藤舎の紋 藤舎名玄TOSHA MEIGEN ― 詞章ライブラリーへ戻る
常磐津

八犬伝富山の段はっけんでんとやまのだん

常磐津  本名題『八犬義士誉勇猛』  作詞者・作曲者・初演年不詳

⎙A4一枚に印刷できる詞章(PDF)開く・印刷・保存お稽古や舞台の予習に。A4横一枚にまとめてあります。
八犬伝富山の段 岩屋の伏姫と八房
岩屋の伏姫と八房

曲亭馬琴の読本『南総里見八犬伝』の発端、伏姫と八房の富山の一段による。前半は樵夫たちの噂話と、富山の岩屋にひとり住む伏姫の四季。怪しい草刈り童が現れて懐胎の因果を告げる。後半は父義実と金鞠大助が山に入り、大助の放った弾が八房もろとも伏姫を傷つける。伏姫は身の潔白を明かして自害し、水晶の数珠が八つの玉となって飛び散り、八犬士誕生の因縁が語られる。終わりに伏姫の死ぬ件があり、席によっては扱いに心を配りたい。

あらすじ

獅子は谷へ子を落としてその勇を知り、犬が夜を守るのは義であり勇である。頃は嘉吉二年の春、結城の戦に敗れた里見義実は南総滝田の城主となったが、安西の奸計で危うかった折、戯れに「安西の首を取れば姫をやろう」と言った一言から、飼犬八房が敵将の首を取り、伏姫は父の綸言を立てて八房に伴われ富山の奥に籠る。麓の高札の前では樵夫たちがその噂を語り合う。人跡絶えた山の岩屋で、伏姫は苔の筵に座して法華経を読誦し、春の山桜から冬の白雪まで四季をひとりで送る。ある日、人も通わぬ深山に笛の音がして、牛に乗った草刈り童が現れる。わが身の不調を問えば、童はそれは懐胎のしるしと言い、交わらずとも一念が凝って胎内に宿る八つ子の因果、されど水晶の数珠と法華経の功力で、やがて里見の家の忠臣と生まれ変わると告げて掻き消える。洲崎の行者のお告げと悟った伏姫は、水面に映るわが姿が犬の顔となる不思議に取り乱し、もはやこれまでと覚悟を定める。夜更けて名残の勤めに提婆品を読誦するところへ、筒音一発——功名を立てて帰参をと山に忍んでいた金鞠大助の二つ玉が八房を撃ち留め、それた弾が伏姫の肩先を傷つける。狩装束の義実も来合わせ、主従は暗闇の中で顔を見合わせる。義実は、大助の父金鞠八郎への恩義から心のうちで大助を聟と定めていたと明かすが、伏姫は言うより早く懐剣をわが腹へ突き立てる。おめおめ生きて犬の子を産めば父の恥辱、心に定められた人への申し訳と、覚悟の自害を語る姫。義実が月にかざした水晶の数珠は、如是畜生の文字が消えて仁義礼智孝貞忠信の八文字に返り、悪霊解脱のしるしを見せる。伏姫は「わが一念を神として、八つの玉を八人の忠臣の子胤としよう」と数珠を押し揉んで祈れば、念珠は切れて八つの玉が光を放って虚空へ飛び散り、疵口からは八つの犬の形の影が空へ去る。大助は髻を切って丶大と名乗り、玉を持つ勇士を探す誓いを立てる。伏姫は本望と念仏の声のうちにはかなくなり、丶大は東八ヶ国へ勇士を尋ねる旅に立つ。八犬伝と読本に千代も伝えて、常磐津の節に残るぞ勇ましい。

詞章と現代語訳

獅子ししは谷たにへ子こを落おとして其その勇ゆうを知しり、虎とらの河かはを渡わたすは智ちなり、犬いぬの夜よを守まもるは義ぎなり勇ゆうなり、主しゆうを敬うやまひ主しゆうを知しるは是これ礼れいなり、其その職しよくを守まもりて私わたくしなきも又また斯かくのごとしとかや、御代みよ治をさまりて曇くもりなき、天津日嗣あまつひつぎ百ももつき余あまり、御花園院ごはなぞのゐんの御宇ぎようとかや、頃ころは嘉吉かきつ二年にねんの春はる、結城ゆふきの軍いくさ破やぶれて後のち、里見又太郎義実さとみまたたらうよしざね公こう、再ふたたび家いへを起おこさんと南総なんそうへ押渡おしわたり、滝田たきたの城主じやうしゆと時ときめきしが、安西あんざいが奸計かんけいにて既すでに危あやふき其その折をりから、八房やつふさに伴ともなはれ富山とやまの奥おくの山住居やまずまゐ、麓ふもとに立たちし高札かうさつの前まへに休やすらふ樵夫きこりども、仇あだ口々くちぐちに高談かうだん

獅子は谷へ子を落としてその勇を知り、虎が河を渡るのは智である。犬が夜を守るのは義であり勇であり、主を敬い主を知るのは礼である。その職を守って私心のないこともまた、このとおりだという。御代は治まって曇りなく、天津日嗣は百代あまり、後花園院の御宇とか。頃は嘉吉二年の春、結城の戦に敗れたのち、里見又太郎義実公は再び家を起こそうと南総へ渡り、滝田の城主として時めいたが、安西の奸計ですでに危うかったその折から——姫は八房に伴われて富山の奥の山住まい。麓に立った高札の前で休む樵夫たちが、気ままに口々に話し合う。

