藤舎の紋 藤舎名玄TOSHA MEIGEN ― 詞章ライブラリーへ戻る
常磐津

主誰糸春雨ぬしやたれいとのはるさめ

常磐津  資料目次の別記「白糸主水」  作詞者・作曲者・初演年不詳

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主誰糸春雨 頭巾を外すおやす
頭巾を外すおやす

内藤新宿の遊女白糸と、鎌倉御直参の武士主水、その女房おやすの「白糸主水」ものによる世話物。前半は、頭巾で顔を隠し男姿で白糸の座敷に上がった客が、じつは主水の女房おやすと知れるところ。悋気ではなく、夫の身の上と娘の行く末を頼みに来たと打ち明ける。後半は湯帰りの主水が客の正体を知らずに怒り込むが、頭巾を脱いだ女房と白糸の真実に前非を悔い、金子を受けて別れを惜しむ。妻と遊女が心を通わせる、あわれの深い一曲。

あらすじ

白糸の昔もなつかしく、屏風の蔭の床のうち、遊女白糸は今宵の客に詫びを言う。頭巾も羽織もそのままの客の紐を解けば、現れたのは馴染み客主水の女房おやす。あられもない男姿で客と偽って上がったのは、夫の恥を思い、白糸の外聞を思ってのこと。恨みを言いに来たのではなく、頼みたいことがあってと打ちつけられ、白糸は消え入る思いで身の上を語る。吉原の振袖新造の頃、妻子があるとは露知らず主水と深い仲になり、新宿へ住み替えた今も思いは変わらないと。おやすの頼みはふたつ。夫が病気と偽って夜ごと家を空けることが頭の耳に入り、身の上が密かに調べられている。どうか意見して帰してほしいこと。そしてもうひとつは、七つになる娘お徳の行く末——養子を取って家を娘に立てさせ、夫の願いの町住まいで、いずれはお前に添わせたい、頼りない自分の真実の姉妹になってほしいと。夫思いの、武家には粋な心である。夜も更け、白糸はおやすに男姿のまま羽織を着せかける。折から湯から戻った主水は、頭巾で顔を見せぬ客の噂を聞いて怒り込み、障子を押し開けて白糸を引き出そうとする。間に立ち隔てた客が頭巾を脱げば、それは女房おやす。悋気と思われぬよう白糸に意見を頼みに来たこと、娘お徳が父を案じるませたとりなし、白糸の心の操と、置かれた金子の包み——今という今骨身に染みた主水は、二人に手をついて前非を悔いる。明日は出勤を届けると約束し、勤めの道具の心当てまでおやすと白糸が話し合ってあると知れる。かねて覚悟の白糸は主水に寄り添い、これが永い別れと名残を惜しむ。誠の心は女房のその言の葉、白糸の胸に満ちくる濁り水、果てしない涙の憂き思い、心を残して出てゆく。

詞章と現代語訳

白糸しらいと往昔むかしなつかしなまなかに、そめてしんくの八重結やへむすびたがひにもつ今更いまさらに、甲斐かひもなき物思ものおもひ、あゝなん障子しやうじさへ、あけこころのしめやかに、立廻たてまはしたる屏風びやうぶかげ何気なにげつやとこうち面恥気おもはゆげそば

白糸の昔もなつかしく、なまなかに染めた真紅の八重結び。互いにもつれて今さらに、解く甲斐もない物思い。ああ何と、障子を開ける心もしめやかに、立て廻した屏風の蔭、なにげなく艶めく床のうち、面はゆげにそばへ寄り。

モシおきやくさん申訳まうしわけ御座ござりませぬ、わたしのやうな不束ふつつかものところ初会しよくわいにあがらしやんして、さぞはらたちませうが、酒癖さけぐせわるきやくさんゆゑ、やうやうかしてまゐりました、かならわる思召おぼしめさぬよう、そうしてマアお頭巾づきんしたなり、お羽織はおり其儘そのまま、ドレおかせまうしませう

「もし、お客さん、申し訳ございませぬ。わたしのような不束な者の所へ初会にお上がりなされて、さぞお腹も立ちましょうが、酒癖の悪いお客さんゆえ、ようよう寝かせて参りました。決して悪くお思いなさいませぬよう。——そうしてまあ、お頭巾を召したまま、お羽織もそのまま。どれ、お休ませ申しましょう。」

