主誰糸春雨ぬしやたれいとのはるさめ
常磐津 資料目次の別記「白糸主水」 作詞者・作曲者・初演年不詳

内藤新宿の遊女白糸と、鎌倉御直参の武士主水、その女房おやすの「白糸主水」ものによる世話物。前半は、頭巾で顔を隠し男姿で白糸の座敷に上がった客が、じつは主水の女房おやすと知れるところ。悋気ではなく、夫の身の上と娘の行く末を頼みに来たと打ち明ける。後半は湯帰りの主水が客の正体を知らずに怒り込むが、頭巾を脱いだ女房と白糸の真実に前非を悔い、金子を受けて別れを惜しむ。妻と遊女が心を通わせる、あわれの深い一曲。
あらすじ
白糸の昔もなつかしく、屏風の蔭の床のうち、遊女白糸は今宵の客に詫びを言う。頭巾も羽織もそのままの客の紐を解けば、現れたのは馴染み客主水の女房おやす。あられもない男姿で客と偽って上がったのは、夫の恥を思い、白糸の外聞を思ってのこと。恨みを言いに来たのではなく、頼みたいことがあってと打ちつけられ、白糸は消え入る思いで身の上を語る。吉原の振袖新造の頃、妻子があるとは露知らず主水と深い仲になり、新宿へ住み替えた今も思いは変わらないと。おやすの頼みはふたつ。夫が病気と偽って夜ごと家を空けることが頭の耳に入り、身の上が密かに調べられている。どうか意見して帰してほしいこと。そしてもうひとつは、七つになる娘お徳の行く末——養子を取って家を娘に立てさせ、夫の願いの町住まいで、いずれはお前に添わせたい、頼りない自分の真実の姉妹になってほしいと。夫思いの、武家には粋な心である。夜も更け、白糸はおやすに男姿のまま羽織を着せかける。折から湯から戻った主水は、頭巾で顔を見せぬ客の噂を聞いて怒り込み、障子を押し開けて白糸を引き出そうとする。間に立ち隔てた客が頭巾を脱げば、それは女房おやす。悋気と思われぬよう白糸に意見を頼みに来たこと、娘お徳が父を案じるませたとりなし、白糸の心の操と、置かれた金子の包み——今という今骨身に染みた主水は、二人に手をついて前非を悔いる。明日は出勤を届けると約束し、勤めの道具の心当てまでおやすと白糸が話し合ってあると知れる。かねて覚悟の白糸は主水に寄り添い、これが永い別れと名残を惜しむ。誠の心は女房のその言の葉、白糸の胸に満ちくる濁り水、果てしない涙の憂き思い、心を残して出てゆく。
詞章と現代語訳
白糸の往昔なつかしなまなかに、染てしんくの八重結、互ひに縺れ今更に、解く甲斐もなき物思ひ、あゝ何と障子さへ、明る心のしめやかに、立廻したる屏風の蔭、何気艶く床の内、面恥気に側へ寄り
白糸の昔もなつかしく、なまなかに染めた真紅の八重結び。互いにもつれて今さらに、解く甲斐もない物思い。ああ何と、障子を開ける心もしめやかに、立て廻した屏風の蔭、なにげなく艶めく床のうち、面はゆげにそばへ寄り。
モシお客さん申訳は御座りませぬ、私のやうな不束な者の所へ初会にあがらしやんして、嘸お腹も立ませうが、酒癖の悪い客さん故、やうやう寐かして参りました、必ず悪う思召さぬよう、そうしてマアお頭巾を召したなり、お羽織も其儘、ドレお寐かせ申しませう
「もし、お客さん、申し訳ございませぬ。わたしのような不束な者の所へ初会にお上がりなされて、さぞお腹も立ちましょうが、酒癖の悪いお客さんゆえ、ようよう寝かせて参りました。決して悪くお思いなさいませぬよう。——そうしてまあ、お頭巾を召したまま、お羽織もそのまま。どれ、お休ませ申しましょう。」
何の遠慮も馴々しう、紐を解く解く頭巾と共、脱すうちにも互の顔
なんの遠慮もなれなれしく、紐を解く解く頭巾とともに、脱がすうちにも互いの顔。
ヤアあなたは確主水様の
「やあ、あなたは確か、主水さまの。」
ハイ女房おやすで御座ります
「はい、女房おやすでございます。」
エエ
「ええ。」
サヽヽヽ嘸吃驚で御座んせう
「ささ、さぞびっくりでございましょう。」
あられもない此様な、姿形を男と見せ
あられもないこのような姿かたちを男と見せ。
客と偽り上りしは
客といつわって上がったのは。