何なんと杢助もくすけ、此この札ふだが立たつてから二年越にねんごし山やまへ入いらぬが、嘸さぞ枯木かれきが出来できたであらう、モウよい加減かげんに山やまを開ひらいて下くださればよいになア、わしはゆう筆ふでぢやによつて高札かうさつは読よめず、自体じたいどういふ事ことぢやナ、わら助すけの何なに言いふぞへ、そんなら、汝侶おのれらはまだ知しらぬか、滝田たきたの御城主様ごじやうしゆさまのお姫様ひめさまが八房やつふさといふ犬いぬと一緒いつしよに此この山やまにお住すまひなされて御座ござるけな、ワレ又またどうしてお姫ひめさまとその犬いぬが、おらも委くはしい訳わけは知しらぬが、夫故それゆゑに樵夫きこり山賤やまがつは言いふに及およばず、狩人かりうど又または草刈くさかりまで山やまを登のぼるをお止とめなされたと言いふ事ことと、咄はなす傍そばから狩人かりうどの鉄八てつぱちは進すすみ寄より、コレコレその委くはしい話はなしは必かならずするなと庄屋殿しやうやどのの言付いひつけなれど、外ほかに聞者きくものもない此この麓ふもと、おらが話はなして聞きかさうわへ、かうと一昨年をととしの難渋年なんじふどし、お上かみに兵糧ひやうらうの尽つきた折をりから、安西あんざいが八方はつぱうより戦たたかひ寄よる、今いまや落城らくじやうと言いふ時ときに、殿様とのさまが八房やつふさに安西あんざいが首くびをとらば姫ひめをやらうと言いふたげな、夫それを聞分ききわけ八房やつふさの犬いぬは大手おほてを走はしり出いで、安西あんざいが首くびを咬くはへて殿様とのさまの前まへに置おき、大将たいしやうなければ忽たちまちに安西方あんざいがたは亡ほろびたり、八房やつふさは姫君ひめぎみの振袖ふりそでを引咬ひきくはへて引立ひきたてる、殿様とのさまは腹はらを立たて突殺つきころさんとしたまふを、お姫様ひめさまは楯たてとなり、君きみの仰おほせは倫言りんげん同然どうぜん、出いでてかへらぬ此この身みの因果いんぐわ、安西あんざいの首くびとりしは八房やつふさの手柄てがらなり、国くにの為ため家いへの為ため身みを捨すつるは惜をしからず、八房やつふさに伴ともなはれ此この富山とやまの奥住居おくずまゐ、それ故ゆゑに此この山やまへ登のぼることお止とめなされた、何なんと皆みなの衆しゆう痛いたはしい事ことぢやないかいのう、と言いふに杢助もくすけ鼻はなすゝり、鉄八てつぱちが講釈かうしやくでさらりと解わかつた犬いぬの咄はなし、大将たいしやうの首くび取とつてお姫様ひめさまを貰もらふとは、羨望うらやましい事ことぢやないか、これからおらも戦いくさがあつたら雑兵ざふひやうの首くびなと拾ひろふてお末すゑの一人ひとりも貰もらはうわいのう

「なんと杢助、この札が立ってから二年越しで山へ入れないが、さぞ枯木がたまったろう。もういい加減に山を開いてくださればよいのになあ。わしは筆が読めないから高札は読めぬが、いったいどういうことじゃな。」「わら助、何を言うぞえ。それならお前たちはまだ知らぬか。滝田のご城主さまのお姫さまが、八房という犬と一緒にこの山にお住まいなされているそうな。」「これはまた、どうしてお姫さまとその犬が。」「おれも詳しい訳は知らぬが、それゆえに樵夫や山賤は言うに及ばず、狩人も草刈りも山に登るのをお止めなされたということだ。」——話すそばから狩人の鉄八が進み寄り、「これこれ、その詳しい話は決してするなと庄屋どののお言いつけだが、ほかに聞く者もないこの麓、おれが話して聞かせよう。一昨年の難渋の年、お上に兵糧の尽きた折から、安西が八方から攻め寄せ、今や落城というときに、殿さまが『八房、安西の首を取ったら姫をやろう』と言うたそうな。それを聞き分けた八房は大手を走り出て、安西の首をくわえて殿さまの前に置いた。大将を失った安西方はたちまち亡びた。八房は姫君の振袖をくわえて引き立てる。殿さまは腹を立てて突き殺そうとなさるのを、お姫さまは楯となり、『君の仰せは綸言も同然。出て帰らぬこの身の因果、安西の首を取ったのは八房の手柄。国のため家のため、身を捨てるのは惜しくない』と、八房に伴われてこの富山の奥住まい。それゆえこの山へ登ることをお止めなされたのだ。なんと皆の衆、痛わしいことではないかいのう。」と言えば杢助は鼻をすすり、「鉄八の講釈でさらりと解った犬の話。大将の首を取ってお姫さまをもらうとは、うらやましいことではないか。これからおれも戦があったら、雑兵の首でも拾って、お末のひとりももらおうわいのう。」

跡あとに笑わらひを樵夫きこりども、去いなう去いなうと夕間暮ゆふまぐれ、我家わがや我家わがやへ戻もどり行ゆく

あとに笑い声を残して樵夫たちは、帰ろう帰ろうと夕間暮れ、めいめいの家へ戻ってゆく。

濁世ぢよくせ煩悩ぼんなう色欲界しきよくかい誰たれか五塵ごぢんの火宅くわたくを脱のがれて、祇園精舎ぎをんしやうじやの鐘かねの声こゑ諸行無常しよぎやうむじやうの響ひびきなれ、さらぬだに秋あきは寂さびしきものなるに、人跡じんせき絶たえし富山とやまの奥おく麓ふもとに埋うづむ落葉おちばには、盛者必衰じやうしやひつすゐの理ことわりを示しめし、谺こだまに響ひびく瀧津瀬たきつせと山又山やままたやまの松風まつかぜを、寐覚ねざめの友ともと身一みひとつに、悟さとりすまして里見さとみ伏姫ふせひめ

濁世は煩悩と色欲の世界、誰が五塵の火宅を逃れられよう。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きである。そうでなくても秋は寂しいものなのに、人跡の絶えた富山の奥、麓に埋もれる落葉は盛者必衰の理を示し、谺に響く滝つ瀬と山また山の松風を寝覚めの友に、ただ身ひとつで悟りすました里見伏姫。

苔こけの筵むしろに坐ざを占しめて、唱となふる経きやうも黄鳥うぐひすの、春はる去さり来くれば八重霞やへがすみ、花はなは遠目とほめに見みゆれども、雲くもには近ちかき山桜やまざくら弥生やよひは里さとの雛遊ひなあそび、女夫めをと双居ならびゐて今朝けさぞつむ、名なもなつかしき母子草ははこぐさ、誰たれが搗初つきそめし三みヶの日ひの、餅もちにあらむ菱形ひしがたの、腰懸石こしかけいしも肌はだふれて、やゝ暖あたたき苔衣こけごろも脱替ぬぎかへねども夏なつの夜よの袂たもと涼すずしき谷風たにかぜに、梳くしけづらして夕立ゆふだちの、雨あめにあらふて干ほす髪かみの、蓬よもぎが下したに鳴なく虫むしの、秋あきとしなれば色々いろいろに、岩間いはまの紅葉もみぢ織おり映うつし、錦にしきの床とこの仮初かりそめの、宿やどとしらでや鹿しかぞ鳴なく、水沢みづさはの時雨しぐれ晴間はれまなき、果はてはそことも白雪しらゆきの、はだにやれたる振袖ふりそでを、かゝげて室むろを立出たちいで給たまひ

苔の筵に座を占めて唱える経も、鶯の声とともに。春が去り来れば八重霞、花は遠目に見えるけれど、雲には近い山桜。弥生は里の雛遊び、夫婦むつまじく並んで今朝摘む、名もなつかしい母子草。誰が搗き初めた三が日の餅かと思う菱形の腰掛石も、肌に触れてやや暖かい。苔の衣は脱ぎ替えないが、夏の夜は袂も涼しい谷風に髪を梳かせ、夕立の雨に洗って干す。蓬の下に鳴く虫の、秋ともなれば色々に岩間の紅葉が織り映えて、錦の床のかりそめの宿とも知らずに鹿が鳴く。水沢の時雨は晴れ間なく、果てはそこかしこも白雪。肌に破れた振袖をかかげて、岩屋を立ち出でなされ。