なん遠慮ゑんりよ馴々なれなれしう、ひも頭巾づきんともぬがすうちにもたがひかほ

なんの遠慮もなれなれしく、紐を解く解く頭巾とともに、脱がすうちにも互いの顔。

ヤアあなたはたしか主水様もんどさま

「やあ、あなたは確か、主水さまの。」

ハイ女房にようばうおやすで御座ござります

「はい、女房おやすでございます。」

エエ

「ええ。」

サヽヽヽさぞ吃驚びつくり御座ござんせう

「ささ、さぞびっくりでございましょう。」

あられもない此様このやうな、姿形すがたかたちをとこ

あられもないこのような姿かたちを男と見せ。

きやくいつはあがりしは

客といつわって上がったのは。

をつとはぢふたつには、おまへこころさつしやり、さだめし朋輩衆ほうばいしゆう外聞ぐわいぶんにもならうかと

「夫の恥と、二つにはお前の心を察して、定めし朋輩衆への外聞にもなろうかと。」

彼方此方あちこち思遣おもひやり、あひたのもこなさんに、うらみつらみをうかとおもはんせうが真実しんじつ

「あちらこちらを思いやって逢いに来たのも——こなさんに恨みつらみを言うかとお思いなさろうが、真実に。」

さらさらそうしたわけではなく、たのみたいことあるゆゑ

「さらさらそうした訳ではなく、頼みたいことがあるゆえ」と。

うちつけられて白糸しらいとは、きえいりたき風情ふぜいなり

面と向かって言われて、白糸は消え入りたい風情である。

勿体もつたいないそののお言葉ことばなん御用ごようしらども、お心一抔こころいつぱいつてくださりませ、シタが言訳いひわけでは御座ござんせぬが、一通ひととほきいくださるりませ、吉原よしはらころは、振袖ふりそでわけしら

「もったいないそのお言葉。何のご用かは存じませぬが、お心のままになさってくださりませ。したが、言い訳ではございませぬが、ひととおり聞いてくださりませ。吉原にいる頃は、まだ振袖の、世間の訳も知らず。」

派手はで一座いちざ其中そのなかで、つい岡惚をかぼれ浮気うはきから、ひと客衆きやくしゆうしのあひすゑはどうした主水もんどさん

派手な一座のその中で、つい岡惚れの浮気から、人の客衆と忍び逢い、末はどうした主水さん。

からんだえん橋本はしもとへ、住替すみかへ夫迄それまでは、妻子つまこあるとはつゆしら

からんだ縁の橋本へ住み替えに出る、それまでは妻子があるとは露知らず。

ふか鳴子なるこ野暮やぼらしい、うで二世にせほりうち苦界くがいなかたのしみも

深く鳴子の野暮らしくも、腕に二世と彫りの内。苦界の中の楽しみも。

いませかれて逢事あふことも、たま玉川たまがはながれの堪忍かんにんしてとばかりにて、あとはなみだこゑうるむ

「いまは堰かれて逢うことも、たまの玉川の流れの身。堪忍して」とばかり、あとは涙に声うるむ。

サアそのつとめなかにも真実しんじつつくして、んでくださるおまへ心底しんていかぜ便たよりにきく度毎たびごとよろこびこそすれうらんだこと御座ござんせぬ、そのまことあるおまへゆゑ打明うちあけたのみといふはほかでもない去年きよねんふゆより病気びやうきにて、つとめひき一夜ひとよさも、うちことかしらへ、たれいふとなく悪様あしざまに、申上まうしあげたるゆゑにこそ、主水もんどうへ密々みつみつに、お調しらべあるとお仲間なかまより、わたし沙汰さたしてくれゆゑをつとへどうはそら押返おしかへしてふにも、片時かたときいへかへらねば

「さあ、その勤めの中にも真実を尽くして呼んでくださるお前の心底、風の便りに聞くたびごとに、喜びこそすれ恨んだことはございませぬ。その誠のあるお前ゆえ、打ち明けて頼みというのはほかでもない。去年の冬から病気と称して勤めも引き、一夜も家へ寝ぬことを、お頭へ誰言うとなく悪しざまに申し上げた者があるゆえ、主水の身の上を密々にお調べがあると、お仲間からわたしへ知らせてくれました。夫に言っても上の空、押し返して言おうにも、片時も家へ帰らないので。」

