お光狂乱おみつきょうらん
常磐津 瀬川如皐 述 本名題『初恋千草の濡事』 別題『お光物狂』 作曲者・初演年不詳

『新版歌祭文』のお染久松ものによる物狂い。夕立の上がった大川端で、楊弓場の矢取り娘お竹と若い者の長吉が行き合う。そこへ、許嫁の久松がお染と駆落ちしたと聞いて心を乱したお光がさまよい出る。二人はお守りで加持を試みるが、お光は振り切って走り去る。あとは長吉とお竹の睦言、筏で流れ着いた悪者の善六との掛合いと蛙の物真似の滑稽に移り、落ちた一通の手紙が宝の詮議の手掛かりと知れて幕になる。
あらすじ
篠を束ねて突くような夕立が上がり、空も晴れた大川端。川辺は浮き立つ涼み船、名代の楊弓場では矢取り娘がお客の的をそらし、船頭は芸者の口約束をあてにする。飽きられて散る木の葉のようにと嘆く声を、畜生めが粋がると笑い合いながら、駒止から石原のあたりへ浮かれて来る。両国に店を出す矢的屋のお竹と、旦那を小梅の別荘まで送った帰りの長吉が行き合い、互いの回り道を怪しみ合う。折から向こうの川辺で人々の囃す声がする。囃し立てられ、道端の露のような涙をこぼして恨みごとを言うのは、男ゆえに心を乱した娘であった。縁を結んだ甲斐もなく糸萩を散らす野分の無情。行方はどこへと白露の、お光が心は乱れ髪。盛りも見せずに散るのなら、いっそ連れて行ってもくれないでと嘆けば、川の面には憎らしいほど仲よく浮き寝の鳥。二人が立ち寄って見れば、それは久松の許嫁、野崎のお光であった。派手な噂を聞くだけでも癪を覚え、在所生まれでも許嫁といえば女房も同じもの。言わずにくよくよと過ごすうち、お染を連れて駆落ちと聞いて身も世もなく、我が夫を返せとつれない人を追い、姿もしどけなく伏し転ぶ。可哀想にと二人は、水天宮の守りと大山の守り太刀で悪魔を払おうと、彦山・讃岐・松山・白峰・伯耆・大山・葛城・山上・大峰・釈迦が嶽と山の名を並べ立て、にわか仕込みの行者ぶりで加持をする。だがお光はすっくと立ち、恋しい人はありやなしやと都鳥に問い、とめる手を振り切って川岸を走り去る。あとに残った二人は、柳湯へ行くたびの気休め口、染め浴衣に鳴海の比翼紋と睦言を交わし、乗り換え船か送り船かときりもない。そこへ筏の上で息を吹き返した悪玉の善六が、お染久松を逃さぬぞと藪から棒。長吉と睨み合ううち手紙が落ち、腰の立たぬ善六は蛙のようにひょいひょいと跳ねさせられる。一ひょこ三ひょこ、油屋のお染がじょなじょな、妙見の柳島、久しい松の白蛇で参ろうと、へいこでちょんの囃子に乗って追い回すうち、封を切れば宛て名は善六さまへ、横島弥仲太。宝の行方を詮議する手掛かりであった。別荘の旦那へ持って行かれてたまるかと気をもむ折から、大川へ屋台囃子の大茶船。その囃子につれて善六を、小梅の別荘へと連れて行くのであった。
詞章と現代語訳
篠を束ねて突くやな雨に、濡夕立の空晴て
篠を束ねて突くような激しい夕立が上がって、空も晴れて。
ヲヽイヲヽイ長吉さん、一緒に行から待てお呉なよ
「おおい、おおい、長吉さん。一緒に行くから待っておくれよ。」
川辺うきたつ涼み船、名代名うての楊弓に、箭取娘の仇者はお客の的もそんじよそれ、船を舫ひて船公は芸者の口を約束の
川辺は浮き立つ涼み船。名代で名うての楊弓場では、矢取り娘の仇っぽいのがお客の的をそれとなくそらす。船を舫って船頭は、芸者の口約束をあてにする。
あきられて散るや木の葉の私の身にも仇な嵐が吹わいな
「飽きられて散る木の葉のように、わたしの身にも仇な嵐が吹くのですわいな。」
畜生め、心意気をやりやアがる、其通りだらう
「畜生め、粋がってみせやがる。そのとおりだろうよ。」
ヲヤお気の毒