棄恩入無為きおんにふむゐ報恩者はうおんしやと御仏みほとけは説とかせ給たまふ、恩愛おんあい別離べつりの悲かなしみも、皆みな父上ちちうへの御為おんためなるに、なつかしと思おもひ奉たてまつるは、罪深つみふかき事ことぞかし、三世さんぜの諸仏しよぶつ免ゆるさせ給たまへいざや

「恩を棄てて無為に入るは報恩の者と御仏は説きなされた。恩愛別離の悲しみも、みな父上の御為であるのに、なつかしいと思い申すのは罪深いことぞ。三世の諸仏、お許しくだされ。いざ。」

花はなを奉たてまつらん、おゝさうぢや

「花をお供えしよう。おお、そうじゃ。」

手許てもとやさしく閼伽手桶あかておけ御法みのりも菊きくの露雫つゆしづく、流ながれの音おとも山彦やまびこの、夫それかあらぬか風かぜならで、遥はるかに聞きこゆる笛ふえの音ねに、伏姫ふせひめ耳みみを傾かたむけ給たまひ

手もとやさしく閼伽の手桶、御法も菊の露しずく。流れの音も山彦の——それかあらぬか、風ではなく、遥かに聞こえる笛の音に、伏姫は耳を傾けなされ。

思おもひ寄よらざるあの笛ふえの音ね、妾わらはが山やまへ入いりしより、昨日きのふ迄までも今日けふ迄までも、狩かりする男をとこ薪たきぎ樵こる、賤しづも通かよはぬこの深山みやま、珍めづらしいアノ音色ねいろ、草刈童くさかりわらべの迷まよひ入いりしか、但ただしは狐狸こりか山鬼さんきか、障碍しやうげをなして自みづからが、道心だうしんを挫くじかん為ためか、何なににもせよ心こころならざるすさみぢやなナ

「思いも寄らないあの笛の音。わたくしが山へ入ってから、昨日まで今日まで、狩する男も薪を樵る賤も通わないこの深山に、珍しいあの音色。草刈りの童が迷い込んだのか、それとも狐狸か山鬼が障碍をなして、わたくしの道心をくじこうとするのか。何にせよ、心得ぬすさびじゃなあ。」

と見みやり給たまへば向むかふより、まだ振分ふりわけのおどろ髪がみ、年としはやうやう六むつ七ななつ、七巡ななめぐりして坂道さかみちを牛うしにゆられて来きたりける、姫君ひめぎみ暫しばしと呼止よびとめ

と見やりなされば、向こうから、まだ振分け髪のおどろ髪、年はようやく六つ七つの童が、七巡りして坂道を牛にゆられて来た。姫君はしばしと呼び止め。

ノウノウ童わらべ人ひとも通かよはぬ此この深山みやまへ登のぼりしは心得こころえず、そなたは何いづれの里さとの子こぞ、聞きかま欲ほしやと宣のたまへば

「のうのう童、人も通わぬこの深山へ登って来たのは合点がゆかぬ。そなたはどこの里の子ぞ。聞きたいものよ」とのたまえば。

ヲヽわしは牛馬うしうまのために草くさ刈かるものではない、お師匠様ししやうさまに使つかはるゝもの今日けふ此この山やまへ薬くすりを採とりに登のぼりました

「おお、わしは牛や馬のために草を刈る者ではない。お師匠さまに使われる者で、今日この山へ薬を採りに登りました。」

ムヽ薬くすりをとりにといやるからは、そなたの師匠ししやうはお医者いしやよな、シテその住居すまゐは

「むう、薬を採りにと言うからは、そなたの師匠はお医者よな。して、その住まいは。」

ヲヽ此この山やまの麓ふもとに住すみ、又またある時ときは洲先すさきにあり、常つねには人ひとの病やまひを治ぢし、又またある時ときは箸はしをとり、人ひとの吉凶きつきよう禍福くわふくを占うらなひ、或あるひは雨乞あまごひ日和ひよりの加持かぢ、天地てんちの間あひだにありとあらゆること、知しらざることはましまさずと、いと賢さかしげに語かたりける

「おお、この山の麓に住み、またある時は洲崎にあり、常には人の病を治し、またある時は筮をとって人の吉凶禍福を占い、あるいは雨乞い日和の加持——天地の間にありとあらゆること、知らぬことはおありでない」と、いかにも賢しげに語った。

ムヽそんならそなたも病やまひの道みちは聞ききつらん、自みづからはさいつ頃ころより夜よに日ひに増まして胸むねくるしく、次第しだい次第しだいに身みの重おもきは奈何いかなる病やまひぞ、治ぢする薬くすりもあるならば教をしへてたもと宣のたまへば

「むう、それならそなたも病の道は聞いていよう。わたくしはこのごろから夜に日に増して胸苦しく、しだいしだいに身が重くなるのはいかなる病ぞ。治す薬もあるならば教えてたも」とのたまえば。

ヲヽ夫それこそはつはりのしるし又また目めの下したに青潤せいじゆんとて、青あをき色いろの見みえたるは、胎内たいないに子こを孕はらみ、産月うみづきも近ちかづきしと、云いふに伏姫ふせひめ打笑うちわらひ

「おお、それこそつわりのしるし。また目の下に青潤といって青い色が見えるのは、胎内に子をはらみ、産み月も近づいたのだ」と言うので、伏姫はお笑いになり。

ヲヽアノ子ことしたことが、流石さすがは年としゆかざるしるし、訳わけを咄はなして聞きかすべし、此方こなたへ来こよと

「おお、あの子としたことが。さすがは年のゆかぬしるし。訳を話して聞かせよう。こちらへ来よ」と。

招まねぎ給たまへば嬉うれしげに、牛うしの背せより飛下とびおりて、お傍そば近ちかく歩あゆみ寄よる、伏姫君ふせひめぎみは閼伽桶あかをけの、菊きくの一枝ひとえだ手てに取とり給たまひ

招きなされば嬉しげに牛の背から飛び下りて、お傍近く歩み寄る。伏姫君は閼伽桶の菊の一枝を手にお取りになり。

コレ此この花はな欲ほしうはないかや

「これ、この花は欲しくないかや。」

ヲヽ下くだされやと

「おお、くだされや」と。

もつれかゝるも愛あいらしく、右みぎよ左ひだりよ戯たはむれて、与あたへ給たまへば手てに持もちて

もつれかかるのも愛らしく、右よ左よと戯れて、お与えなされば手に持って。

これ御覧ごらんぜよ此この花はなの、誰たれ育そだてねど秋毎あきごとに己おのれと咲さくも雨露あめつゆの、恵めぐみを受うけし千代見草ちよみぐさ

「これご覧なされ、この花の。誰が育てるでもなく秋ごとにおのずから咲くのも、雨露の恵みを受けた千代見草。」

齢草よはひぐさともさまざまに、異名いみやうも多おほき黄金草こがねぐさ、姿すがたやさしき乙女草をとめぐさ、いざ白菊しらぎくの御身おんみにも、子こを宿やどさぬとは言難いひがたし、といへば姫君ひめぎみ微笑ほほゑみて、いやとよ夫それは僻事ひがごとよ、夫をつととてもなき独身ひとりみに、嬰兒みどりごを産うむべきやうはなし