夫の恥と二つには、お前の心を察しやり、定めし朋輩衆へ外聞にもならうかと
「夫の恥と、二つにはお前の心を察して、定めし朋輩衆への外聞にもなろうかと。」
彼方此方を思遣り、逢に来たのもこなさんに、怨みつらみを言うかと思はんせうが真実に
「あちらこちらを思いやって逢いに来たのも——こなさんに恨みつらみを言うかとお思いなさろうが、真実に。」
さらさらそうした訳ではなく、頼みたい事有故と
「さらさらそうした訳ではなく、頼みたいことがあるゆえ」と。
打つけられて白糸は、消も入たき風情なり
面と向かって言われて、白糸は消え入りたい風情である。
勿体ない其のお言葉、何の御用か知ね共、お心一抔有つて下さりませ、シタが言訳では御座んせぬが、一通り聞て下さるりませ、吉原に居る頃は、未だ振袖の訳知ず
「もったいないそのお言葉。何のご用かは存じませぬが、お心のままになさってくださりませ。したが、言い訳ではございませぬが、ひととおり聞いてくださりませ。吉原にいる頃は、まだ振袖の、世間の訳も知らず。」
派手な一座の其中で、つい岡惚の浮気から、人の客衆に忍び合、末はどうした主水さん
派手な一座のその中で、つい岡惚れの浮気から、人の客衆と忍び逢い、末はどうした主水さん。
搦んだ縁の橋本へ、住替に出る夫迄は、妻子あるとは露知ず
からんだ縁の橋本へ住み替えに出る、それまでは妻子があるとは露知らず。
深く鳴子の野暮らしい、腕に二世と堀の内、苦界の中の楽しみも
深く鳴子の野暮らしくも、腕に二世と彫りの内。苦界の中の楽しみも。
今は堰れて逢事も、たま玉川の流れの身、堪忍してと許りにて、あとは涙に声うるむ
「いまは堰かれて逢うことも、たまの玉川の流れの身。堪忍して」とばかり、あとは涙に声うるむ。
サア其勤の中にも真実を尽して、呼んで下さるお前の心底、風の便りに聞度毎、喜びこそすれ恨んだ事は御座んせぬ、其誠あるお前故、打明て頼みといふは他でもない去年の冬より病気にて、勤も引て一夜さも、内へ寐ぬ事お頭へ、誰言となく悪様に、申上げたる故にこそ、主水が身の上を密々に、お調べあるとお仲間より、私へ沙汰して呉た故、夫に言へど上の空、押返して言ふにも、片時家へ帰らねば
「さあ、その勤めの中にも真実を尽くして呼んでくださるお前の心底、風の便りに聞くたびごとに、喜びこそすれ恨んだことはございませぬ。その誠のあるお前ゆえ、打ち明けて頼みというのはほかでもない。去年の冬から病気と称して勤めも引き、一夜も家へ寝ぬことを、お頭へ誰言うとなく悪しざまに申し上げた者があるゆえ、主水の身の上を密々にお調べがあると、お仲間からわたしへ知らせてくれました。夫に言っても上の空、押し返して言おうにも、片時も家へ帰らないので。」
取付島も渚漕ぐ、たゞよの事に此里へ、来ても客には表向き、逢れぬ身ぢやと聞た故
取り付く島もなく、渚を漕ぐようにただようばかり。この里へ来ても、客としてでなければ表向きは逢えない身じゃと聞いたゆえ。
どうか首尾して金調へ、肩身を広うした上で、お前に逢て此事を、言て貰うと思へ共、今に都合も出来ぬ故
「どうか首尾よく金を調え、肩身を広くした上でお前に逢ってこのことを言ってもらおうと思ったけれど、いまだに都合もつかないゆえ。」
是非なく是非なくも恥を捨て、頼みと言は是一つ
是非なく是非なくも恥を捨てて、頼みと言うはこれひとつ。
又二つにはお徳とて、今年七つの娘もあれば、養子貰ふて跡に立て、主の願ひの町住居、お前に添せ行末は
「また二つには、お徳という今年七つの娘もあるので、養子をもらって跡に立て、主の願いの町住まい。お前に添わせて、行く末は。」
便りない身の私故、真実心の姉妹と互ひに心おく底も、話し合ふのが楽しみと、打明したる夫思ひ、武家には粋な事ぞかし
「頼りない身のわたしゆえ、真実の心の姉妹として、互いに心の奥底も話し合うのが楽しみ」と打ち明けた夫思い。武家には粋なことである。
何から何まで事を分ての御親切、まだいろいろ話したい事も御座んすが、夜も更たればお寒からう、私の着替を失礼ながら