「おや、お気の毒さま。」
あじに搦んで駒止の、石原近く浮れ来る
妙にからみ合いながら、駒止から石原のあたりへと浮かれて来る。
矢的屋のお竹さん、両国へ店を出しながら、此河岸通へ廻り道かへ
「矢的屋のお竹さん。両国に店を出していながら、この河岸通りへ回り道かえ。」
夫でも先刻の夕立で夜店も張て居られぬ故、中の郷の姉さんの所へ、用達に行た帰りがけ
「それでも、さっきの夕立で夜店も出しておられぬゆえ、中の郷の姉さんの所へ用足しに行った帰りがけ。」
其中の郷が怪しいな怪しいな
「その中の郷が怪しいな、怪しいな。」
イエ私よりお前こそ、何と思つて今頃に、此川端を唯一人で
「いえ、わたしよりお前こそ。何を思ってこんな時刻に、この川端をただ一人で。」
ハテお前も知つて居る山家屋の、別荘迄旦那を送り、船は小梅の締切へ、頼んで置て両国迄の行がけだ、マア何にしてもいゝ所で逢た
「はて、お前も知っている山家屋の別荘まで旦那をお送りして、船は小梅の締切へ頼んで置いて、両国までの行きがけだ。まあ何にしても、いい所で逢った。」
話して行なと夕潮の、彼方の川辺に声々に
話しながら行こうという夕潮どき、向こうの川辺に人々の声がして。
気違よ気違よ
「気が違うておるぞ、気が違うておるぞ。」
囃し立られ道柴に、露の涙のかこち草、男故にや狂ふらん
囃し立てられ、道端の柴に置く露のような涙をこぼして恨みごとを言う。男ゆえに気が狂うたのであろうか。
結びてし甲斐も縁の糸萩と、散す野分のうたてやつらや、行方何処と白露の、お光が心乱れ髪、さらさら更にわくかたも、泣てひぐらし夫かうろげは、野暮とやらぢやと笑ふは花の、八重に色付く一重に開く、こちの心は汲もせで、余所にかはした妹脊草、盛りも見せで散るならば、共に連てはくれもせで、エヽ憎い程尚川の面、水に中よき浮寐鳥、二人は夫と立寄て
縁を結んだ甲斐もなく、糸萩を散らす野分のように無情でつらいこと。行方はどこへと白露の——お光の心は乱れ髪。さらさらと、さらに分けようもなく、泣いて日を暮らす。それをうろたえるのは野暮とやらだと笑うのは花の心か。八重に色づき、一重に開く。こちらの心は汲みもせず、よそへ交わした妹背の契り。盛りも見せずに散るのなら、いっそ一緒に連れて行ってもくれないで。ええ、憎らしいほどなお、川の面には仲よく浮き寝の鳥。二人はそれと見て立ち寄って。
ソリヤ此子が野咲のお光さんかへ
「そりゃ、この子が野崎のお光さんかえ。」
そうよ久松殿の許嫁
「そうよ、久松どのの許嫁。」
何ぢや久松さんぢやと胸づくし
「何じゃ、久松さんじゃ」と聞いて、胸が塞がる思いである。
アヽコレサどうするどうする
「ああ、これさ、どうする、どうする。」
ヱヽ聞へぬわいナア久松さん
「ええ、合点がゆきませぬわいなあ、久松さん。」
はでな噂を聞てさへ、癪といふものつい覚へ、在所生れの私でも、許嫁すりや女房ぢやもの、悋気の仕様は知ながら、言で月日をくよくよと、松に時雨のお染さん、連て倶々駆落と、聞て身も世もあら憎や、我夫かへせうき人を、其処か爰かと追風に、姿しどなく伏転ぶ
「派手な噂を聞いただけでも、癪というものをつい覚えました。在所生まれのわたしでも、許嫁といえば女房も同じもの。悋気のしようは知りながら、言わずに月日をくよくよと過ごすうち、松に時雨のお染さんを連れて駆落ちしたと聞いて、身も世もなく、ああ憎らしい。わたしの夫を返しておくれ」と、つれない人をそこかここかと追う風に、姿もしどけなく伏し転ぶ。
これは飛だ掛り合だはへ
「これはとんだ関わり合いだわえ。」
可愛想にどうぞして、気の静まるお守は御座んせぬかへ