「齢草ともさまざまに異名の多い黄金草、姿やさしい乙女草。いざ、白菊のような御身にも、子を宿さぬとは言い難い」と言えば、姫君は微笑んで、「いやとよ、それはひが事よ。夫とてもない独り身に、嬰児を産めるはずはない。」

夫をつとなしとは言難いひがたし、親おやの許ゆるせし八房やつふさの、犬いぬは即すなはち夫をつとなり、といふに姫君ひめぎみ姿すがたを改あらため

「夫がないとは言い難い。親の許した八房の犬は、すなわち夫である」と言うので、姫君は姿を改め。

そなたはその初はじめをしつて其後そのあとを知しらぬなり、御経おんきやうの功力くりきにて幸さいはひ身みは汚けがされず、何なにぞ悲類ひるゐの八房やつふさに我身わがみは清きよし潔いさぎよし、神かみこそ知しらせ給たまひなん、といへば童子どうじは打笑うちわらひ、姫君ひめぎみこそ一いちを知しつて二にを知しらぬといふものなり、交まじはらぬとて孕はらまんや、鶴つるは千歳せんざいにして尾をらず、相見あひみて孕はらみ子こを産うめり、昔むかし唐土もろこし楚王そわうの妃きさき、常つねに鉄金てつきんの柱はしらを抱いだく、終つひに鉄金てつきんの丸まるかせを産うめり、則すなはち干将莫耶かんしやうばくやの剣つるぎこれなり、慥たしかなことを語かたるべし、お前まへは当国たうごく里見さとみの息女そくぢよ、悪霊あくりやう付つきし八房やつふさに、見入みいられしも定さだまる因果いんぐわ、身みは汚けがされねど恋慕こひしたふ、一念いちねん凝こつて胎内たいないに、自然しぜんと宿やどる子こは八やつッ子ご、されど身みに添そふ水晶すゐしやうの、珠数じゆずの徳とくと法華経ほけきやうの功力くりきによつて、末終すゑつひに里見さとみの家いへの忠臣ちゆうしんと、生うまれ変かはるも方便力はうべんりき、かまへて疑うたがひ給たまふなよ、さらばさらばと牛うしの背せに乗のるよと見みえしが霧霞きりかすみ、コレのう待まつてと伏姫ふせひめが、すがるとすれば朦朧もうろうと、姿すがたは失うせて忽たちまちに、掻消かきけす如ごとくなりにけり、はつとばかりに伏姫ふせひめは、泣崩なきくづおれて居ゐたりしが、やうやうに顔かほをあげ

「そなたはその初めを知って、そのあとを知らぬのだ。お経の功力で幸い身は汚されず、なんで卑しい八房などに。わが身は清く潔白、神こそご存じであろう」と言えば、童子は笑って、「姫君こそ一を知って二を知らぬというもの。交わらぬからとて孕まぬものか。鶴は千年、つるまずとも相見て孕んで子を産む。昔、唐土の楚王の妃は常に鉄金の柱を抱き、ついに鉄金の丸がねを産んだ。すなわち干将莫耶の剣がこれである。確かなことを語ろう。お前は当国里見の息女、悪霊の付いた八房に見入られたのも定まる因果。身は汚されないが、恋い慕う一念が凝って胎内に自然と宿る子は八つ子。されど身に添う水晶の数珠の徳と法華経の功力によって、末ついに里見の家の忠臣と生まれ変わるのも方便の力。決して疑いなさるなよ。さらばさらば」と牛の背に乗るよと見えたが、霧霞。「これのう、待って」と伏姫がすがろうとすれば朦朧と、姿は失せてたちまち掻き消すようになった。はっとばかりに伏姫は泣き崩れていたが、ようように顔をあげ。

さては年頃としごろ信心しんじんなす、洲先すさきの行者ぎやうじやの仮初かりそめに、童子どうじと現あらはれ伏姫ふせひめに、因果いんぐわを諭さとし告つげ給たまふか、さはさり乍ながら情なさけなや

「さては年ごろ信心する洲崎の行者が、かりそめに童子と現れて、伏姫に因果を諭し告げなされたか。さはさりながら、情けなや。」

我身わがみを慕したふ八房やつふさが、其その執心しふしんの身みに宿やどり、懐胎くわいたいせしか浅あさましや、取とりも直なほさず畜生道ちくしやうだう、ノウいまはしやコハ何なにとせうどうせうとわつと許ばかりにどうと伏ふし、流涕りうていこれが泣なき給たまふ、やうやう涙なみだを拭ぬぐひ

「わが身を慕う八房の、その執心が身に宿って懐胎したのか。浅ましや。取りも直さず畜生道。のう、忌まわしや。これはどうしよう、どうしよう」と、わっとばかりにどうと伏し、涙を流してお泣きになる。ようよう涙をぬぐい。

アヽ歎なげくまい恨うらむまい、迚とても畜生ちくしやう三界さんがいの、胤たねを宿やどせしこの身みの業ごふ、若もしも月つき満みち犬いぬの子こを産うまば此この身みの恥はぢ、女をんな乍ながらも義実よしざねが娘むすめ、憎にくしと思おもふ八房やつふさを、守まもり刀がたなにさし殺ころし、自みづから迚とても谷川たにがはの、水みづの泡あわとも消きえ果はてん、今日けふを限かぎりの露つゆの身みも、せめて未来みらいは仏果ぶつくわの種たね、ヲヽさうぢや

「ああ、嘆くまい恨むまい。とても畜生三界の胤を宿したこの身の業。もしも月が満ちて犬の子を産むならこの身の恥。女ながらも義実が娘。憎いと思う八房を守り刀で刺し殺し、わたくしとても谷川の水の泡と消え果てよう。今日を限りの露の身も、せめて未来は仏果の種。おお、そうじゃ。」

法のりの手向たむけの閼伽あかの水みづ、汲くまんと岸きしに静々しづしづと、立寄たちより給たまふに水みづの面おも、見みれば不思議ふしぎや我わが面影おもかげ、映うつるは正まさしく犬いぬの顔かほ、若もし八房やつふさが来きたりしかと見みれども影かげも波なみの音おと、念珠ねんじゆ頂いただきさしうつす、顔かほは変かはらぬ我わが面影おもかげ

法の手向けの閼伽の水を汲もうと、岸に静々と立ち寄りなされば、水の面——見れば不思議や、わが面影の映るのはまさしく犬の顔。もしや八房が来たのかと見ても、影もなくただ波の音。念珠をいただいて映し直せば、顔は変わらぬわが面影。