「何から何まで事を分けてのご親切。まだいろいろ話したいこともございますが、夜も更けたのでお寒うございましょう。わたしの着替えを、失礼ながら。」
アヽイヽエ夫には及びませぬ、殊に人が疑念たつる程に、私は矢張男の形で
「ああ、いいえ、それには及びませぬ。ことに人が疑念を立てますほどに、わたしはやはり男の形で。」
成程此御羽織を召ますも
「なるほど、このお羽織を召しますのも。」
人目厭ふてお前の客
人目をいとうての、お前の客。
積る話の数々を
積もる話の数々を。
同じ衾で悠然と
同じ衾でゆったりと。
必ずお風邪召ぬやう
「必ずお風邪を召しませぬよう。」
そんならどうでも白糸どの
「それなら、どうでも白糸どの。」
おやすさま
「おやすさま。」
虚外で御座んす
「うそ寒い外でございます。」
ドレお著せ申しませう
「どれ、お着せ申しましょう。」
有合羽織打着て、心解ても何処やらに、疵持足のよしあしを、義理の柵木屏風の内に思ひや籠るらん
ありあわせの羽織を打ち着て、心は解けてもどこやらに、疵持つ足のよしあしを、義理のしがらみ——屏風の内に思いは籠っていることだろう。
実と誠が行合の、梯子に足も引過ぎの、濡によるてふ貸浴衣、著つゝなれにし廊下口
実と誠が行き合いの、梯子に足も引き過ぎの、濡れに寄るという貸浴衣。着つつ馴れた廊下口。
アヽようようの思ひで湯へ這入り、心持もよくなつたが、兎角ならぬがこの二階、堰れて上れぬ今の身の上、尚上りたいと言も因果な事、夫はさうと今宵お糸が所へ上つた客は外の女郎に聞ても頭巾を冠つて顔を見せぬが、此頃お糸が素振と言ひ、おのれ其分で済うと思ふか
「ああ、ようようの思いで湯へ入り、心持ちもよくなったが、とかくままならぬのがこの二階。堰かれて上がれぬ今の身の上で、なお上がりたいと言うのも因果なこと。それはそうと、今宵お糸の所へ上がった客は、ほかの女郎に聞いても頭巾をかぶって顔を見せぬという。この頃のお糸の素振りといい——おのれ、そのままで済むと思うか。」
気も紫色の胴抜を、あた腹立に手早に著なし、急立つ胸を押鎮め
気も紫色の胴抜きを、腹立ちまぎれに手早に着なし、急き立つ胸を押し鎮め。
イヤイヤ荒立ては却て身の恥、座敷へ這入て其客を屏風越にヲヽそうぢや
「いやいや、荒立てるのはかえって身の恥。座敷へ入ってその客を屏風越しに——おお、そうじゃ。」
と身を潜め、間毎間毎の灯火も、いとしんしんと鉄棒の、鈴虫引し後や先
と身を潜め、部屋ごとの灯火もいとしんしんと。夜回りの鉄棒の鈴の音を、鈴虫のように引いた後や先。
手鍋提ようと口では言ど、実は乗たや玉の輿
「手鍋提げてもと口では言うが、実は乗りたや玉の輿。」
ぞめくいなせの頬冠り、諷う声さへ風の伝手、隣座敷の三味線は
ぞめき歩くいなせの頬かぶり、うたう声さえ風のつてに。隣座敷の三味線は。
何処の間夫めと忍び駒
どこの間夫めと、忍び駒。
ソリヤこそ俺が推量の通り、二人めそめそ泣て居るが、あの塩梅では此頃の事ぢやない、とうから色になつて居たとみえる、斯様事とも知ずして、可愛想に女房の意見も上の空、おやす堪忍して呉れ呉れやい
「そりゃこそ、俺の推量のとおり。二人めそめそ泣いているが、あの塩梅ではこの頃のことじゃない。とうから色になっていたとみえる。かようなこととも知らずに、可哀想に女房の意見も上の空——おやす、堪忍してくれ、くれやい。」
他処で解く帯知ずして、くける糸より細き縁
よそで解く帯を知らずに、くける糸より細い縁。
アヽモウ今日といふ今日思当つたは、此様な態になるも、みんなあの腐れ女郎に誑された許りエヽ口惜いはい
「ああもう、今日という今日思い当たった。このような態になるのも、みんなあの腐れ女郎にたらされたばかり。ええ、口惜しいわい。」
つい切やすくほくろびて
つい切れやすく、ほころびて。
俺が心も知ずして、面白さうに弾おるは、何は兎もあれ爰へ引出しづたづたに、イヤイヤ大小は爰に無し、チエヽどうして呉う
