藤舎の紋 藤舎名玄TOSHA MEIGEN ― 詞章ライブラリーへ戻る
常磐津

主誰糸春雨ぬしやたれいとのはるさめ

常磐津  資料目次の別記「白糸主水」  作詞者・作曲者・初演年不詳

⎙A4一枚に印刷できる詞章(PDF)開く・印刷・保存お稽古や舞台の予習に。A4横一枚にまとめてあります。
主誰糸春雨 頭巾を外すおやす
頭巾を外すおやす

内藤新宿の遊女白糸と、鎌倉御直参の武士主水、その女房おやすの「白糸主水」ものによる世話物。前半は、頭巾で顔を隠し男姿で白糸の座敷に上がった客が、じつは主水の女房おやすと知れるところ。悋気ではなく、夫の身の上と娘の行く末を頼みに来たと打ち明ける。後半は湯帰りの主水が客の正体を知らずに怒り込むが、頭巾を脱いだ女房と白糸の真実に前非を悔い、金子を受けて別れを惜しむ。妻と遊女が心を通わせる、あわれの深い一曲。

あらすじ

白糸の昔もなつかしく、屏風の蔭の床のうち、遊女白糸は今宵の客に詫びを言う。頭巾も羽織もそのままの客の紐を解けば、現れたのは馴染み客主水の女房おやす。あられもない男姿で客と偽って上がったのは、夫の恥を思い、白糸の外聞を思ってのこと。恨みを言いに来たのではなく、頼みたいことがあってと打ちつけられ、白糸は消え入る思いで身の上を語る。吉原の振袖新造の頃、妻子があるとは露知らず主水と深い仲になり、新宿へ住み替えた今も思いは変わらないと。おやすの頼みはふたつ。夫が病気と偽って夜ごと家を空けることが頭の耳に入り、身の上が密かに調べられている。どうか意見して帰してほしいこと。そしてもうひとつは、七つになる娘お徳の行く末——養子を取って家を娘に立てさせ、夫の願いの町住まいで、いずれはお前に添わせたい、頼りない自分の真実の姉妹になってほしいと。夫思いの、武家には粋な心である。夜も更け、白糸はおやすに男姿のまま羽織を着せかける。折から湯から戻った主水は、頭巾で顔を見せぬ客の噂を聞いて怒り込み、障子を押し開けて白糸を引き出そうとする。間に立ち隔てた客が頭巾を脱げば、それは女房おやす。悋気と思われぬよう白糸に意見を頼みに来たこと、娘お徳が父を案じるませたとりなし、白糸の心の操と、置かれた金子の包み——今という今骨身に染みた主水は、二人に手をついて前非を悔いる。明日は出勤を届けると約束し、勤めの道具の心当てまでおやすと白糸が話し合ってあると知れる。かねて覚悟の白糸は主水に寄り添い、これが永い別れと名残を惜しむ。誠の心は女房のその言の葉、白糸の胸に満ちくる濁り水、果てしない涙の憂き思い、心を残して出てゆく。

詞章と現代語訳

白糸しらいとの往昔むかしなつかしなまなかに、染そめてしんくの八重結やへむすび、互たがひに縺もつれ今更いまさらに、解とく甲斐かひもなき物思ものおもひ、あゝ何なんと障子しやうじさへ、明あける心こころのしめやかに、立廻たてまはしたる屏風びやうぶの蔭かげ、何気なにげ艶つやく床とこの内うち、面恥気おもはゆげに側そばへ寄より

白糸の昔もなつかしく、なまなかに染めた真紅の八重結び。互いにもつれて今さらに、解く甲斐もない物思い。ああ何と、障子を開ける心もしめやかに、立て廻した屏風の蔭、なにげなく艶めく床のうち、面はゆげにそばへ寄り。

モシお客きやくさん申訳まうしわけは御座ござりませぬ、私わたしのやうな不束ふつつかな者ものの所ところへ初会しよくわいにあがらしやんして、嘸さぞお腹はらも立たちませうが、酒癖さけぐせの悪わるい客きやくさん故ゆゑ、やうやう寐ねかして参まゐりました、必かならず悪わるう思召おぼしめさぬよう、そうしてマアお頭巾づきんを召めしたなり、お羽織はおりも其儘そのまま、ドレお寐ねかせ申まうしませう

