸共もろとも日比ひごろ信心しんじんなす、浅草あさくさ観世音くわんぜおんこの尊像そんざう功力くりきをもつて、化生けしやう姿すがたあらはしたまへ、南無なむ浅草あさくさ観世音くわんぜおん

「このうえは、夫の軍助どのともども日ごろ信心する浅草の観世音。この尊像の功力をもって、化生の姿を現し給え。南無浅草観世音」

一心いつしんこらしてさしつくれば、いままでまがふかほばせも、ふるをののきて忽然こつぜん

と一心を凝らして差しつければ、今まで見まがうた顔かたちも震えおののき、忽然と。

ああらおそろしやくるしやなア、娑婆しやば業印ごふいんふかゆゑ

「ああら恐ろしや、苦しやなあ。娑婆の業因が深いゆえ」

おもはぬ此身このみげんけ、とも奈落ならくそこも、引立ひきたてゆかんとせしかども、観音くわんおん薩陀さつたちかひにおそれ、われ我身わがみをせめにめくる冥土めいど使つかひ、かけもよしなやはづかしのもりてよそにや白露しらつゆの、えつかくれつ面影おもかげのありとはえて春風はるかぜに、姿すがたえてうせにけり

思わぬこの身に験を受け、ともに奈落の底へも引き立ててゆこうとしたけれど、観音薩埵の誓いに恐れ、われとわが身を責めに責め来る冥途の使い。かけもよしなや、恥ずかしの——漏れてよそには白露の、見えつ隠れつ、面影があるとは見えて春風に、姿は消えて失せてしまった。

人々ひとびと奇異きいおもひをなし、げに観音くわんおん御功力ごくりきと、奇瑞きずゐかんずるをりこそあれ、間近まぢかきこゆるかひ太鼓たいこ、おしづはきつとこころをつけ

人々は奇異の思いをなし、げに観音の御功力と奇瑞を感ずる折もあれ、間近に聞こえる貝の音、太鼓。おしづはきっと心をつけ。

あれあれあの太鼓たいこはたしかに常陸ひたち大椽だいじよう百連ももつらより討手うつてものにかかつてはおためにならずはやはやとともにささやき撞鐘つりがねの、小蔭こかげしのばすもなく、百連ももつら者共ものども我先われさきにと馳来はせきた

「あれあれ、あの太鼓はたしかに常陸の大掾百連よりの討手の者。目にかかってはお為にならぬ」と早々にともにささやいて、釣鐘の小蔭へ忍ばせる間もなく、百連の手の者どもが我先にと馳せ来る。

たしかに見付みつけ松若丸まつわかまるまた一人ひとり寿姫ことぶきひめ注進ちうしんあつてききしより、からめとらんときたりしがかげかたちえざるは、にげかくれたにきはまつたり、有様ありやう白状はくじやうなせなにとなにと

「たしかに見つけた松若丸、また一人は寿姫。注進があって聞いたゆえ搦め捕ろうと来たが、影も形も見えぬのは逃げ隠れたに極まった。ありのままに白状なせ、何と、何と」

ひしめけば、そばへかはしてあらぬてい

と犇めけば、おしづは脇へかわして知らぬ体。

ヲヲ気踈きうとと、わたしいま此処ここまゐりましたもの、そのやうなおかたぞんじませぬわいな

「おお、気疎いこと。私は今ここへ参りましたもの、そのようなお方は存じませぬわいな」

それでもいまのしらせはこの釣鐘つりがね、ちよつと様子やうすをあらためん

「それでも今の知らせはこの釣鐘。ちょっと様子をあらためん」

たちかかるを、おしづははつと押隔おしへだ

と立ちかかるのを、おしづははっと押し隔てる。

これまたうたがぶかなんぢやぞいな

「これはまた疑い深い、何じゃぞいな」

イヤせともながるがなほあやしい

「いや、見せともながるのがなお怪しい」

それでもここにぢやないわいな

「それでも、ここにはいないわいな」

それぢやうなら誓言せいごんててせろ

「それが定めなら、誓言を立てて見せろ」

なんとへ

「何とえ」

かみほとけちかひにかけ

「神や仏を誓いにかけ」

いつはりならぬ

「偽りならぬ」

誓言せいごん

「誓言を」

ようは

「見ようは」

サアそれは

「さあ、それは」

うやまつてはらきよたてまつる、かみは梵天ぼんてん誓文せいもんどうしてこここに御座ござんしよ明王みやうわう

「敬って払い清め奉る。上は梵天——誓文、どうしてここにござんしょ明王」

なんぼうすんかりきしや明王みやうわう愛嬌あいけう大威徳だいゐとくぽつとりこんりんやな女房にようばう大日だいにち大事だいじかみかけて、なまくさばんだばざらにも、言葉ことばはすはにちかひける

なんぼうすんかりきしゃ明王、愛嬌に大威徳、ぽっとりこんりんやな女房。大日大事の神かけて、なまくさばんだばざらにも——と、言葉はすわに誓ったのであった。

ムム間合まあひ空誓文そらせいもん

「むむ、間に合わせの空誓文」

どうでも様子やうす

「どうでも様子が」

有明ありあけ

「有明の」

撞鐘つりがねこそ

「釣鐘こそ」

すはすはうごくぞいのれただ、それ者共ものども下知げぢもと、イデうけたまはると大勢おほぜいが、はしりかかつて撞鐘つりがねを、ほどなくこずゑ引上ひきあぐれば、二人ふたりにあらでばけしたる姿すがた