「俺の心も知らないで、面白そうに弾きおるわ。何はともあれここへ引き出し、ずたずたに——いやいや、大小はここにない。ちえ、どうしてくれよう。」
胸に据かね隔ての障子、砕くる許りに押明て
胸に据えかね、隔ての障子を砕けるばかりに押し開けて。
コレお糸一寸来い、イヤサわれには言事がある
「これ、お糸、ちょっと来い。いやさ、われには言うことがある。」
無理に引出し髻髪、とらんとするを隔つるおやす、さは知ずして急立つ主水
無理に引き出し、髻をつかもうとするのを隔てるおやす。それとは知らずに急き立つ主水。
申し御免なされ、私はあの女に一寸と話が御座りまして参りました、手間はとりませぬ一寸の間、お貸なされて下さりませ
「申し、ご免なされ。わたしはあの女にちょっと話がございまして参りました。手間は取りませぬ、ちょっとの間、お貸しなされてくださりませ。」
引捕へんと立寄を、やらじと支ゆる女房が、頭巾を脱ば
引き捕らえようと立ち寄るのを、やるまいと支える女房が、頭巾を脱げば。
ヤアわりや女房おやす
「やあ、われは女房おやす。」
旦那様主水殿、チエヽお前様はなア
「旦那さま、主水どの。ちえ、お前さまはなあ。」
私が言ば悋気らしう、思召も御座んせうと、白糸殿を頼み意見して下されと、頼みに来たも御家が大事、又二つには娘のお徳、お前様が翌が日お暇となるときは
「わたしが言えば悋気らしくお思いにもなろうと、白糸どのに頼んで意見してくだされと、頼みに来たのもお家が大事。また二つには娘のお徳。お前さまが明日にもお暇となるときは。」
何を生計に暮さうぞ、弁へのない子心にも、私が顔の痩せたのを見て他処ながら父様へ、御意見申しおつとめと、ませたとりなし可愛さは
「何を生計に暮らしましょう。分別のない子供心にも、わたしの顔の痩せたのを見て、よそながら『父さまへご意見申し、おつとめ』と、ませたとりなしの可愛さは。」
もし私許りの子ぢやないに
「もし、わたしばかりの子ではございませぬのに。」
親らしい事もなく無得心は何故ぞ、いかなる天魔が魃りしぞ、夫に付ても白糸殿
「親らしいこともなく、得心のないのはなぜぞ。いかなる天魔が魅入ったのぞ。それにつけても白糸どの。」
斯した勤の身の上で、驚き入た心の橾、夫に引替お前の行跡、緋鹿子の扱帯は何事ぞ、イヽエなア、此お髪の結様、是が鎌倉御直参の風俗で御座んすかこれ
「こうした勤めの身の上で、驚き入った心の操。それに引き替えお前さまの身持ちは——緋鹿の子のしごきは何事ぞ。いいえなあ、このお髪の結いよう、これが鎌倉御直参の風俗でございますか、これ。」
十九や廿ぢやあるまいし、情ないお心やと、真実心の強意見、白糸涙押し拭ひ
「十九や二十歳ではあるまいし、情けないお心や」と、真実心の強意見。白糸は涙を押しぬぐい。
此年月御新造様の御苦労を、余処に見なして聞入ず、二言めには今の様に、訳も聞ずに打ち打擲、爰に御座んしたがあなたなりやこそよけれ、他所の武士衆なら座敷へ這入る不法者と、咎められたら何としやんす、エヽさうした邪慳なお前でも
「この年月、ご新造さまのご苦労をよそに見なして聞き入れず、二言めには今のように訳も聞かずに打ち打擲。ここにおいでなのがあなたゆえよいものの、よその武士衆なら座敷へ入る不法者と咎められたら何となさいます。ええ、そうした邪慳なお前さまでも。」
堰れて後は身を狭う、一目忍ぶが味気なく、ありとあらゆる嘘言て
堰かれてのちは身を狭く、人目を忍ぶのが味気なく、ありとあらゆる嘘を言って。
客に無心も誰故ぞ、みんなお前に入揚て、部屋著共に身を投掛け、身悶すること道理なり
客に無心をするのも誰ゆえぞ。みんなお前に入れあげて——部屋着とともに身を投げかけ、身悶えするのも道理である。
おやすは軈て金子の包、取出して前に置き
おやすはやがて金子の包みを取り出して前に置き。
此お金にて何角諸払ひ、肩身を広う帰らしやんせ
「このお金で何かと諸払いをすませ、肩身を広くしてお帰りなされませ。」