「もし、お客さん、申し訳ございませぬ。わたしのような不束な者の所へ初会にお上がりなされて、さぞお腹も立ちましょうが、酒癖の悪いお客さんゆえ、ようよう寝かせて参りました。決して悪くお思いなさいませぬよう。——そうしてまあ、お頭巾を召したまま、お羽織もそのまま。どれ、お休ませ申しましょう。」

何なんの遠慮ゑんりよも馴々なれなれしう、紐ひもを解とく解とく頭巾づきんと共とも、脱ぬがすうちにも互たがひの顔かほ

なんの遠慮もなれなれしく、紐を解く解く頭巾とともに、脱がすうちにも互いの顔。

ヤアあなたは確たしか主水様もんどさまの

「やあ、あなたは確か、主水さまの。」

ハイ女房にようばうおやすで御座ござります

「はい、女房おやすでございます。」

エエ

「ええ。」

サヽヽヽ嘸さぞ吃驚びつくりで御座ござんせう

「ささ、さぞびっくりでございましょう。」

あられもない此様このやうな、姿形すがたかたちを男をとこと見みせ

あられもないこのような姿かたちを男と見せ。

客きやくと偽いつはり上あがりしは

客といつわって上がったのは。

夫をつとの恥はぢと二ふたつには、お前まへの心こころを察さつしやり、定さだめし朋輩衆ほうばいしゆうへ外聞ぐわいぶんにもならうかと

「夫の恥と、二つにはお前の心を察して、定めし朋輩衆への外聞にもなろうかと。」

彼方此方あちこちを思遣おもひやり、逢あひに来きたのもこなさんに、怨うらみつらみを言いうかと思おもはんせうが真実しんじつに

「あちらこちらを思いやって逢いに来たのも——こなさんに恨みつらみを言うかとお思いなさろうが、真実に。」

さらさらそうした訳わけではなく、頼たのみたい事こと有ある故ゆゑと

「さらさらそうした訳ではなく、頼みたいことがあるゆえ」と。

打うちつけられて白糸しらいとは、消きえも入いりたき風情ふぜいなり

面と向かって言われて、白糸は消え入りたい風情である。

勿体もつたいない其そののお言葉ことば、何なんの御用ごようか知しらね共ども、お心一抔こころいつぱい有あつて下くださりませ、シタが言訳いひわけでは御座ござんせぬが、一通ひととほり聞きいて下くださるりませ、吉原よしはらに居ゐる頃ころは、未まだ振袖ふりそでの訳わけ知しらず

「もったいないそのお言葉。何のご用かは存じませぬが、お心のままになさってくださりませ。したが、言い訳ではございませぬが、ひととおり聞いてくださりませ。吉原にいる頃は、まだ振袖の、世間の訳も知らず。」