「可哀想に。どうにかして、気の静まるお守りはございませぬかえ。」
さうよナア、守といつては何もない、水天宮様と此間先達から大山の守太刀、是で悪魔をさつぱりと
「そうよなあ。お守りといっては何もない。水天宮さまと、先だって先達からもらった大山の守り太刀。これで悪魔をさっぱりと。」
払ひ清め奉る、お御嶽石尊大権現、抱て念願上首尾と、君が袖褄彦山讃岐にどうぞ逢夜を松山も、先ぢや白峰白耆に御苦労、大山葛城夜山にしつぽり中宿へ、山上大峰釈迦が嶽
「払い清め奉る。お御嶽、石尊大権現。抱いて念願かなえば上首尾と、あなたの袖褄——彦山、讃岐に、どうぞ逢う夜を待つという松山も。先では白峰、伯耆にご苦労。大山、葛城、夜山にしっぽり中宿へ。山上、大峰、釈迦が嶽。」
こけの行者の御祈念に、慎み給ふと加持しける
にわか仕込みの行者のご祈念に、「慎み給え」と加持をするのであった。
お光はすつくと
お光はすっくと立ち上がり。
アレアレアレそれそれそれ
「あれあれあれ、それそれそれ。」
恋しき人を都鳥、ありやなしや現なく、とめるを払ひ振切て、あてどと波の川岸を、狂ひ慕ふて走り行く
恋しい人はありやなしやと都鳥に問う。正気もなく、とめる手を払い振り切って、あてどもない波の川岸を、狂い慕うて走ってゆく。
コレコレ姉さん待ねへよ待ねへよ
「これこれ姉さん、待ちなよ、待ちなよ。」
夫ぢやといふてアノ様に気が違ふて居る物を
「そうは言っても、あのように気が違うておるものを。」
夫だからあぶねへわナ、ヲイ姉さん姉さん
「それだから危ないわな。おい、姉さん、姉さん。」
のび上る引寄て
伸び上がるのを引き寄せて。
お前も余程浮気者だね、女子さへ見りや誰彼の、ほんに嫌ひも夏木立、アノ柳湯へ行度に、気休め口を真に受けて、夫と思ふて染浴衣、まゝ鳴海の比翼紋、末は互ひにどうして斯してと、辛気しかくも女気の、明て言れぬ胸の内
「お前もよほどの浮気者だね。女子さえ見れば誰彼かまわず。ほんに、嫌いも何もない夏木立。あの柳湯へ行くたびに、気休めの口をまに受けて、あの人と思って染めた浴衣に、ままよと鳴海絞りの比翼紋。行く末は互いにどうしてこうしてと、じれったくもある女心の、打ち明けては言えぬ胸のうち。」
察して呉たがよいわいな
「察しておくれたがよいのですわいな。」
へゝなぞと体よく其方から、船の舳と突出すて、乗かへ船か送り船
「へへ、などと体よくそっちから船の舳先を突き出すが、乗り換え船か、それとも送り船か。」
ヲヤよしてもお呉れと果しなき
「おや、よしておくれ」と、きりもない。
河辺に漕寄る筏より息吹返す善六が
川辺に漕ぎ寄る筏の上で、息を吹き返した善六が。
アヽ苦しい苦しいうぬはお染久松逃さぬぞと、藪から棒
「ああ苦しい、苦しい。うぬはお染、久松、逃がさぬぞ」と、藪から棒である。
ヤわりやア悪玉の善六だナ
「や、われは悪玉の善六だな。」
そういふおのれは若竹の長吉か
「そういうおのれは若竹の長吉か。」
いゝ所へうしやアがつたな
「いい所へ出やがったな。」
二人の奴等は何処へ迯した、お染ヤイ
「あの二人はどこへ逃がした。お染やい。」
什麼な事は知ぬわいな
「そんなことは知らぬわいな。」
と言間に落たる手紙を見つけ
と言ううちに、落ちた手紙を見つけ。
ヲヤ面白さうな此文は
「おや、面白そうな、この手紙は。」
ヲツト大切の其の手紙
「おっと、それは大切な手紙。」
サア取て見やれ
「さあ、取ってみやれ。」
サア取て見やれ取て見やれと差出せば
「さあ、取ってみやれ、取ってみやれ」と差し出せば。
どつこいさの文
「どっこいさの、恋の文。」
取んとすれど腰が立ぬ
取ろうとするけれど、腰が立たない。
