藤舎の紋 藤舎名玄TOSHA MEIGEN ― 詞章ライブラリーへ戻る
清元

保名やすな

清元  本名題『深山桜及兼樹振』 別題『小袖ものぐるい』  作詞者・作曲者・初演年不詳

保名 春野の形見の小袖
春野の形見の小袖

変化物『深山桜及兼樹振』の一段。別題『小袖ものぐるい』。安倍保名が、亡き恋人・榊の前の形見の小袖を身に添えて、春の野を狂いさまよう物狂いの曲である。『芦屋道満大内鑑』でおなじみの、のちに葛の葉狐を妻とする陰陽師の保名の、その前の悲しみの場にあたる。「恋よ恋、われ中空になすな恋」の古い文句で起こし、菜種の畑に翼を交わして狂う蝶をうらやみ、去年の桜時の初会からのなれそめを、うつらうつらと回想する。結びは「似た人あらば教えて」と、振袖の小袖を身に添えて、狂い乱れて伏し沈む。悲しみの曲ながら、春の野辺の明るさに包まれた、清元らしい柔らかな一曲。

あらすじ

恋よ恋、われを中空になすな恋。恋風が来ては袂にかいもつれ、思う仲をば吹き分ける、花に嵐の狂おしさ。心そぞろにどことも知らず、道行く人に言問うけれど、岩を堰く水とわが胸と、砕けて落ちる涙には、片敷く袖の片思い。姿もいつか乱れ髪、誰が取り上げて言うことも。菜種の畑に狂う蝶、翼交わしてうらやましい。野辺の陽炎、春草を、素袍袴に踏みしだき、狂い狂いて来たのである。なんじゃ、恋人がそこへ来たとは。どれどれどれ。ええ、また嘘を言うか、わけもない。あれ、あれを今宮の——来山翁の筆すさびの、土人形の色娘。高嶺の花を折ることも。泣いた顔をせず、腹を立てず、悋気もせねばおとなしゅう、あら、うつつないほどの妹背仲。主は忘れてござんしょう。しかも去年の桜時、植えて初日の初会から、逢うてののちは一日も、便りを聞かねば気も済まず、うつらうつらと夜を明かし、昼寝ぬほどに思いつめ、たまに逢う夜のうれしさに、ささ事やめて語る夜は、いつよりもつい明けやすく、往のう往なさぬ口説さえ。月夜烏にだまされて、いっそ流して居続けは、日の出るまでもそれなりに。寝ようとすれど寝られねば、寝ぬを恨みの旅の空。今夜の泊まりはどこが泊まりぞ。草を敷き寝の肱枕、肱枕。ひとり明かすぞ悲しけれ、悲しけれ。葉越しの葉越しの、まくの内。昔恋しき面影や、移り香や。その面影に露ばかり。似た人あらば教えてと、振りの小袖を身に添えて、狂い乱れて伏し沈む。

詞章と現代語訳

こひこひ、われ中空なかぞらになすなこひ

恋よ恋、われを中空になすな恋。

恋風こひかぜてはたもとにかいもつれ

恋風が来ては袂にかいもつれ。

おもなかをばふきわくる、はなあらしくるひてし、こゝろそゞろに何処いづことも、道行みちゆひと言問こととへど、岩堰いはせみづむねと、くだけておつなみだには、片敷かたしそで片思かたおも