派手はでな一座いちざの其中そのなかで、つい岡惚をかぼれの浮気うはきから、人ひとの客衆きやくしゆうに忍しのび合あひ、末すゑはどうした主水もんどさん

派手な一座のその中で、つい岡惚れの浮気から、人の客衆と忍び逢い、末はどうした主水さん。

搦からんだ縁えんの橋本はしもとへ、住替すみかへに出でる夫迄それまでは、妻子つまこあるとは露つゆ知しらず

からんだ縁の橋本へ住み替えに出る、それまでは妻子があるとは露知らず。

深ふかく鳴子なるこの野暮やぼらしい、腕うでに二世にせと堀ほりの内うち、苦界くがいの中なかの楽たのしみも

深く鳴子の野暮らしくも、腕に二世と彫りの内。苦界の中の楽しみも。

今いまは堰せかれて逢事あふことも、たま玉川たまがはの流ながれの身み、堪忍かんにんしてと許ばかりにて、あとは涙なみだに声こゑうるむ

「いまは堰かれて逢うことも、たまの玉川の流れの身。堪忍して」とばかり、あとは涙に声うるむ。

サア其その勤つとめの中なかにも真実しんじつを尽つくして、呼よんで下くださるお前まへの心底しんてい、風かぜの便たよりに聞きく度毎たびごと、喜よろこびこそすれ恨うらんだ事ことは御座ござんせぬ、其その誠まことあるお前まへ故ゆゑ、打明うちあけて頼たのみといふは他ほかでもない去年きよねんの冬ふゆより病気びやうきにて、勤つとめも引ひきて一夜ひとよさも、内うちへ寐ねぬ事ことお頭かしらへ、誰たれ言いふとなく悪様あしざまに、申上まうしあげたる故ゆゑにこそ、主水もんどが身みの上うへを密々みつみつに、お調しらべあるとお仲間なかまより、私わたしへ沙汰さたして呉くれた故ゆゑ、夫をつとに言いへど上うはの空そら、押返おしかへして言いふにも、片時かたとき家いへへ帰かへらねば

「さあ、その勤めの中にも真実を尽くして呼んでくださるお前の心底、風の便りに聞くたびごとに、喜びこそすれ恨んだことはございませぬ。その誠のあるお前ゆえ、打ち明けて頼みというのはほかでもない。去年の冬から病気と称して勤めも引き、一夜も家へ寝ぬことを、お頭へ誰言うとなく悪しざまに申し上げた者があるゆえ、主水の身の上を密々にお調べがあると、お仲間からわたしへ知らせてくれました。夫に言っても上の空、押し返して言おうにも、片時も家へ帰らないので。」

取付島とりつくしまも渚なぎさ漕こぐ、たゞよの事ことに此里このさとへ、来きても客きやくには表向おもてむき、逢あはれぬ身みぢやと聞きいた故ゆゑ

取り付く島もなく、渚を漕ぐようにただようばかり。この里へ来ても、客としてでなければ表向きは逢えない身じゃと聞いたゆえ。

どうか首尾しゆびして金かね調ととのへ、肩身かたみを広ひろうした上うへで、お前まへに逢あうて此事このことを、言いうて貰もらうと思おもへ共ども、今いまに都合つがふも出来できぬ故ゆゑ

「どうか首尾よく金を調え、肩身を広くした上でお前に逢ってこのことを言ってもらおうと思ったけれど、いまだに都合もつかないゆえ。」

是非ぜひなく是非ぜひなくも恥はぢを捨すてて、頼たのみと言いふは是これ一ひとつ

是非なく是非なくも恥を捨てて、頼みと言うはこれひとつ。

又また二ふたつにはお徳とくとて、今年ことし七ななつの娘むすめもあれば、養子やうし貰もらふて跡あとに立たてて、主ぬしの願ねがひの町住居まちずまゐ、お前まへに添そはせ行末ゆくすゑは

「また二つには、お徳という今年七つの娘もあるので、養子をもらって跡に立て、主の願いの町住まい。お前に添わせて、行く末は。」

便たよりない身みの私わたし故ゆゑ、真実心しんじつしんの姉妹きやうだいと互たがひに心こころおく底そこも、話はなし合あふのが楽たのしみと、打明うちあけしたる夫思をつとおもひ、武家ぶけには粋すゐな事ことぞかし

「頼りない身のわたしゆえ、真実の心の姉妹として、互いに心の奥底も話し合うのが楽しみ」と打ち明けた夫思い。武家には粋なことである。

何なにから何なにまで事ことを分わけての御親切ごしんせつ、まだいろいろ話はなしたい事ことも御座ござんすが、夜よも更ふけたればお寒さむからう、私わたしの着替きがへを失礼しつれいながら