ハテ不思議ふしぎや初はじめの姿すがたは犬いぬの形かたち、今いままた念珠ねんじゆをこの如ごとく、かざして映うつせば我わが面影おもかげ、心こころの迷まよひか空目そらめかと、合点がてん行ゆかねば数珠じゆず押隠おしかくし、映うつせばまたも恐おそろしき、犬いぬの姿すがたにぞつとして、数珠じゆずをかざせば我わが面影おもかげ、かくれば犬いぬの顔かほ形かたち、わつと許ばかりに声こゑ立たて、狂気きやうきの如ごとく立たつ居ゐつ

「はて不思議や、初めの姿は犬の形。いままた念珠をこのようにかざして映せばわが面影。心の迷いか見間違いか」と合点がゆかず、数珠を押し隠して映せばまたも恐ろしい犬の姿にぞっとして、数珠をかざせばわが面影、隠せば犬の顔かたち。わっとばかりに声を立て、狂気のように立ったり居たり。

彼方あなたへうろうろ此方こなたへ倒たふれ、前後ぜんご正体しやうたい泣崩なきくづ折をれ、あやめも分わかず歎なげきしが、果はてしなければ泣なく泣なくも、登のぼる山路やまぢは剣つるぎにて、削けづる思おもひにやうやうと、岩屋いはやの内うちの苔筵こけむしろ、木この葉はの上うへに坐ざを占しめて、涙なみだにいとど露つゆ深ふかき、今いまは此世このよの秋あきの霜しも、消きゆる間近まぢかき玉たまの緒をと、心細こころぼそくも念誦ねんじゆある、いとゞ哀あはれを添そへんとや、妻つま恋こふ鹿しかの声こゑ澄すみて、谺こだまに響ひびく山彦やまびこの、風かぜもの凄すごく更ふけ渡わたる

あちらへうろうろ、こちらへ倒れ、前後も正体もなく泣き崩れ、わけも分からず嘆いたが、きりがないので泣く泣くも、登る山路は剣で削る思い。ようように岩屋の内の苔筵、木の葉の上に座を占めて、涙にいとど露深く、いまはこの世の秋の霜、消える間近い命の玉の緒と、心細くも念誦なさる。いっそう哀れを添えようとするのか、妻恋う鹿の声が澄んで、谺に響く山彦に、風もものすごく夜は更け渡る。

更ふけ渡わたり冴行さえゆく月つきもいとゞなほ、最早もはや此世このよの名残なごりの勤つとめ、急いそがんものと御経おんきやうの、紐ひもをとくとく繰返くりかへし、第五だいごの巻まきの提婆品だいばぼん、仏ほとけの誓ちかひ違たがはずば、女人によにん成仏じやうぶつなさしめ給たまへと押戴おしいただきて高たからかに、御声みこゑ清きよく読誦どくじゆある、経きやうの功力くりきと妙音めうおんの声こゑに感かんじて八房やつふさが聞居ききゐる所ところを

更け渡り冴えゆく月もいよいよなお。もはやこの世の名残の勤めを急ごうと、お経の紐を解いては繰り返し、第五の巻の提婆品——仏の誓いが違わぬなら女人成仏をなさしめ給えと押しいただいて、高らかに御声清く読誦なさる。経の功力と妙なる声に感じて、八房が聞き入っているところを。

彼処かしこより太腹ふとばらどうと打抜うちぬく筒音つつおと、余あまれる玉たまに姫君ひめぎみも、肩先かたさき打うたれ伏ふし給たまふ

彼方から太腹をどうと打ち抜く筒音。それた弾に姫君も肩先を撃たれてお伏しになる。

向むかふの森もりの茂しげみより、現あらはれ出いでたる金鞠大助かなまりだいすけ、折をりしも雲間くもまに入月いりづきの、火縄ひなは打振うちふり探さぐり寄よる

向こうの森の茂みから現れ出た金鞠大助。折しも月は雲間に入り、火縄を打ち振り、手探りで寄って来る。

此方こなたの藪やぶより義実よしざね公こう、狩装束かりしやうぞく弓杖ゆんづゑつき、探さぐり探さぐりて手てにあたる鉄砲てつぱうをむづと取とり、互たがひに引ひきあふ途端とたんと途端とたん、遥はるか彼方かなたへ投退なげのけたり、又また立寄たちよつて弓ゆみに手てを、懸かけて引ひきあふ其その折をりから、雲間くもまを出いづる月影つきかげに、互たがひに顔かほを見合みあはせて

こちらの藪からは義実公が狩装束で弓杖をつき、手探りのうちに手に当たる鉄砲をむずと取り、互いに引き合った途端、遥か彼方へ投げのけた。また立ち寄って弓に手を掛け引き合うその折から、雲間を出る月影に、互いに顔を見合わせて。

御主君ごしゆくんにてわたらせ給たまふか

「御主君でいらせられますか。」

左さ言いふは金鞠大助かなまりだいすけか、これはいかに

「そう言うのは金鞠大助か。これはいかに。」

コリヤどうぢやと、呆あきれて言葉ことばもなかりけり、大助だいすけは遥はるかにすさり

「こりゃどうじゃ」と、呆れて言葉もない。大助は遥かにさがり。

御使おつかひを仕損しそんじたる私わたくしなれば、一ひとつの功こうを立たてたる上うへ、御詫おわびと存ぞんぜし所ところ、噂うはさに聞ききたる富山とやまの有様ありさま、かの畜生ちくしやうを打殺うちころし、姫君ひめぎみの御供おんともして、再ふたたび帰参きさんと此この山やまへ、忍しのびて夜毎よごと登のぼりしかど、八房やつふさに出合であはず、扨さては畜生ちくしやう山やまをかへしか、姫君ひめぎみを取返とりかへさずば何なにを手柄てがらに金鞠かなまりが、頼たのみの鎖くさりも切きれ果はて、腹はら切きらんと幾度いくたびか、柄つかに手ては懸かけたれども、功こうもなさで相果あひはてなば、愈々いよいよ不忠ふちゆうの名なはのかれずと、洲先すさきの行者ぎやうじやへ祈誓きせいをかけ、此所ここへ来きたり見みれば、姫君ひめぎみには御経おんきやうを高たからかに読よみ給たまふ御傍おんそばにはかの畜生ちくしやう、憎にくさも憎にくしと覗ねらひを定さだめ二ふたッ玉だまにて打留うちとめたり、姫君ひめぎみはいづくにおはす、伏姫ふせひめさま姫君ひめぎみさまと、呼よべど答こたへは山彦やまびこの、谺こだまに響ひびく水みづの音おと、是これは不思議ふしぎと両人りやうにんが、さがす岩屋いはやの傍かたはらには、八房やつふさが斃たふれし死骸しがい、内うちとすかせばこはいかに、打伏うちふし給たまふ伏君ふせぎみの、姿すがたに驚おどろく大助だいすけが、胸むねは早鐘はやがね気きは狂乱きやうらん、チエヽ口惜くちをしやな、畜生奴ちくしやうめを打放うちはなしたる鉄砲てつぱうに、手強てづよく仕込しこみし玉薬たまぐすり、余あまり強つよくし姫君ひめぎみに、手てを負おはせしか残念ざんねんやと、余あまりの事ことに茫然ばうぜんと、呆あきれ果はてたる計ばかりなり