「すわすわ、動くぞ。祈れ、ただ」——それ者どもと下知のもと、いで承ると大勢が走りかかって釣鐘を、ほどなく梢に引き上げれば、二人ではなく、化けた姿。

そもまづなんぢ

「そもまず汝は」

何奴なにやつだやい

「何奴だやい」

およ輪廻りんね小車をぐるまの、ろくしゆしやうをいでやらず

およそ輪廻は小車の、六趣四生を出でやらず。

人間にんげん不定ふぢやう芭蕉葉ばせうばの、しをれはかなきはてを、とふひとさへもなさけなや、修羅しゆらちまたまよふらん、おしづは以前いぜん尊像そんざうを、成仏じやうぶつあれやとさしつくれば

人間不定は芭蕉葉の、萎れはかない身の果てを、問う人さえも情けなや。修羅の巷に迷うらん——おしづは以前の尊像を、成仏あれやと差しつければ。

謹請きんじやう東方とうばうせうりう清浄しやうじやう謹請きんじやう西方さいはう白体はくたい白龍はくりう一大いちだい三千さんぜん大千だいせん世界せかい恒沙ごうしや竜王りゆうわう哀愍あいみん納受なふじゆあいみん自謹じきんのみきんなれば、何処いづく大蛇だいじやのあるべきぞと、いのいのられまたたちむかふそのいきほひ、なほもうらみはつくせじと、小蔭こかげしの両人りやうにんへ、とびかからんとするところへ、松浦まつら五郎ごらう則光のりみつは、それとるより馳来はせきた

謹請東方青龍清浄、謹請西方白体白龍、一大三千大千世界の恒沙の竜王、哀愍納受、哀愍自謹のみきんなれば、いずこに大蛇のあるべきぞ——と祈り祈られ、また立ち向かうその勢い。なおも恨みは尽きぬと、小蔭に忍ぶ両人へ飛びかかろうとするところへ、松浦五郎則光がそれと見るより馳せ来る。

ハテあやしやいま松浦まつら五郎ごらうれば、天地てんち渦巻うづま黒雲くろくも雷電らいでん心得こころえずとよくれば、稀有けうなるをんな立姿たちすがた、たとへいかなる悪霊あくりやうなりともこの則光のりみつ降魔がうま利剣りけん立去たちされエエ

「はて怪しや。今、松浦五郎が来て見れば、天地に渦巻く黒雲雷電。心得ずとよく見れば、稀有なる女の立ち姿。たとえいかなる悪霊なりとも、この則光が降魔の利剣。立ち去れ、ええ」

とさしもするど勇士ゆうし太刀風たちかぜ、おしづは始終しじゆう一心いつしん不乱ふらん

とさしも鋭い勇士の太刀風。おしづは始終、一心不乱。

観音くわんおん薩陀さつた妙智力めうちりきに、怨霊おんりやうたちまとほざかり、波間なみまへとんでいりにける、かの怨霊おんりやう旧跡きうせき日高ひだかにあらぬ隅田川すみだがはかねふちとぞいまに、つたへて其名そのなのこしける

観音薩埵の妙智力に、怨霊はたちまち遠ざかり、波間へ飛んで入ってしまった。かの怨霊の旧跡も、日高にあらぬ隅田川——鐘ヶ淵と、今の世に伝えてその名を残したのである。

この曲は常磐津。詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第四編 常磐津集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開した。

本名題は『両顔月姿絵』。詞は木村ゑんふ。作曲者・初演年は原典に記載がない。

『隅田川続俤』の系統。殺された寿姫の魂魄と、堕落して死んだ法界坊の亡魂とが合わさり、ひとつの体に二つの心を宿しておくみとまったく同じ姿で現れる。これが「双面」の名の由来。

見分けのために踊りの振を試させる件が二度ある。一度目は柳橋の大黒屋の踊り初め、二度目は神田祭の稽古の振。どちらも寸分たがわず踊るので、いよいよ見分けがつかなくなる。

二度目の振は隅田川筋の地名尽くし。綾瀬川・箕輪・請地・庵崎・関屋・片葉の蘆・花川戸・待乳・三囲・牛島・橋場・嬉しの森・白鬚・吾妻橋と続く。当ライブラリの『戻駕』にも同じ「そつこでせい」の囃子が出る。

結びは鐘ヶ淵の地名由来。討手が釣鐘を引き上げたところ怨霊があらわれ、退散して淵へ入ったので、その名が残ったとする。

「荵売り」は忍ぶ草を売り歩く商い。「世を忍ぶ」に掛けて、身をやつした二人の姿とする。

「六しゆ四しやう」は六趣四生。輪廻する六つの世界と四つの生まれ方。

「哀愍納受」以下は龍神を招く祈りの文句。歌舞伎の祈りの場で使われる型にならう。

原典の翻刻に一字の誤りがある。「奇瑞を感ずる折こそ□れ」の□に欧文字が入っており、明らかな誤植なので「折こそあれ」と改めた。

次の語は語義が定めがたく、推測で埋めず原典のまま残した。「そつこでせい」「はんま千鳥」「なんぼうすんかりきしや明王」以下の誓文の文句、「かけもよしなや」。誓文の一段はもともと文句を崩した地口なので、意味の通らないところがある。

「庵崎」の読みは当ライブラリの『三保の松』と同じく「いほりざき」と推した。「常陸の大椽百連」の読みも確かめきれていない。

流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。