「何から何まで事を分けてのご親切。まだいろいろ話したいこともございますが、夜も更けたのでお寒うございましょう。わたしの着替えを、失礼ながら。」

アヽイヽエ夫それには及およびませぬ、殊ことに人ひとが疑念ぎねんたつる程ほどに、私わたしは矢張やはり男をとこの形なりで

「ああ、いいえ、それには及びませぬ。ことに人が疑念を立てますほどに、わたしはやはり男の形で。」

成程なるほど此この御羽織おんはおりを召めしますも

「なるほど、このお羽織を召しますのも。」

人目ひとめ厭いとふてお前まへの客きやく

人目をいとうての、お前の客。

積つもる話はなしの数々かずかずを

積もる話の数々を。

同おなじ衾ふすまで悠然いうぜんと

同じ衾でゆったりと。

必かならずお風邪かぜ召めさぬやう

「必ずお風邪を召しませぬよう。」

そんならどうでも白糸しらいとどの

「それなら、どうでも白糸どの。」

おやすさま

「おやすさま。」

虚外うそそとで御座ござんす

「うそ寒い外でございます。」

ドレお著きせ申まうしませう

「どれ、お着せ申しましょう。」

有合ありあふ羽織はおり打着うちきて、心こころ解とけても何処どこやらに、疵持足きずもつあしのよしあしを、義理ぎりの柵木しがらみ屏風びやうぶの内うちに思おもひや籠こもるらん

ありあわせの羽織を打ち着て、心は解けてもどこやらに、疵持つ足のよしあしを、義理のしがらみ——屏風の内に思いは籠っていることだろう。

実じつと誠まことが行合ゆきあひの、梯子はしごに足あしも引過ひきすぎの、濡ぬれによるてふ貸浴衣かしゆかた、著きつゝなれにし廊下口らうかぐち

実と誠が行き合いの、梯子に足も引き過ぎの、濡れに寄るという貸浴衣。着つつ馴れた廊下口。

アヽようようの思おもひで湯ゆへ這入はいり、心持こころもちもよくなつたが、兎角とかくならぬがこの二階にかい、堰せかれて上あがれぬ今いまの身みの上うへ、尚なほ上あがりたいと言いふも因果いんぐわな事こと、夫それはさうと今宵こよひお糸いとが所ところへ上あがつた客きやくは外ほかの女郎ぢよらうに聞きいても頭巾づきんを冠かぶつて顔かほを見みせぬが、此頃このごろお糸いとが素振そぶりと言いひ、おのれ其分そのぶんで済すまうと思おもふか

「ああ、ようようの思いで湯へ入り、心持ちもよくなったが、とかくままならぬのがこの二階。堰かれて上がれぬ今の身の上で、なお上がりたいと言うのも因果なこと。それはそうと、今宵お糸の所へ上がった客は、ほかの女郎に聞いても頭巾をかぶって顔を見せぬという。この頃のお糸の素振りといい——おのれ、そのままで済むと思うか。」

気きも紫色むらさきいろの胴抜どうぬきを、あた腹立はらだちに手早てばやに著きなし、急立せきたつ胸むねを押鎮おししづめ

気も紫色の胴抜きを、腹立ちまぎれに手早に着なし、急き立つ胸を押し鎮め。

イヤイヤ荒立あらだては却かへつて身みの恥はぢ、座敷ざしきへ這入はいつて其その客きやくを屏風越びやうぶごしにヲヽそうぢや

「いやいや、荒立てるのはかえって身の恥。座敷へ入ってその客を屏風越しに——おお、そうじゃ。」

と身みを潜ひそめ、間毎まごと間毎まごとの灯火ともしびも、いとしんしんと鉄棒かなぼうの、鈴虫すずむし引ひきし後あとや先さき

と身を潜め、部屋ごとの灯火もいとしんしんと。夜回りの鉄棒の鈴の音を、鈴虫のように引いた後や先。

手鍋てなべ提さげようと口くちでは言いへど、実じつは乗のりたや玉たまの輿こし

「手鍋提げてもと口では言うが、実は乗りたや玉の輿。」

ぞめくいなせの頬冠ほほかぶり、諷うたう声こゑさへ風かぜの伝手つて、隣座敷となりざしきの三味線しやみせんは

ぞめき歩くいなせの頬かぶり、うたう声さえ風のつてに。隣座敷の三味線は。

何処どこの間夫まぶめと忍しのび駒ごま

どこの間夫めと、忍び駒。

ソリヤこそ俺おれが推量すゐりやうの通とほり、二人ふたりめそめそ泣ないて居ゐるが、あの塩梅あんばいでは此頃このごろの事ことぢやない、とうから色いろになつて居ゐたとみえる、斯様かやう事こととも知しらずして、可愛想かはいさうに女房にようばうの意見いけんも上うはの空そら、おやす堪忍かんにんして呉くれ呉くれやい