取付島とりつくしまなぎさぐ、たゞよのこと此里このさとへ、てもきやくには表向おもてむき、あはれぬぢやときいゆゑ

取り付く島もなく、渚を漕ぐようにただようばかり。この里へ来ても、客としてでなければ表向きは逢えない身じゃと聞いたゆえ。

どうか首尾しゆびしてかね調ととのへ、肩身かたみひろうしたうへで、おまへあう此事このことを、いうもらうとおもどもいま都合つがふ出来できゆゑ

「どうか首尾よく金を調え、肩身を広くした上でお前に逢ってこのことを言ってもらおうと思ったけれど、いまだに都合もつかないゆえ。」

是非ぜひなく是非ぜひなくもはぢすてて、たのみといふこれひと

是非なく是非なくも恥を捨てて、頼みと言うはこれひとつ。

またふたつにはおとくとて、今年ことしななつのむすめもあれば、養子やうしもらふてあとたてて、ぬしねがひの町住居まちずまゐ、おまへそは行末ゆくすゑ

「また二つには、お徳という今年七つの娘もあるので、養子をもらって跡に立て、主の願いの町住まい。お前に添わせて、行く末は。」

便たよりないわたしゆゑ真実心しんじつしん姉妹きやうだいたがひにこころおくそこも、はなふのがたのしみと、打明うちあけしたる夫思をつとおもひ、武家ぶけにはすゐことぞかし

「頼りない身のわたしゆえ、真実の心の姉妹として、互いに心の奥底も話し合うのが楽しみ」と打ち明けた夫思い。武家には粋なことである。

なにからなにまでことわけての御親切ごしんせつ、まだいろいろはなしたいこと御座ござんすが、ふけたればおさむからう、わたし着替きがへ失礼しつれいながら

「何から何まで事を分けてのご親切。まだいろいろ話したいこともございますが、夜も更けたのでお寒うございましょう。わたしの着替えを、失礼ながら。」

アヽイヽエそれにはおよびませぬ、ことひと疑念ぎねんたつるほどに、わたし矢張やはりをとこなり

「ああ、いいえ、それには及びませぬ。ことに人が疑念を立てますほどに、わたしはやはり男の形で。」

成程なるほどこの御羽織おんはおりめしますも

「なるほど、このお羽織を召しますのも。」

人目ひとめいとふておまへきやく

人目をいとうての、お前の客。

つもはなし数々かずかず

積もる話の数々を。

おなふすま悠然いうぜん

同じ衾でゆったりと。

かならずお風邪かぜめさぬやう

「必ずお風邪を召しませぬよう。」

そんならどうでも白糸しらいとどの

「それなら、どうでも白糸どの。」

おやすさま

「おやすさま。」

虚外うそそと御座ござんす

「うそ寒い外でございます。」

ドレおまうしませう

「どれ、お着せ申しましょう。」

有合ありあふ羽織はおり打着うちきて、こころとけても何処どこやらに、疵持足きずもつあしのよしあしを、義理ぎり柵木しがらみ屏風びやうぶうちおもひやこもるらん

ありあわせの羽織を打ち着て、心は解けてもどこやらに、疵持つ足のよしあしを、義理のしがらみ——屏風の内に思いは籠っていることだろう。

じつまこと行合ゆきあひの、梯子はしごあし引過ひきすぎの、ぬれによるてふ貸浴衣かしゆかたつゝなれにし廊下口らうかぐち

実と誠が行き合いの、梯子に足も引き過ぎの、濡れに寄るという貸浴衣。着つつ馴れた廊下口。

アヽようようのおもひで這入はいり、心持こころもちもよくなつたが、兎角とかくならぬがこの二階にかいせかれてあがれぬいまうへなほあがりたいといふ因果いんぐわことそれはさうと今宵こよひいとところあがつたきやくほか女郎ぢよらうきいても頭巾づきんかぶつてかほせぬが、此頃このごろいと素振そぶりひ、おのれ其分そのぶんすまうとおもふか