あやまつたあやまつたお糸其方の親切おやすが心配、今といふ今骨身に染みて何といふ言葉もない、今迄と違ふて其方衆が相談づくで、俺が身体を思ふて呉るもの、何悪く思ふものか、了簡してくれ二人の者
「あやまった、あやまった。お糸、そなたの親切、おやすの心配、今という今骨身に染みて、何という言葉もない。今までと違ってそなたたちが相談ずくで、俺の身の上を思ってくれるものを、なんで悪く思うものか。了簡してくれ、二人の者。」
心直きは折れやすく、真実見へて頼もしき
心の直き人は折れやすく、真実が見えて頼もしい。
そんなら翌は出勤を届けに出て下さんすかへ
「それなら明日は出勤の届けに出てくださいますかえ。」
夫ぢやといふて勤道具も何もかも
「そうは言っても、勤めの道具も何もかも。」
ハテ其心当がなうて何のお前に、勤めて呉いと言ませうかいな
「はて、その心当てがなくて、何でお前さまに勤めてくれと言いましょうかいな。」
何事もおやすさんと話合ふてある程に、今宵は何卒
「何事もおやすさんと話し合ってありますほどに、今宵はなにとぞ。」
是非帰れと言のか、道が不用心だのに
「是非帰れと言うのか。道が不用心だのに。」
什麼憶病なお武家さんがあるものかいなア
「そんな臆病なお武家さんがあるものかいなあ。」
サア其武士が嫌ひ故
「さあ、その武士が嫌いゆえ。」
女房に許りあやまつて居るやつさ、サア往かうと立上れば
「女房にばかりあやまっているやつさ。さあ行こう」と立ち上がれば。
かねて覚悟の白糸が、主水の側に寄添て
かねて覚悟の白糸が、主水のそばに寄り添うて。
必ずともにお近いうちに
「必ずともに、お近いうちに。」
誰が来るものか、此新宿の二階も見納
「誰が来るものか。この新宿の二階も見納め。」
そんなら是が永い別れに
「それなら、これが永い別れに。」
ヤア
「やあ。」
御新造様
「ご新造さま。」
お糸殿
「お糸どの。」
ドリヤ帰らう
「どりゃ、帰ろう。」
と名残はをしの別路や、衾をわけて倶涙、堰とめかねる女気の、誠の心は女房の、其言の葉や白糸が、胸に満来る濁り水、果しなみだの憂き思ひ、心残して出て行く
と、名残は惜しの別れ路や。衾を分けてもろともの涙、堰きとめかねる女心の、誠の心は女房の、その言の葉よ。白糸の胸に満ちてくる濁り水、果てしない涙の憂き思い、心を残して出てゆく。
この曲は常磐津。詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第四編 常磐津集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開し、合方の指示は省いた。
原典は上下二巻に分けて載せるが一曲なのでひと続きにした(上三十六段・下五十段)。資料目次には括弧書きで「白糸主水」とある。作詞者・作曲者・初演年は原典に記載がない。
内藤新宿の遊女白糸と鎌倉御家人白井主水の情話「白糸主水」による。曲名は「主は誰、糸の春雨」の意で、白糸の名と糸の縁語を掛ける。
「橋本」は内藤新宿の旅籠屋の名。「住替」は勤めの店を替わること。「間夫」は遊女の情人。
「鉄棒」は郭の夜回りが引いた金具付きの棒。「忍び駒」は三味線の音を消す駒。
「手鍋提げようと」の一段は当時の流行り唄の文句を取り込んだもの。
「二世と堀の内」は入れ墨(起請彫り)のこと。「彫り」に「堀の内」を掛ける。
「緋鹿子の扱帯」「お髪の結様」を咎めるのは、主水の伊達な廓通いの拵えを女房がたしなめるくだり。
「翌が日お暇となるときは」は、主家から改易されることをいう。
「天魔が魃りし」の「魃」、「心の橾」の「橾」は原典の用字のまま残した。それぞれ「魅」「操」の意と思われ、読みもそのように推定した。
次の語は意味の定まらないところで、推測で埋めず原典のまま残した。「染てしんくの八重結」「深く鳴子の野暮らしい」「たゞよの事」「虚外」「つい切れやすくほくろびて」「気も紫色の胴抜」。
流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。