「そりゃこそ、俺の推量のとおり。二人めそめそ泣いているが、あの塩梅ではこの頃のことじゃない。とうから色になっていたとみえる。かようなこととも知らずに、可哀想に女房の意見も上の空——おやす、堪忍してくれ、くれやい。」

他処よそで解とく帯おび知しらずして、くける糸いとより細ほそき縁えん

よそで解く帯を知らずに、くける糸より細い縁。

アヽモウ今日けふといふ今日けふ思当おもひあたつたは、此様このやうな態ざまになるも、みんなあの腐くされ女郎ぢよらうに誑たらされた許ばかりエヽ口惜くやしいはい

「ああもう、今日という今日思い当たった。このような態になるのも、みんなあの腐れ女郎にたらされたばかり。ええ、口惜しいわい。」

つい切きれやすくほくろびて

つい切れやすく、ほころびて。

俺おれが心こころも知しらずして、面白おもしろさうに弾ひきおるは、何なには兎ともあれ爰ここへ引出ひきだしづたづたに、イヤイヤ大小だいせうは爰ここに無なし、チエヽどうして呉くれう

「俺の心も知らないで、面白そうに弾きおるわ。何はともあれここへ引き出し、ずたずたに——いやいや、大小はここにない。ちえ、どうしてくれよう。」

胸むねに据すゑかね隔へだての障子しやうじ、砕くだくる許ばかりに押明おしあけて

胸に据えかね、隔ての障子を砕けるばかりに押し開けて。

コレお糸いと一寸ちよつと来こい、イヤサわれには言事いふことがある

「これ、お糸、ちょっと来い。いやさ、われには言うことがある。」

無理むりに引出ひきだし髻髪たぶさがみ、とらんとするを隔へだつるおやす、さは知しらずして急立せきたつ主水もんど

無理に引き出し、髻をつかもうとするのを隔てるおやす。それとは知らずに急き立つ主水。

申まうし御免ごめんなされ、私わたしはあの女をんなに一寸ちよつと話はなしが御座ござりまして参まゐりました、手間てまはとりませぬ一寸ちよつとの間ま、お貸かしなされて下くださりませ

「申し、ご免なされ。わたしはあの女にちょっと話がございまして参りました。手間は取りませぬ、ちょっとの間、お貸しなされてくださりませ。」

引捕ひきとらへんと立寄たちよるを、やらじと支ささゆる女房にようばうが、頭巾づきんを脱ぬげば

引き捕らえようと立ち寄るのを、やるまいと支える女房が、頭巾を脱げば。

ヤアわりや女房にようばうおやす

「やあ、われは女房おやす。」

旦那様だんなさま主水殿もんどどの、チエヽお前様まへさまはなア

「旦那さま、主水どの。ちえ、お前さまはなあ。」

私わたしが言いへば悋気りんきらしう、思召おぼしめしも御座ござんせうと、白糸殿しらいとどのを頼たのみ意見いけんして下くだされと、頼たのみに来きたも御家おいへが大事だいじ、又また二ふたつには娘むすめのお徳とく、お前様まへさまが翌あすが日ひお暇いとまとなるときは

「わたしが言えば悋気らしくお思いにもなろうと、白糸どのに頼んで意見してくだされと、頼みに来たのもお家が大事。また二つには娘のお徳。お前さまが明日にもお暇となるときは。」

何なにを生計たつきに暮くらさうぞ、弁わきまへのない子心こごころにも、私わたしが顔かほの痩やせたのを見みて他処よそながら父様ととさまへ、御意見ごいけん申まうしおつとめと、ませたとりなし可愛かはいさは