「ああ、ようようの思いで湯へ入り、心持ちもよくなったが、とかくままならぬのがこの二階。堰かれて上がれぬ今の身の上で、なお上がりたいと言うのも因果なこと。それはそうと、今宵お糸の所へ上がった客は、ほかの女郎に聞いても頭巾をかぶって顔を見せぬという。この頃のお糸の素振りといい——おのれ、そのままで済むと思うか。」

紫色むらさきいろ胴抜どうぬきを、あた腹立はらだち手早てばやなし、急立せきたむね押鎮おししづ

気も紫色の胴抜きを、腹立ちまぎれに手早に着なし、急き立つ胸を押し鎮め。

イヤイヤ荒立あらだてはかへつはぢ座敷ざしき這入はいつそのきやく屏風越びやうぶごしにヲヽそうぢや

「いやいや、荒立てるのはかえって身の恥。座敷へ入ってその客を屏風越しに——おお、そうじゃ。」

ひそめ、間毎まごと間毎まごと灯火ともしびも、いとしんしんと鉄棒かなぼうの、鈴虫すずむしひきあとさき

と身を潜め、部屋ごとの灯火もいとしんしんと。夜回りの鉄棒の鈴の音を、鈴虫のように引いた後や先。

手鍋てなべさげようとくちではいへど、じつのりたやたま輿こし

「手鍋提げてもと口では言うが、実は乗りたや玉の輿。」

ぞめくいなせの頬冠ほほかぶり、うたこゑさへかぜ伝手つて隣座敷となりざしき三味線しやみせん

ぞめき歩くいなせの頬かぶり、うたう声さえ風のつてに。隣座敷の三味線は。

何処どこ間夫まぶめとしのごま

どこの間夫めと、忍び駒。

ソリヤこそおれ推量すゐりやうとほり、二人ふたりめそめそないるが、あの塩梅あんばいでは此頃このごろことぢやない、とうからいろになつてたとみえる、斯様かやうことともしらずして、可愛想かはいさう女房にようばう意見いけんうはそら、おやす堪忍かんにんしてれやい

「そりゃこそ、俺の推量のとおり。二人めそめそ泣いているが、あの塩梅ではこの頃のことじゃない。とうから色になっていたとみえる。かようなこととも知らずに、可哀想に女房の意見も上の空——おやす、堪忍してくれ、くれやい。」

他処よそおびしらずして、くけるいとよりほそえん

よそで解く帯を知らずに、くける糸より細い縁。

アヽモウ今日けふといふ今日けふ思当おもひあたつたは、此様このやうざまになるも、みんなあのくさ女郎ぢよらうたらされたばかりエヽ口惜くやしいはい

「ああもう、今日という今日思い当たった。このような態になるのも、みんなあの腐れ女郎にたらされたばかり。ええ、口惜しいわい。」

ついきれやすくほくろびて

つい切れやすく、ほころびて。

おれこころしらずして、面白おもしろさうにひきおるは、なにもあれここ引出ひきだしづたづたに、イヤイヤ大小だいせうここし、チエヽどうしてくれ

「俺の心も知らないで、面白そうに弾きおるわ。何はともあれここへ引き出し、ずたずたに——いやいや、大小はここにない。ちえ、どうしてくれよう。」

むねすゑかねへだての障子しやうじくだくるばかりに押明おしあけ

胸に据えかね、隔ての障子を砕けるばかりに押し開けて。

コレおいと一寸ちよつとい、イヤサわれには言事いふことがある

「これ、お糸、ちょっと来い。いやさ、われには言うことがある。」

無理むり引出ひきだ髻髪たぶさがみ、とらんとするをへだつるおやす、さはしらずして急立せきた主水もんど

無理に引き出し、髻をつかもうとするのを隔てるおやす。それとは知らずに急き立つ主水。

まう御免ごめんなされ、わたしはあのをんな一寸ちよつはなし御座ござりましてまゐりました、手間てまはとりませぬ一寸ちよつと、おかしなされてくださりませ

「申し、ご免なされ。わたしはあの女にちょっと話がございまして参りました。手間は取りませぬ、ちょっとの間、お貸しなされてくださりませ。」

引捕ひきとらへんと立寄たちよるを、やらじとささゆる女房にようばうが、頭巾づきんぬげ

引き捕らえようと立ち寄るのを、やるまいと支える女房が、頭巾を脱げば。

ヤアわりや女房にようばうおやす

「やあ、われは女房おやす。」

旦那様だんなさま主水殿もんどどの、チエヽお前様まへさまはなア

「旦那さま、主水どの。ちえ、お前さまはなあ。」

わたしいへ悋気りんきらしう、思召おぼしめし御座ござんせうと、白糸殿しらいとどのたの意見いけんしてくだされと、たのみにたも御家おいへ大事だいじまたふたつにはむすめのおとく、お前様まへさまあすいとまとなるときは