「お使いを仕損じた私ゆえ、ひとつの功を立てた上でお詫びをと存じたところ、噂に聞いた富山の有様。あの畜生を撃ち殺し、姫君のお供をして再び帰参をと、この山へ忍んで夜ごと登りましたが八房に出会わず。さては畜生、山を移ったか。姫君を取り返さずば何を手柄に——金鞠の頼みの鎖も切れ果て、腹を切ろうと幾度か柄に手をかけましたが、功も立てずに果てればいよいよ不忠の名は逃れられぬと、洲崎の行者へ祈誓をかけ、ここへ来てみれば、姫君は御経を高らかにお読みなさる、お傍にはあの畜生。憎さも憎しと狙いを定め、二つ玉で撃ち留めました。姫君はどこにおいでです。伏姫さま、姫君さま」と呼べど、答えは山彦、谺に響く水の音。これは不思議と二人が探す岩屋のかたわらには八房の斃れた亡骸。内を透かせば——これはいかに、打ち伏しなさる伏姫の姿。驚く大助の胸は早鐘、気は狂乱。「ちえ、口惜しやな。畜生めを撃ち放した鉄砲に、強く仕込んだ玉薬が強すぎて、姫君に手を負わせたか。残念や」と、あまりのことに茫然と、呆れ果てるばかりである。

義実よしざね公こうは立たちより給たまひ、急所きふしよはよけて擦かすり疵きず、それと用意よういの印籠いんろうを、差出さしだし給たまへば、大助だいすけは伏姫ふせひめを抱起だきおこし、気付きつけを含ふくませ耳みみに口くち、伏姫ふせひめさま姫君ひめぎみさまいのうと、声こゑを限かぎりに呼生よびいくれば

義実公は立ち寄りなされ、「急所はよけて擦り疵」と、用意の印籠を差し出しなされば、大助は伏姫を抱き起こし、気付け薬を含ませて耳に口を寄せ、「伏姫さま、姫君さま、いのう」と、声を限りに呼び返せば。

息いきふきかへし目めを開ひらき、ムヽ

息を吹き返して目を開き、「むう。」

ヲヽ気きが付つきたるか

「おお、気がついたか。」

御気おきが付つきましたか

「お気がつかれましたか。」

アヽヽヽヽ父上様ちちうへさまか、そなたは大助だいすけ

「ああ——父上さまか。そなたは大助。」

姫君様ひめぎみさまお手ては浅あさい、御心おこころ確たしかにお持もちあそばせ、大切たいせつの御身おんみの上うへ、憎にくき畜生ちくしやう二ふたつには、功こうを立たてんと二ふたッ玉だまにて打うちたれど、玉たまが余あまりて勿体もつたいなや、姫君ひめぎみまでも、あやまちし、此この身みの罪つみのいかにせん、科とがに科とがを重かさねし某それがし、せめて冥土めいどで申訳まうしわけと、刀かたなの柄つかに手てをかくれば

「姫君さま、お手傷は浅うございます。お心確かにお持ちあそばせ。大切のお身の上——憎い畜生を討ち、二つには功を立てようと二つ玉で撃ちましたが、玉がそれて勿体なや、姫君にまで過ちを。この身の罪をどうしよう。科に科を重ねたそれがし、せめて冥土で申し訳を」と、刀の柄に手をかければ。

ヤレ待まて大助だいすけ早はやまるな、某それがしがいふ事ことありと押止おしとどめ、如何いかに両人りやうにん慥たしかに聞きけ、戯たはむれの一言ひとことにてかゝる返事へんじを引出ひきいだせしも身みがあやまり、悔くやんで返かへらぬ因果いんぐわの理屈りくつ、思おもひ出いだせば一昔ひとむかし、大助だいすけが父ちち金鞠八郎かなまりはちらう、大功たいこうを立たてながら恩おんをしやして忠死ちゆうしの折柄をりから、孤子みなしごの大助だいすけをもり立たて、伏姫ふせひめに娶合めあはせんと心こころの約束やくそく、年月としつきは立たちたれども、戦国せんごくの習ならひにて婚姻こんいんの暇いとまなく、其儘そのままに打捨うちすてたり、誰たれ知しらねども我わが心こころに、許ゆるせし聟むこは大助だいすけなり、八房やつふさを打うちたる玉たまの余あまりて姫ひめが手疵てきずも理屈りくつ、女敵討めがたきうちしも同おなじ事ことと

「やれ待て大助、早まるな。それがしに言うことがある」と押しとどめ、「いかに両人、確かに聞け。戯れの一言でかかる返事を引き出したのも身の誤り。悔やんで返らぬ因果の理屈。思い出せばひと昔、大助の父金鞠八郎は大功を立てながら、恩に浴さず忠死した折から、孤児の大助をもり立てて伏姫に娶わせようと心に約束した。年月は経ったが戦国の習いで婚姻の暇なく、そのままに打ち捨てていた。誰も知らぬがわが心に許した聟は大助である。八房を撃った玉がそれて姫が手疵を負ったのも理屈、女敵を討ったのも同じこと」と。

言いふより早はやく伏姫ふせひめは、用意よういの懐剣くわいけん抜ぬく手ても見みせず我わが腹はらへ、柄つかも透とほれと突つき立たてる

言うより早く伏姫は、用意の懐剣を抜く手も見せずわが腹へ、柄も通れと突き立てる。

是これはと斗ばかり義実よしざね公こう、大助だいすけも走はしり寄より、姫ひめが脇腹わきばらしつかと押おさへ、コリヤ何故なにゆゑの御生害ごしやうがい、狂気きやうきばし召めされしか、但ただしは拙者せつしやへ面当つらあてか、チエヽ情なさけなき御自害ごじがいと、抱いだきいたはる介抱かいはうに、姫ひめは苦くるしき息いきをつき

「これは」とばかり義実公、大助も走り寄り、姫の脇腹をしっかと押さえ、「こりゃ何ゆえのご生害。ご乱心なされたか、それとも拙者への面当てか。ちえ、情けないご自害」と抱きいたわる介抱に、姫は苦しい息をつき。