蛙のやうにひよいひよいとお飛
「蛙のように、ひょいひょいとお飛び。」
ひよいひよいと飛ぞ、ひよいひよいひよいひよい
「ひょいひょいと飛ぶぞ。ひょい、ひょい、ひょい、ひょい。」
蛙一ひよこ三ひよこ三ひよこ
「蛙、一ひょこ、三ひょこ、三ひょこ。」
油屋お染がじよなじよなじよ蚰蜒
「油屋のお染が、じょなじょな、じょ、げじげじ。」
番頭さんは這々此奴は妙見柳島
「番頭さんはほうほうの体。こいつは妙見の柳島。」
久しい松の白蛇で参りやせう
「久しい松——その久松の、白蛇でお参りいたしましょう。」
へいこで
「へいこで。」
ちよん
「ちょん。」
へいこで
「へいこで。」
ちよん
「ちょん。」
へいこでへいこで
「へいこで、へいこで。」
ちよちよんがちよん、ちよんちよんちよん
「ちょ、ちょんがちょん。ちょん、ちょん、ちょん。」
追かけ廻る其内に、以前の手紙の封を切り
追いかけ回すそのうちに、さきほどの手紙の封を切り。
シテ其名宛は
「して、その宛て名は。」
善六様へ、横島弥仲太
「善六さまへ——横島弥仲太。」
宝の行端を詮議の手掛り、コリヤいゝ物が手に入たはへ
「宝の行方を詮議する手掛かりだ。こりゃ、いい物が手に入ったわえ。」
寮に御座んす旦那の所へ
「別荘においでの旦那の所へ。」
持て行れてたまるものか
「持って行かれてたまるものか。」
気をもむ折柄大川へ、家台囃しの大茶船、囃子につれて善六を、小梅の寮へぞ
気をもむ折から、大川へ屋台囃子の大茶船。その囃子につれて善六を、小梅の別荘へと。
よいやサ
「よいやさ。」
ヲイタヽ連て行く
「おいたた」と言うのを、連れて行くのであった。
この曲は常磐津。詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第四編 常磐津集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開し、合方の指示は省いた。
詞は瀬川如皐。本名題は『初恋千草の濡事』。原典の資料目次には括弧書きで「お光物狂」とある。作曲者・初演年は原典に記載がない。
近松半二らの『新版歌祭文』にもとづく。野崎村の娘お光は久松の許嫁だが、久松は油屋の娘お染と結ばれる。その駆落ちを知ってお光が心を乱すのが、この曲の眼目。
場所は隅田川の東岸。駒止・石原・中の郷・小梅・柳島・両国と、川筋の地名が次々に出る。
「楊弓」は小さな弓で的を射る遊び場。「箭取娘」はそこで矢を拾い集める娘で、客あしらいもした。
「野咲」は野崎の当て字。原典のまま残した。
「白耆」は伯耆の当て字。原典のまま残した。
お守りで加持をする一段は、彦山・讃岐・松山・白峰・伯耆・大山・葛城・夜山・山上・大峰・釈迦が嶽と、修験の霊山の名を並べた山尽くし。あいだに「逢う夜を待つ」「しっぽり中宿へ」と色事の文句を挟みこむ地口になっている。
「久しい松の白蛇」は久松の名を「久しい松」に言い掛けたもの。蛙の物真似から妙見の柳島へ続く一段は、囃子詞と地口だけでできた滑稽で、筋の運びとは別に聞かせどころになっている。
「へいこでちよん」「ちよちよんがちよん」は囃子詞。
原典には、今日では使わない言い方も含まれる。校訂本文には手を加えず、現代語訳のほうで言い換えた。
次の語は意味の定まらないところで、推測で埋めず原典のまま残した。「夫かうろげ」「辛気しかく」「じよなじよなじよ」「ヲイタヽ」。「こけの行者」はにわか仕込みの行者と解したが、確かめられなかった。
流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。