「わたしが言えば悋気らしくお思いにもなろうと、白糸どのに頼んで意見してくだされと、頼みに来たのもお家が大事。また二つには娘のお徳。お前さまが明日にもお暇となるときは。」

なに生計たつきくらさうぞ、わきまへのない子心こごころにも、わたしかほせたのを他処よそながら父様ととさまへ、御意見ごいけんまうしおつとめと、ませたとりなし可愛かはいさは

「何を生計に暮らしましょう。分別のない子供心にも、わたしの顔の痩せたのを見て、よそながら『父さまへご意見申し、おつとめ』と、ませたとりなしの可愛さは。」

もしわたしばかりのぢやないに

「もし、わたしばかりの子ではございませぬのに。」

おやらしいこともなく無得心むとくしん何故なにゆゑぞ、いかなる天魔てんまりしぞ、それつけても白糸殿しらいとどの

「親らしいこともなく、得心のないのはなぜぞ。いかなる天魔が魅入ったのぞ。それにつけても白糸どの。」

かうしたつとめうへで、おどろいつこころみさをそれ引替ひきかへまへ行跡ぎやうせき緋鹿子ひがのこ扱帯しごき何事なにごとぞ、イヽエなア、このぐし結様ゆひやうこれ鎌倉かまくら御直参ごぢきさん風俗ふうぞく御座ござんすかこれ

「こうした勤めの身の上で、驚き入った心の操。それに引き替えお前さまの身持ちは——緋鹿の子のしごきは何事ぞ。いいえなあ、このお髪の結いよう、これが鎌倉御直参の風俗でございますか、これ。」

十九じふく廿はたちぢやあるまいし、なさけないおこころやと、真実心しんじつしん強意見つよいけん白糸しらいとなみだぬぐ

「十九や二十歳ではあるまいし、情けないお心や」と、真実心の強意見。白糸は涙を押しぬぐい。

この年月としつき御新造様ごしんぞさま御苦労ごくらうを、余処よそなして聞入ききいれず、二言ふたことめにはいまやうに、わけきかずに打擲ちやうちやくここ御座ござんしたがあなたなりやこそよけれ、他所よそ武士衆ぶししゆうなら座敷ざしき這入はい不法者ふはふものと、とがめられたらなんとしやんす、エヽさうした邪慳じやけんなおまへでも

「この年月、ご新造さまのご苦労をよそに見なして聞き入れず、二言めには今のように訳も聞かずに打ち打擲。ここにおいでなのがあなたゆえよいものの、よその武士衆なら座敷へ入る不法者と咎められたら何となさいます。ええ、そうした邪慳なお前さまでも。」

せかれてのちせばう、一目ひとめしのぶが味気あぢきなく、ありとあらゆるうそいう

堰かれてのちは身を狭く、人目を忍ぶのが味気なく、ありとあらゆる嘘を言って。

きやく無心むしん誰故たれゆゑぞ、みんなおまへ入揚いれあげて、部屋著へやぎとも投掛なげかけ、身悶みもだえすること道理だうりなり

客に無心をするのも誰ゆえぞ。みんなお前に入れあげて——部屋着とともに身を投げかけ、身悶えするのも道理である。

おやすはやが金子きんすつつみ取出とりいだしてまへ

おやすはやがて金子の包みを取り出して前に置き。

このかねにて何角なにかと諸払しよばらひ、肩身かたみひろかへらしやんせ

「このお金で何かと諸払いをすませ、肩身を広くしてお帰りなされませ。」

あやまつたあやまつたおいと其方そなた親切しんせつおやすが心配しんぱいいまといふいま骨身ほねみみてなんといふ言葉ことばもない、今迄いままでちがふて其方衆そなたしゆう相談さうだんづくで、おれ身体しんだいおもふてくるるもの、なにわるおもふものか、了簡れうけんしてくれ二人ふたりもの