思う仲をば吹き分ける、花に嵐の狂おしさ。心そぞろにどことも知らず、道行く人に言問うけれど、岩を堰く水とわが胸と、砕けて落ちる涙には、片敷く袖の片思い。

姿すがたもいつか乱髪みだれがみたれ取上とりあげていふことも

姿もいつか乱れ髪、誰が取り上げて言うことも。

菜種なたねはたけくるてふつばさかはしてうらやまし、野辺のべ陽炎かげろふ春草はるくさを、素袍袴すあうばかまみしだき、くるくるひてきたりける

菜種の畑に狂う蝶、翼交わしてうらやましい。野辺の陽炎、春草を、素袍袴に踏みしだき、狂い狂いて来たのである。

なんぢや、恋人こひびと其処そこへいたとは、どれどれどれ、エヽまたうそふかわけもない

なんじゃ、恋人がそこへ来たとは。どれどれどれ。ええ、また嘘を言うか、わけもない。

あれ、あれを今宮いまみや

あれ、あれを今宮の——

来山翁らいざんおうふでずさみ、土人形つちにんぎやうのいろむすめ

来山翁の筆すさびの、土人形の色娘。

高嶺たかねはなることも、いたかほせず腹立はらたてず

高嶺の花を折ることも。泣いた顔をせず、腹を立てず。

悋気りんきもせねば温順おとなしう、あら現無うつつなの〔合〕妹背中いもせなか〔合〕ぬしわすれて御座ござんせう

悋気もせねばおとなしゅう、あら、うつつないほどの妹背仲。主は忘れてござんしょう。

しかも去年こぞ桜時さくらどきえて初日しよにち初会しよくわいから、ふてののち一日いちにちも、便たよりかねばまず、うつらうつらとあか

しかも去年の桜時、植えて初日の初会から、逢うてののちは一日も、便りを聞かねば気も済まず、うつらうつらと夜を明かし。

ひるほどおもひつめ、たまにあふうれしさに〔合〕さゝごとやめてかたは、いつよりもつい明易あけやすく、のうなさぬ口説くぜつさへ

昼寝ぬほどに思いつめ、たまに逢う夜のうれしさに、ささ事やめて語る夜は、いつよりもつい明けやすく、往のう往なさぬ口説さえ。

月夜鴉つきよがらすにだまされて、いつそながして居続ゐつづけは、るまでもそれなりに

月夜烏にだまされて、いっそ流して居続けは、日の出るまでもそれなりに。

やうとすれどられねば、ぬをうらみのたびそら

寝ようとすれど寝られねば、寝ぬを恨みの旅の空。

〔二上り〕

さのとまりは何処どことまりぞ〔合〕くさ敷寐しきね肱枕ひぢまくら肱枕ひぢまくら、ひとりあかすぞかなしけれかなしけれ〔合〕葉越はごし葉越はごしの、まくのうちむかしこひしき面影おもかげ移香うつりがや、その面影おもかげつゆばかり

今夜の泊まりはどこが泊まりぞ。草を敷き寝の肱枕、肱枕。ひとり明かすぞ悲しけれ、悲しけれ。葉越しの葉越しの、まくの内。昔恋しき面影や、移り香や。その面影に露ばかり。

ひとあらばをしへてと、ふり小袖こそでへて、くるみだれて伏沈ふししづ

似た人あらば教えてと、振りの小袖を身に添えて、狂い乱れて伏し沈む。

詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第三編 清元集(明治四十二年)の校訂本文(著作権消滅)による。繰り返し記号は読みやすく展開し、合方の指示は省いた。

本名題は『深山桜及兼樹振』(みやまざくらとどかぬえだぶり)。資料の題名もこの本名題で、変化物の一段として立項されている。別題『小袖ものぐるい』。作詞者・作曲者・初演年は原典に記載がない。

安倍保名は『芦屋道満大内鑑』などに出る陰陽師。恋人の榊の前に先立たれ、その形見の小袖を抱いて心を乱す。のちに助けた白狐が女房・葛の葉となる「葛の葉子別れ」の前段の人物である。

「恋よ恋、われ中空になすな恋」は古くから歌い継がれた恋の文句。「中空」は心が宙に浮いてどっちつかずになること。

「菜種の畑に狂ふ蝶、翼交して羨し」が春の野の眼目。狂う蝶に、つがいのままの仲をうらやむ心を重ねる。

「来山翁が筆ずさみ、土人形のいろ娘」の来山は大坂今宮に住んだ俳人・小西来山と見られる。前の「あれを今宮の」から言い掛けている。

「月夜鴉」は月夜に時を間違えて鳴く烏。だまされて夜明かしする廓のことばに使われる。「居続」は廓に泊まり続けること。

当ライブラリの狂乱・物狂いの曲は、お光狂乱(常磐津)・仲蔵狂乱・狂乱情姿絵・狂乱手くだのすががき(いずれも長唄・荻江節)に続く五曲目で、清元でははじめてである。

語義の定めがたい語は推測で埋めず原典のまま残した。「葉越の葉越の、まくの内」(俗謡の文句と見られるが切り方が定めがたい)、「植えて初日の」(初日に植えるの意か、芝居の初日か)。「夜さ」は今夜の意。

流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。