父上ちちうへの御咄おんはなしにて、初はじめて聞ききたる我わが身みの上うへ、死しねばならぬ因果いんぐわの道理だうり、父上ちちうへさま大助だいすけどの、一通ひととほりお聞ききなされて下くださりませ、父ちちの一言ひとこと反古ほごにせじと八房やつふさに伴ともなはれ、此この山やまへ入いりしより、法華経ほけきやう読誦どくじゆに他念たねんなく、今日けふまで肌身はだみは汚けがされねども、何時いつしかたゞならぬ身みとなつて、いかなる病やまひと訝いぶかるうち、最前さいぜん奇あやしき草刈童くさかりわらべ、未前みぜんを示しめす不思議ふしぎの言葉ことば、胎内たいないに犬いぬの精気せいき、自然しぜんとやどるも定さだまる業ごふと、説示ときしめして掻消かきけす如ごとく姿すがたの失うせしは、疑うたがひなき洲先すさきの行者ぎやうじやの御告おつげと思おもへば、おめおめ生いきて居ゐて犬いぬの子こを産うむならば、我わが身みばかりか父上ちちうへまで、末代まつだいまでの御恥辱ごちじよく、二ふたつには大助だいすけどの、父ちちの心こころに我わが夫つまと、定さだめし人ひとへ申訳まうしわけ、夫故それゆゑ覚悟かくごの此この自害じがいと、語かたる、内うちにも湧わき出いづる、血汐ちしほの瀧たきの四苦八苦しくはつく、涙なみだは袖そでに淵ふちなして、見みる目めもいとど哀あはれなり

「父上のお話で初めて聞いたわが身の上。死なねばならぬ因果の道理を、父上さま、大助どの、ひととおりお聞きなされてくださりませ。父の一言を反古にすまいと八房に伴われてこの山へ入ってから、法華経読誦に他念なく、今日まで肌身は汚されておりませぬが、いつしかただならぬ身となって、いかなる病かといぶかるうち、さきほどの怪しい草刈り童が、まだ来ぬ先のことを示す不思議な言葉——胎内に犬の精気が自然と宿るのも定まる業と説き示して、掻き消すように姿の失せたのは、疑いもなく洲崎の行者のお告げと思えば、おめおめ生きて犬の子を産むなら、わが身ばかりか父上まで末代までのご恥辱。二つには大助どの、父の心にわが夫と定めた人への申し訳。それゆえ覚悟のこの自害」と語る、そのうちにも湧き出る血汐の滝の四苦八苦。涙は袖に淵をなして、見る目もいっそう哀れである。

義実よしざね公こうは涙なみだを払はらひ、ハヽ孝貞かうてい義女ぎぢよとも言いひつべし、国くにの為ため家いへの為ため、親おやの為ために其その身みを捨すてて深山みやまに入いり乍ながら、畜生ちくしやうに汚けがされず一念いちねん腹はらに宿やどりしを恥はぢ、大助だいすけへの言訳いひわけ切腹せつぷくとは出でかされたり、是これ皆みな玉梓たまづさが悪霊あくりやうなりと、夢ゆめの告つげにて委くはしく知しる、その証拠しようこには水晶すゐしやうの数珠じゆず、最期さいごの際きはには元もとの文字もじにかへるべしと、仏ほとけの告つげの其その念珠ねんじゆ、大助だいすけ是これへとのたまへば

義実公は涙を払い、「はは、孝貞の義女とも言うべきである。国のため家のため、親のためにその身を捨てて深山に入りながら、畜生に汚されず、一念が腹に宿ったのを恥じ、大助への言い訳に切腹とは出かされた。これはみな玉梓の悪霊であると、夢のお告げで詳しく知った。その証拠には水晶の数珠が、最期の際には元の文字に返るはずと、仏のお告げのその念珠。大助、これへ」とのたまえば。

ハツト答こたへて伏姫ふせひめが、首くびにかけたる水晶すゐしやうの、念珠ねんじゆを取とりて奉たてまつる

「はっ」と答えて、伏姫が首にかけた水晶の念珠を取って奉る。

義実よしざね公こうはつくづくと、月つきにかざしてとつくと眺ながめ、さてこそさてこそ、如是畜生によぜちくしやうの文字もじは消きえて元もとの如ごとく、仁義礼智じんぎれいち孝貞忠信かうていちゆうしんの、八やつッの文字もじとなりたるは、是これぞ悪霊あくりやう解脱げだつのしるし

義実公はつくづくと月にかざしてとくと眺め、「さてこそ、さてこそ。如是畜生の文字は消えて元のごとく、仁義礼智孝貞忠信の八つの文字となったのは、これぞ悪霊解脱のしるし。」

と聞きくに伏姫ふせひめ顔かほをあげ、斯かかる不思議ふしぎの御告おつげを、見みる上うへからは迷まよひの雲くも、晴はれ渡わたりたる心こころの涼すずしさ、此世このよに思おもひ置おくことなし、仏ほとけの告つげと物語ものがたり、胎内たいないに宿やどりし精気せいき、水晶すゐしやうの数珠じゆずの功力くりきと、法華経ほけきやうの功徳くどくによつて、八やつつの子こも里見さとみの家いへの忠臣ちゆうしんと、生うまれ変かはると聞きくからは、自みづからが一念いちねんの神かみと成なりて、八やつの玉たま八人はちにんの忠臣ちゆうしんの子胤こだねとなさん、是これ見み給たまへと痛手いたでも屈くつせず気丈きぢやうの有様ありさま、数珠じゆず押揉おしもんで声高こわだかく

と聞いて伏姫は顔をあげ、「かかる不思議のお告げを見るからは、迷いの雲も晴れ渡った心の涼しさ。この世に思い置くことはない。仏のお告げと物語、胎内に宿った精気は、水晶の数珠の功力と法華経の功徳によって、八つの子も里見の家の忠臣と生まれ変わると聞くからは、わたくしの一念が神となって、八つの玉を八人の忠臣の子胤としよう。これ見給え」と、痛手にも屈せぬ気丈のありさま。数珠を押し揉んで声高く。

南無神変大菩薩なむじんべんだいぼさつ、奇特きどくを茲ここに見みせ給たまへと、一心いつしん凝こらしたる祈念きねんの信力しんりき、念珠ねんじゆ持添もちそへ九寸五分くすんごぶ、きりりきりりと引廻ひきまはす、時ときに不思議ふしぎや震動しんどうなし、颯さつと吹ふき来くる風かぜ諸共もろとも、念珠ねんじゆは切きれて八やつつ玉だま、虚空こくうへ巻上まきあげ霊々れいれいと、光ひかりを放はなつて飛散とびちりたり、又またひき廻まはす疵口きずぐちより、走はしる血汐ちしほは唐紅色からくれなゐ、見みえみ見みえずみ朦朧もうろうと、影かげは八やつつの犬いぬの形かたち、同おなじく空そらへ飛去とびさりける、奇代きたいの不思議ふしぎに義実よしざね大助だいすけ、空そらうち守まもるばかりなり

「南無神変大菩薩、奇特をここに見せ給え」と、一心を凝らした祈念の信力。念珠を持ち添えた九寸五分を、きりりきりりと引き廻す。時に不思議や震動して、さっと吹き来る風もろとも、念珠は切れて八つの玉、虚空へ巻き上げ霊々と光を放って飛び散った。また引き廻す疵口から走る血汐は唐紅、見えつ隠れつ朦朧と、影は八つの犬の形、同じく空へ飛び去った。世にも稀な不思議に、義実も大助も空を見守るばかりである。