「何を生計に暮らしましょう。分別のない子供心にも、わたしの顔の痩せたのを見て、よそながら『父さまへご意見申し、おつとめ』と、ませたとりなしの可愛さは。」

もし私わたし許ばかりの子こぢやないに

「もし、わたしばかりの子ではございませぬのに。」

親おやらしい事こともなく無得心むとくしんは何故なにゆゑぞ、いかなる天魔てんまが魃みりしぞ、夫それに付つけても白糸殿しらいとどの

「親らしいこともなく、得心のないのはなぜぞ。いかなる天魔が魅入ったのぞ。それにつけても白糸どの。」

斯かうした勤つとめの身みの上うへで、驚おどろき入いつた心こころの橾みさを、夫それに引替ひきかへお前まへの行跡ぎやうせき、緋鹿子ひがのこの扱帯しごきは何事なにごとぞ、イヽエなア、此このお髪ぐしの結様ゆひやう、是これが鎌倉かまくら御直参ごぢきさんの風俗ふうぞくで御座ござんすかこれ

「こうした勤めの身の上で、驚き入った心の操。それに引き替えお前さまの身持ちは——緋鹿の子のしごきは何事ぞ。いいえなあ、このお髪の結いよう、これが鎌倉御直参の風俗でございますか、これ。」

十九じふくや廿はたちぢやあるまいし、情なさけないお心こころやと、真実心しんじつしんの強意見つよいけん、白糸しらいと涙なみだ押おし拭ぬぐひ

「十九や二十歳ではあるまいし、情けないお心や」と、真実心の強意見。白糸は涙を押しぬぐい。

此この年月としつき御新造様ごしんぞさまの御苦労ごくらうを、余処よそに見みなして聞入ききいれず、二言ふたことめには今いまの様やうに、訳わけも聞きかずに打ぶち打擲ちやうちやく、爰ここに御座ござんしたがあなたなりやこそよけれ、他所よその武士衆ぶししゆうなら座敷ざしきへ這入はいる不法者ふはふものと、咎とがめられたら何なんとしやんす、エヽさうした邪慳じやけんなお前まへでも

「この年月、ご新造さまのご苦労をよそに見なして聞き入れず、二言めには今のように訳も聞かずに打ち打擲。ここにおいでなのがあなたゆえよいものの、よその武士衆なら座敷へ入る不法者と咎められたら何となさいます。ええ、そうした邪慳なお前さまでも。」

堰せかれて後のちは身みを狭せばう、一目ひとめ忍しのぶが味気あぢきなく、ありとあらゆる嘘うそ言いうて

堰かれてのちは身を狭く、人目を忍ぶのが味気なく、ありとあらゆる嘘を言って。

客きやくに無心むしんも誰故たれゆゑぞ、みんなお前まへに入揚いれあげて、部屋著へやぎ共ともに身みを投掛なげかけ、身悶みもだえすること道理だうりなり

客に無心をするのも誰ゆえぞ。みんなお前に入れあげて——部屋着とともに身を投げかけ、身悶えするのも道理である。

おやすは軈やがて金子きんすの包つつみ、取出とりいだして前まへに置おき

おやすはやがて金子の包みを取り出して前に置き。

此このお金かねにて何角なにかと諸払しよばらひ、肩身かたみを広ひろう帰かへらしやんせ

「このお金で何かと諸払いをすませ、肩身を広くしてお帰りなされませ。」

あやまつたあやまつたお糸いと其方そなたの親切しんせつおやすが心配しんぱい、今いまといふ今いま骨身ほねみに染しみて何なんといふ言葉ことばもない、今迄いままでと違ちがふて其方衆そなたしゆうが相談さうだんづくで、俺おれが身体しんだいを思おもふて呉くるるもの、何なに悪わるく思おもふものか、了簡れうけんしてくれ二人ふたりの者もの

「あやまった、あやまった。お糸、そなたの親切、おやすの心配、今という今骨身に染みて、何という言葉もない。今までと違ってそなたたちが相談ずくで、俺の身の上を思ってくれるものを、なんで悪く思うものか。了簡してくれ、二人の者。」