「あやまった、あやまった。お糸、そなたの親切、おやすの心配、今という今骨身に染みて、何という言葉もない。今までと違ってそなたたちが相談ずくで、俺の身の上を思ってくれるものを、なんで悪く思うものか。了簡してくれ、二人の者。」

心直こころなほきはれやすく、真実しんじつへてたのもしき

心の直き人は折れやすく、真実が見えて頼もしい。

そんならあす出勤しゆつきんとどけにくださんすかへ

「それなら明日は出勤の届けに出てくださいますかえ。」

それぢやといふて勤道具つとめだうぐなにもかも

「そうは言っても、勤めの道具も何もかも。」

ハテその心当こころあてがなうてなんのおまへに、つとめてくれいといひませうかいな

「はて、その心当てがなくて、何でお前さまに勤めてくれと言いましょうかいな。」

何事なにごともおやすさんと話合はなしあふてあるほどに、今宵こよひ何卒なにとぞ

「何事もおやすさんと話し合ってありますほどに、今宵はなにとぞ。」

是非ぜひかへれといふのか、みち不用心ぶようじんだのに

「是非帰れと言うのか。道が不用心だのに。」

什麼そんな憶病おくびやうなお武家ぶけさんがあるものかいなア

「そんな臆病なお武家さんがあるものかいなあ。」

サアその武士ぶしきらゆゑ

「さあ、その武士が嫌いゆえ。」

女房にようばうばかりあやまつてるやつさ、サアかうと立上たちあがれば

「女房にばかりあやまっているやつさ。さあ行こう」と立ち上がれば。

かねて覚悟かくご白糸しらいとが、主水もんどそば寄添よりそ

かねて覚悟の白糸が、主水のそばに寄り添うて。

かならずともにおちかいうちに

「必ずともに、お近いうちに。」

たれるものか、この新宿しんじゆく二階にかい見納みをさめ

「誰が来るものか。この新宿の二階も見納め。」

そんならこれながわかれに

「それなら、これが永い別れに。」

ヤア

「やあ。」

御新造様ごしんぞさま

「ご新造さま。」

糸殿いとどの

「お糸どの。」

ドリヤかへらう

「どりゃ、帰ろう。」

名残なごりはをしの別路わかれぢや、ふすまをわけて倶涙ともなみだせきとめかねる女気をんなぎの、まことこころ女房にようばうの、そのこと白糸しらいとが、むね満来みちくにごみづはてしなみだのおもひ、こころのこして

と、名残は惜しの別れ路や。衾を分けてもろともの涙、堰きとめかねる女心の、誠の心は女房の、その言の葉よ。白糸の胸に満ちてくる濁り水、果てしない涙の憂き思い、心を残して出てゆく。

この曲は常磐津。詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第四編 常磐津集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開し、合方の指示は省いた。

原典は上下二巻に分けて載せるが一曲なのでひと続きにした(上三十六段・下五十段)。資料目次には括弧書きで「白糸主水」とある。作詞者・作曲者・初演年は原典に記載がない。

内藤新宿の遊女白糸と鎌倉御家人白井主水の情話「白糸主水」による。曲名は「主は誰、糸の春雨」の意で、白糸の名と糸の縁語を掛ける。

「橋本」は内藤新宿の旅籠屋の名。「住替」は勤めの店を替わること。「間夫」は遊女の情人。

「鉄棒」は郭の夜回りが引いた金具付きの棒。「忍び駒」は三味線の音を消す駒。

「手鍋提げようと」の一段は当時の流行り唄の文句を取り込んだもの。

「二世と堀の内」は入れ墨(起請彫り)のこと。「彫り」に「堀の内」を掛ける。

「緋鹿子の扱帯」「お髪の結様」を咎めるのは、主水の伊達な廓通いの拵えを女房がたしなめるくだり。

「翌が日お暇となるときは」は、主家から改易されることをいう。

「天魔が魃りし」の「魃」、「心の橾」の「橾」は原典の用字のまま残した。それぞれ「魅」「操」の意と思われ、読みもそのように推定した。

次の語は意味の定まらないところで、推測で埋めず原典のまま残した。「染てしんくの八重結」「深く鳴子の野暮らしい」「たゞよの事」「虚外」「つい切れやすくほくろびて」「気も紫色の胴抜」。

流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。