大助だいすけは涙なみだを払はらひ、某それがしは武道ぶだうをすて、功こうを立たてざる犬武士いぬざむらひ、犬いぬといふ字じを二ふたつに分わけ、丶大ちゆだいと直すぐに名乗なのるべしと、髻もとどりふつと切払きりはらひ、両腰りやうごし取とつて投出なげいだし、是これより直ただちに仏ほとけの道みち、諸国しよこく修業しゆぎやうも姫君ひめぎみの、後世ごせの追善つゐぜん二ふたつには、散ちりたる玉たまを持もちたる勇士ゆうし、尋たづね探さがして二代にだいの忠臣ちゆうしん、見付出みつけいだすはこの丶大ちゆだいと

大助は涙を払い、「それがしは武道を捨てる。功を立てぬ犬武士——犬という字を二つに分け、丶大とただちに名乗ろう」と、髻をふっつと切り払い、大小を取って投げ出し、「これよりただちに仏の道。諸国修行も、ひとつには姫君の後世の追善、二つには散った玉を持つ勇士を尋ね探して、二代の忠臣を見つけ出すのはこの丶大」と。

いふに義実よしざね目めをしばたヽき、天晴あつぱれ忠臣ちゆうしん感かんじ入いる、さは去さりながら不愍ふびんの最期さいご娘むすめ伏姫ふせひめ、成仏じやうぶつせよと父ちちがいまはの一言ひとことに、伏姫ふせひめは目めをひらき、アヽ嬉うれしや本望ほんまうや、念願ねんぐわん成就じやうじゆの上うへからは、一時いつときも早はやう西方浄土さいはうじやうど、父上ちちうへ様さまおさらば、大助だいすけさらばも舌強したこはがり、今いまぞこの身みの知死期時ちしごどき、南無阿弥陀仏なむあみだぶつと丶大坊ちゆだいばう、唱となふる声こゑと諸共もろともに、剣つるぎをぬけばがつくりと、散ちりて果敢はかなくなりにけり、義実よしざね公こうも恩愛おんあいの、血流ちすぢの涙なみだはらはらはら、丶大ちゆだいも共ともにため涙なみだ、一度いちどに滝たきと漲みなぎりて、水みづも増ましたる谷川たにがはに、巌いはほも流ながす許ばかりなり

と言うので義実は目をしばたたき、「あっぱれ忠臣」と感じ入る。「さはさりながら不憫の最期。娘伏姫、成仏せよ」と父の今わの一言に、伏姫は目をひらき、「ああ嬉しや本望や。念願成就の上からは、一時も早く西方浄土へ。父上さま、おさらば。大助、さらば」も舌こわばり、今ぞこの身の最期の時。南無阿弥陀仏と丶大坊の唱える声とともに、剣を抜けばがっくりと、散ってはかなくなったのであった。義実公も恩愛の血筋の涙をはらはらはら、丶大もともにため涙、一度に滝とみなぎって、水かさの増した谷川に巌も流すばかりである。

義実よしざね公こうはやうやうと、はてし涙なみだを押拭おしぬぐひ、是これより丶大ちゆだいは当国たうごくより、東八あづまはちヶ国こくを徘徊はいくわいなし、尋たづねて勇士ゆうしを求もとめよと、仰おほせに丶大ちゆだいは勇いさみ立たち、仰おほせにや及およぶべき、犬いぬの精気せいきを受うけたるは、取とりも直なほさず八犬士はちけんし、尋たづね出いだすは案あんの内うち、気遣きづかひ給たまふな我わが君きみと、矢猛心やたけごころの梓弓あづさゆみ、引ひけば引ひかるゝ後髪うしろがみ、見みれば見みにうく水晶すゐしやうの、玉たまを欺あざむく白露しらつゆに、草くさの袂たもとも白膠木ぬるでの紅葉もみぢ、産うまれぬ先さきの故郷ふるさとへ、錺かざる錦にしきの色々いろいろや、仮かりの浮世うきよの仮かりも仮かり、枕まくらに残のこる法華経ほけきやうの、功徳くどくは深ふかき八やつつの玉たま、八犬伝はつけんでんと読本よみほんに、千代ちよも伝つたへて常磐津ときはづの、節ふしに残のこるぞ勇いさましゝ

義実公はようように涙を押しぬぐい、「これより丶大は当国から東八ヶ国を徘徊して、尋ねて勇士を求めよ」との仰せに、丶大は勇み立ち、「仰せに及びましょうか。犬の精気を受けたのは取りも直さず八犬士。尋ね出すのは思いのうち。気遣いなさるなわが君」と、矢猛心の梓弓、引けば引かれる後ろ髪。見れば実に浮かぶ水晶の玉かと見まがう白露に、草の袂も白膠木の紅葉、生まれぬ先の故郷へ飾る錦の色々よ。仮の浮世の仮のまた仮、枕に残る法華経の功徳は深い八つの玉。八犬伝と読本に千代も伝えて、常磐津の節に残るぞ勇ましい。

この曲は常磐津。詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第四編 常磐津集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開し、合方の指示は省いた。

本名題は『八犬義士誉勇猛』。原典は上下二巻に分けて載せるが一曲なのでひと続きにした(上三十一段・下二十六段)。作詞者・作曲者・初演年は原典に記載がない。

曲亭馬琴の読本『南総里見八犬伝』の発端、伏姫と八房の富山の一段による。読本の伏姫は嘉吉より後の長禄・文明ごろの人だが、詞章は「嘉吉二年の春」とする。原典のまま改めていない。

終わりに伏姫が自害して果てる件がある。席によっては扱いに心を配りたい。

「御花園院」は後花園院の当て字。「倫言」は綸言(天子・主君の言葉)の当て字。いずれも原典のまま残した。

「濁世煩悩」からの一段は『平家物語』冒頭の文句を取り込み、続く四季の一段は伏姫の山住まいを春夏秋冬に配した名文として知られる。

「棄恩入無為報恩者」は出家の偈の句。恩を棄てて無為(仏道)に入ることこそ真の報恩であるとする。

「鶴は千歳にして尾らず」以下の童子の弁は、交わらずして孕む先例を挙げたもの。「干将莫耶」は呉の刀工夫婦の名剣の故事。

「如是畜生」の文字が「仁義礼智孝貞忠信」の八文字に返る水晶の数珠、八つの玉が虚空へ飛び散る件は、八犬士それぞれの玉の由来である。

「丶大」は犬の字を丶と大に分けた法号。読本では「ちゅだい」と読む。

「洲先」は洲崎(現・館山市洲崎)の当て字、役の行者を祀る岩屋があった。「富山」は南房総の山。

「はつはり」(つわり)「青潤」「かへし」(山をかへしか)など、今日と異なる言いまわしは原典のまま残した。

次の語は意味の定まらないところで、推測で埋めず原典のまま残した。「七巡りして坂道を」「恩をしやして」「見にうく水晶の」。

流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。