心直こころなほきは折をれやすく、真実しんじつ見みへて頼たのもしき

心の直き人は折れやすく、真実が見えて頼もしい。

そんなら翌あすは出勤しゆつきんを届とどけに出でて下くださんすかへ

「それなら明日は出勤の届けに出てくださいますかえ。」

夫それぢやといふて勤道具つとめだうぐも何なにもかも

「そうは言っても、勤めの道具も何もかも。」

ハテ其その心当こころあてがなうて何なんのお前まへに、勤つとめて呉くれいと言いひませうかいな

「はて、その心当てがなくて、何でお前さまに勤めてくれと言いましょうかいな。」

何事なにごともおやすさんと話合はなしあふてある程ほどに、今宵こよひは何卒なにとぞ

「何事もおやすさんと話し合ってありますほどに、今宵はなにとぞ。」

是非ぜひ帰かへれと言いふのか、道みちが不用心ぶようじんだのに

「是非帰れと言うのか。道が不用心だのに。」

什麼そんな憶病おくびやうなお武家ぶけさんがあるものかいなア

「そんな臆病なお武家さんがあるものかいなあ。」

サア其その武士ぶしが嫌きらひ故ゆゑ

「さあ、その武士が嫌いゆえ。」

女房にようばうに許ばかりあやまつて居ゐるやつさ、サア往ゆかうと立上たちあがれば

「女房にばかりあやまっているやつさ。さあ行こう」と立ち上がれば。

かねて覚悟かくごの白糸しらいとが、主水もんどの側そばに寄添よりそて

かねて覚悟の白糸が、主水のそばに寄り添うて。

必かならずともにお近ちかいうちに

「必ずともに、お近いうちに。」

誰たれが来くるものか、此この新宿しんじゆくの二階にかいも見納みをさめ

「誰が来るものか。この新宿の二階も見納め。」

そんなら是これが永ながい別わかれに

「それなら、これが永い別れに。」

ヤア

「やあ。」

御新造様ごしんぞさま

「ご新造さま。」

お糸殿いとどの

「お糸どの。」

ドリヤ帰かへらう

「どりゃ、帰ろう。」

と名残なごりはをしの別路わかれぢや、衾ふすまをわけて倶涙ともなみだ、堰せきとめかねる女気をんなぎの、誠まことの心こころは女房にようばうの、其その言ことの葉はや白糸しらいとが、胸むねに満来みちくる濁にごり水みづ、果はてしなみだの憂うき思おもひ、心こころ残のこして出でて行ゆく

と、名残は惜しの別れ路や。衾を分けてもろともの涙、堰きとめかねる女心の、誠の心は女房の、その言の葉よ。白糸の胸に満ちてくる濁り水、果てしない涙の憂き思い、心を残して出てゆく。

この曲は常磐津。詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第四編 常磐津集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開し、合方の指示は省いた。

原典は上下二巻に分けて載せるが一曲なのでひと続きにした(上三十六段・下五十段)。資料目次には括弧書きで「白糸主水」とある。作詞者・作曲者・初演年は原典に記載がない。

内藤新宿の遊女白糸と鎌倉御家人白井主水の情話「白糸主水」による。曲名は「主は誰、糸の春雨」の意で、白糸の名と糸の縁語を掛ける。

「橋本」は内藤新宿の旅籠屋の名。「住替」は勤めの店を替わること。「間夫」は遊女の情人。

「鉄棒」は郭の夜回りが引いた金具付きの棒。「忍び駒」は三味線の音を消す駒。

「手鍋提げようと」の一段は当時の流行り唄の文句を取り込んだもの。

「二世と堀の内」は入れ墨(起請彫り)のこと。「彫り」に「堀の内」を掛ける。

「緋鹿子の扱帯」「お髪の結様」を咎めるのは、主水の伊達な廓通いの拵えを女房がたしなめるくだり。

「翌が日お暇となるときは」は、主家から改易されることをいう。

「天魔が魃りし」の「魃」、「心の橾」の「橾」は原典の用字のまま残した。それぞれ「魅」「操」の意と思われ、読みもそのように推定した。

次の語は意味の定まらないところで、推測で埋めず原典のまま残した。「染てしんくの八重結」「深く鳴子の野暮らしい」「たゞよの事」「虚外」「つい切れやすくほくろびて」「気も紫色の胴抜」。

流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。